あらまし

慶長遣欧使節について


1.1613年10月28日、サン・フアン・バウティスタ号で牡鹿半島月浦からローマへ向けて出帆
2.慶長遣欧使節の一大事業は1611年「慶長津波」から2年目のできごとだった
3.1614年6月10日、スペイン戦艦でメキシコからヨーロッパへ
4.1614年10月にスペインに到着 地中海、そしてローマへ
5.1618年4月、サン・フアン・バウティスタ号で帰国の途へ
6.2011年3月の大震災を乗り越えて
7.日本スペイン交流400周年
8.使節が持ち帰った慶長遣欧使節資料


1.1613年10月28日
サン・フアン・バウティスタ号で牡鹿半島月浦からローマへ向けて出帆


牡鹿半島にあった港・月浦(つきのうら)を、遠くイタリア、ローマへ向けて「サン・フアン・バウティスタ号(西語:San Juan Bautista)」が出帆したのは、今からちょうど400年前、1613年10月28日(慶長18年9月15日)のことだ。「サン・フアン・バウティスタ」とは、「洗礼者聖ヨハネ」から名づけられ、その由来は造船に携わったスペイン人ビスカイノと伊達政宗の江戸市中での出会いの日(1611年6月24日)が、洗礼者聖ヨハネの祭日に当たっていたからだと推測されている。

サン・フアン・バウティスタ号は、のちに「慶長遣欧使節」と称される総勢180人を乗せて、まずはメキシコを目指した。使節には、仙台藩士の支倉六右衛門常長、今泉令史、松木忠作のほか、幕臣向井将監の家来10人、宣教師ルイス・ソテロ、司令官ビスカイノをはじめとする南蛮人約40人、商人などが含まれていた。
この長い旅の目的には諸説あるが、奥州仙台藩62万石の初代藩主・伊達政宗(1567~1636)からスペイン国王・ローマ教皇にあてた親書には、2つの目的が書かれている。一つは仙台藩領内でのキリスト教の布教を許可するので、宣教師の派遣を希望すること、二つ目は、スペインの植民地メキシコとの通商を実現させるため、それを許可願いたいということである。さらに、スペイン王国宛の協定案にはスペイン人に対する治外法権を認め、スペインと敵対関係にあるイギリス、オランダ人らが領内に渡来した場合は崇敬しないとすること、などが記されていた。

<慶長遣欧使節と日本、仙台の動き>

2.慶長遣欧使節の一大事業は
1611年「慶長津波」から2年目のできごとだった


実は、慶長遣欧使節が出帆する2年前、1611年12月2日、太平洋沿岸を「慶長津波」が襲っていた。海水は広い範囲に及び、死者は1000人余りともいわれ、大きな被害だったという。
この大津波を受け、伊達政宗は、海岸部を中心にした河川の復旧・改修、湊町の整備、湖沼・運河の開発に取り組む。そして、藩内産業の発展を目的とする復旧・復興の一環として、海外との交流へ目を向け、貿易の構想から使節派遣構想が生まれたとの新たな見解もある。
1611年10月、ソテロの説教を聞き城下でのキリシタン布教を自由にした政宗は、ローマ教皇あてに使節を送ることをすすめられており、ビスカイノの配下にある水夫たちや幕府船奉行の指揮と協力を得て、造船に着手した。造船に必要な材木は仙台藩領から切り出し、杉板は気仙、東山(岩手県東磐井地方)方面から、フレーム(肋骨)用の曲木は片浜通り(気仙沼地方)や西磐井・江刺から調達された。
そして高さ14間余、船の長さ18間という500トン以上もの大型帆船が完成した。それがサン・フアン・バウティスタ号だ。
慶長遣欧使節の大使に抜擢されたのが支倉常長だ。任命当時は実父の罪で追放の処分を受けている身だったが、それ以前、豊臣秀吉による朝鮮出兵のなかで主君政宗とともに渡海経験をしており、また、戦時に伝令使や巡察者となる使番の一人として政宗の側近くで活躍していた。伊達政宗がその経験を見込んで、使節を率いる大役を命じたともいわれている。

3.1614年6月10日
スペイン戦艦でメキシコからヨーロッパへ


出帆から約3カ月後の1614年1月28日(25日、または29日とも)、サン・フアン・バウティスタ号は、スペイン領メキシコの太平洋岸にあるアカプルコ港に到着。陸路メキシコ市に向かい、メキシコを訪れた日本人のうち78人が洗礼を受けた。メキシコ副王は、ソテロからは徳川家康と伊達政宗の友好的な書状を手渡され、ソテロを嫌悪するビスカイノからは、使節が日本の国情にあわないものであることを聞かされ、戸惑いを隠せなかった。
メキシコ市を出る際、気候や海賊船などによる渡航の困難を考慮し、支倉常長をはじめとする欧州に向かう者と、メキシコに留まる者に分かれ、使節の数は約30名にしぼられた。一行は、副王から歓迎するようにという指令を受けていたプエブラ・デ・ロス・アンヘルスなどを経由して、同年6月10日、スペイン艦隊に乗船し、大西洋岸のサン・フアン・デ・ウルーアの港を出発した。アカプルコに抑留されていたサン・フアン・バウティスタ号は、1615年8月に浦賀に到着、太平洋を往復した日本で最初の船となった。

