渡良瀬川沿岸の鉱毒調査

 祖父の古在由直は、一八九五年から五年間ヨーロッパに滞在し、帰国して東京大学農学部教授になった。そのころ、より深刻さを増していた渡良瀬川鉱毒事件のための、政府の鉱毒調査委員会の委員も仰せつかった。その委員会で、「渡良瀬川沿岸全域の鉱毒調査」を主張したが、政府側は予算がないと応じない。そこで祖父は、「それなら自分でやる」と言い放った。自分でやるといっても、当然調査には人手がいる。そこで、東京大学や第一高等学校などの学生に応援を求めた。  学生達の役割は、区画ごとから、サンプルの土壌を採ってくることであった。足尾銅山側はその妨害を始めたので、その仕事は命がけでもあった。サンプルは駒場の実験室で分析された。由直は後に、「あの時が一番忙しかった」、妻である祖母は「誘惑や脅迫があったのだ」と、振り返ったそうである。  この仕事は完成し、調査委員会に提出された。この分析結果は、区画ごとに立派な和紙に書かれていた。我が家では、一九四〇年代まで、これを便所の紙として使っていた。下書きであったらしく、朱も入っていた。四十年も使われるほどの枚数であったのだ。  由直は一九〇三年、東京滝野川(北区)の西ヶ原にあった農事試験場の場長になり、東大教授とともに、一九一九年に東大総長に選ばれるまで続け、西ヶ原の官舎に住んでいた。そこで、父親の由正も、西ヶ原で育った。  古在家と幣原家はともに教育者の家であったが、気風はかなり違っていた。幣原家のほうが典型的な教育者の家であり、古在家のほうはかなり型破りである。  私の母親が通った小学校は、東京女子高等師範学校の付属である。五年生の時、広島高等師範学校の付属に移った。それから県立広島女学校(県立は一つしかなかった)に入り、卒業する頃には、祖父が東京に移ることが分かっていたので、東京に出て、女高師付属高女の専攻科で学んだ。  一方、父親は、近所の滝野川小学校から、京北中学に進んだ。西ヶ原から文京区の京北中学までは、かなり距離があるが、一番近い中学であり、徒歩で通ったらしい。  父の弟の由重(一九〇一〜一九九一)も同じ途をたどったが、中学ではかなりの悪童だったらしい。残っている通信簿を見ると、操行は甲乙丙丁戊の評価で一番下の戊がついている。それでも両親は気にかけなかったらしい。

私が生まれたころ

 父母が結婚したのは一九二四年で、父は当時の鉄道省の電気技師であった。結婚当初は、小石川(文京区)駕籠町の家で、両親、父の二人の弟と同居し、姉が生まれて、駒込(豊島区)の家に移った。私はそこで生まれた。  私の兄弟は、一九二六年から一年おきに、女、男、女、男、女の順で生まれた。しかも誕生日が三月から五月の間で、私の誕生日は四月一日である。祖母は、男の子は贅沢をさせてはいけないと、姉と私の菓子の質などに差をつけたらしい。母親は、姉を付属小学校に入れたかったのだが、祖母に反対され、近所の小学校に通うことになった。私も同じ小学校に入学した。幼稚園にも行かなかったが、両親は四月一日が早生まれとは知らず、あと一年あると思っていたらしい。  こんなことで、母は結婚してからかなりとまどったに違いない。しかし、祖父は母をとても気に入り、頼りにもしたらしい。結婚したころから、両親とも病床に臥していることが多かったので、別居しても、母はほとんど毎日、駕籠町の家に見舞いに行っていたらしい。母も祖父をとても尊敬していた。  夫である私の父も、自分の父親とはかなり異質な存在だった。収入がよいこともあって、父は毎日のように外で酒を飲んできたらしい。一九三〇年頃、父は一年間万国鉄道会議に出席のため、世界一周旅行に出かけた。その間父は休職になり、月給の三分の一が支給されたそうであるが、母によれば「その時が経済的に一番楽だった」という。  父の八歳下の叔父由重は、大学時代から仲が良く、後に岩波書店の編集者になった吉野源三郎、粟田賢三さんと、毎日のように家に集まって、議論をしていたらしい。祖父は酒も飲まずに議論に熱中している叔父たちを好ましく思っていたそうだが、その議論は共産党に協力すべきかどうかが主題だったらしい。  祖父は病気療養のため、私の生まれた一九二八年に任期半ばで職を辞し、祖母とともに家で静養していた。そしてその五年後、叔父が治安維持法で逮捕されるという事件が起きた。容疑は、共産党への資金提供と、機関誌への寄稿などの活動であった。こうなると、祖父母の看病に加えて、警視庁への差し入れなどの仕事が母に課せられた。これも、幣原家では考えられなかったことである。  叔父が留置場で病気になり、仮釈放されて帰宅する直前、息子の食事の用意をしていた祖母が倒れ、意識を回復せずに亡くなった。そして、その翌年の夏に、祖母がこの世を去った。両親が病気ということで、転勤を免除されていた父は、その後すぐに門司鉄道局に転勤となり、単身赴任した。家族は駕籠町の家で、独身の二人の叔父とともに暮らしていた。ところが、翌年の夏、父が休暇で東京に戻っている間に脳溢血で倒れた。まだ四十一歳で、私は小学校二年、一番下の妹は一歳にもなっていなかった。父はそれから丸十年間、半身不随で、杖をついて少し歩くことはあったが、病床生活を送ることになる。

(つづく)