慶長遣欧使節の推定行程図(全図)



慶長遣欧使節の推定行程図(メキシコ)



※『仙台市史 特別編8 慶長遣欧使節』(仙台市/2010)参考

4.1614年10月にスペインに到着
地中海、そしてローマへ


1614年10月5日、一行はスペインのサンルカールに無事入港。ソテロの出身地であるセビリアや、首都マドリードなどでも、大歓迎され盛んなもてなしを受けた。翌1615年1月30日、スペインとポルトガル両国に君臨していたフェリーペ3世から、王宮で謁見を賜り、支倉常長は2月17日に洗礼を受け、フィリッポ・フランシスコ・ファシクラとの洗礼名を受けた。
しかしマドリードには、すでに日本の宗教弾圧の様子などが伝わっていた。このような不利な状況の下、フェリーペ3世は、「宣教師の派遣は可。寄宿舎、神学校の設置に関わる費用負担は不可。通商の件についてはオランダ人との交通や保護をしないことを前提に前向きに検討する」と返答し、使節らのローマ行きを許可した。
ようやく地中海をイタリアへと船を進めた使節は、ジェノヴァからローマに到着。10月29日、華々しいローマ入市式の後、11月3日、教皇パウロ5世との謁見を果たした。スペインに上陸してから1年余のことだった。
バチカン宮殿の枢機卿会議室に、青と白の礼服で出席した支倉は、教皇の前に三度ひざまずき、パウロ5世の足に接吻した。支倉は「敬服すべき、落ち着いた、有能な、ことば遣いのていねいな、控え目な」人物であったと激賞されている。その上、支倉及び使節の随員7人には、ローマ市の公民権が与えられ、支倉は貴族に列せられ数々の栄誉を贈られたのである。実在の日本人を描いた肖像画としては日本国内最古のものとされる『支倉常長像』も、このころに制作されたといわれている。
1616年1月7日にローマからの帰途についた一行だったが、スペインではマドリードへの立ち寄らずセビリアへ直行しメキシコへ向かうよう促される。スペインからの退去を強いられながらも、政宗の要望を一つでも実現させたいと、支倉らは八方手を尽くしたが、幕府のキリスト教禁止令の情報が知られ信用は失墜。1617年7月ごろには、追い立てられるようにしてメキシコへ向かって出発することになった。ローマでの約3カ月間を含め、3年弱もの間ヨーロッパに滞在した一行は、聖遺物の参拝や人々との交流を通してヨーロッパの文化を深く体験した。

慶長遣欧使節の推定行程図(スペイン)



※『仙台市史 特別編8 慶長遣欧使節』(仙台市/2010)参考


5.1618年4月
サン・フアン・バウティスタ号で帰国の途へ


一行は、1618年4月にメキシコのアカプルコ港から、迎えのために再び太平洋を越えてきたサン・フアン・バウティスタ号に乗ってマニラまで帆走した。ちなみに、サン・フアン・バウティスタ号が2度目の太平洋横断に出発したのは、1616年9月末のことだった。
しかし、マニラについた一行は便船の都合もつかず、長期間の滞在を余儀なくされてしまう。その間、スペインとオランダの衝突にまきこまれ、サン・フアン・バウティスタ号はスペインに買い上げられ、スペイン艦隊に編成された。
1620年9月22日(元和6年8月20日)、政宗への良い知らせを持たないまま、ようやくの思いで支倉は日本にたどりついた。船出の晴れがましさとは打って変わって、彼らを出迎えたのは、キリシタン迫害という苛酷な現実だった。
帰国まで足かけ7年の歳月が流れていた。
使節らの帰国の様子は不明だ。支倉は1621年(元和7)、52歳で没した。支倉家の墓所光明寺(仙台市青葉区)に支倉の墓があるが確実ではなく、川崎町や大郷町、大和町にも墓がある。宣教師ソテロはマニラで日本へ渡るのを妨げられていたが、1622年日本へ潜入すると捕えられ、1624年(寛永元年)8月25日、火刑に処せられた。波瀾に富んだ51年の生涯だった。
その後しばらく、使節派遣について多くが語られることはなかった。
それから支倉常長の存在が全国に知られるようになったのは、帰国から250年以上経った明治初めのことだ。イタリアに残された資料が発端となって研究が進められ、さらに第二次大戦後には慶長使節研究が本格化する。ようやく支倉常長が日本史の表舞台へ出ることとなったのだ。

出帆から380年後。1993年5月、サン・フアン・バウティスタ号が復元され、その3年後に「宮城県慶長使節船ミュージアム」がオープンし、再びその偉業が広く語り継がれることとなる。

6.2011年3月の大震災を乗り越えて

[慶長遣欧使節出帆400年]
出帆400周年を控えた2011年、東日本大震災による大津波が復元船サン・フアン・バウティスタ号とミュージアムを襲った。復元船の周囲を囲むドック棟が破壊され展示物の多くが流出。さらに復元船は4月末の暴風の影響でマストが折れ、修復が始まるまでの間に本体の腐食が進み大規模な修復が必要な状態になった。
しかし、400年という記念の年を盛り上げたいという強い思いは、県内外、世界の心を動かした。カナダから復元船の木材提供の申し出もその一つである。がれき撤去後の2012年4月には募金活動が始められ、この頃から復旧に向けた取組みが本格化。同年6月からはサン・ファンパーク、ドック棟の工事が開始、復元船に使用される木材も次々運び込まれ、ドック棟、復元船は、2013年秋の完成を目標に修復が進められた。
また、2012年12月に宮城県と関係団体が連携して「慶長遣欧使節出帆400年記念事業実行委員会」を設立。2013~2015年までの3年間で多くの記念事業が計画されている。なかでも、オペラ「遠い帆」の公演は大きな事業として注目を浴びている。
慶長大津波の2年後に実現した慶長遣欧使節。そして、東日本大震災から2年後の今年、復元船サン・フアン・バウティスタ号が復活を遂げ、出帆400周年の記念事業が始まることとなった。

7.日本スペイン交流400周年

[ハポンの町でもイベント]
慶長遣欧使節の派遣は歴史上、日本とスペインとの交流の端緒となった出来事である。
慶長遣欧使節出帆、そして日本とスペインの交流400周年に当たる2013年から2014年にかけて、スペイン側は日本で「日本におけるスペイン年」を、日本側はスペインで「日本スペイン交流400周年(スペインにおける日本年)」を開催する。日本側の名誉総裁に皇太子殿下が、またスペイン側の名誉総裁にはフェリペ皇太子殿下が就任された。
文化、政治、経済、科学技術、観光、教育など、幅広い分野での交流事業が予定されており、2013年6月には、マドリードの国立装飾美術館で「南蛮漆器:スペインに残された『日本』-慶長遣欧使節400周年-」展が行われた。このイベントに合わせて、支倉常長の13代目直系子孫として、支倉常隆氏が講演した。
また、使節の残留者の子孫との説がある「ハポン(日本)」姓の人々が住み、仙台市から支倉常長像が送られたスペイン南部の町コリア・デル・リオで「桜プロジェクト」が行われるなど、一行が立ち寄ったゆかりの地で観光イベントを実施した。ちなみに支倉常長像は、スペインをはじめ、友好の印としてイタリア、メキシコ、キューバなどへも贈られている。
慶長遣欧使節から続くスペインとの交流が、400年の時を経てさらに深まっていくことが期待されている。

8.使節が持ち帰った慶長遣欧使節資料

[「ユネスコ記憶遺産」に登録]
2013年6月19日、仙台市博物館が所蔵する国宝「慶長遣欧使節関係資料」のうち3件が、ユネスコ記憶遺産に登録された。
記憶遺産の推薦は、日本とスペインの共同で行われ、日本側の登録物件は3件、スペインの登録物件は94件であった。鎖国政策直前の日欧交渉を直接伝える遺産であるとともに、東西文化圏の交渉史上、また大航海時代の外交史にとって、貴重な史料であることが評価されたものだ。

<日本側>
国宝「慶長遣欧使節関係資料」のうち以下の3件
ローマ市公民権証書
支倉常長像
ローマ教皇パウロ五世像
<スペイン側>
国立インディアス文書館及びシマンカス文書館所蔵の資料のうち、慶長遣欧使節に関係する公文書。支倉常長がスペイン国王フェリーペ3世に宛てた書状や、支倉に同行した宣教師ソテロがスペイン国王やセビリア市に宛てて、使節派遣の経緯等について記した書状、徳川家康および秀忠がスペインのレルマ公に宛てた朱印状や、使節への対応に関するスペイン国内での会議の記録などを含む。

宮城県内には使節が持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」のほかにも、支倉常長ゆかりのものがある。
たとえば松島町の円通院三慧殿の厨子の右扉内部にかかれた西洋バラの絵は、支倉常長がヨーロッパから伝えた西洋文化の影響を受けたとされている。
また、使節がメキシコを訪れた当時、チョコレートを温めて飲む習慣が支配階級に広まっていたため、支倉常長が初めてチョコレートを口にした日本人ではないかとの説も。その説にちなんでチョコレートのスイーツが川崎町などで生まれた。
慶長遣欧使節の偉業は、さまざまな形で現在にまで生きている。

支倉常長 遠い帆