太平洋改メ旭堂南鷹 | 南鷹の殿強襲!

太平洋改メ旭堂南鷹

謹賀新年。

2005年に旭堂南陵一門から独立し、“講談師 太平洋”として活動してまいりましたが、

本日2014年元旦より、『旭堂南左衛門一門の“旭堂 南鷹”(きょくどう なんおう)』と改名し活動することとなりました。

8年前の独立は、一門分裂における私なりのケジメと一部(若手)交流の復活を目的とするものでした。
しかし、私の力不足、あるいは情熱が足りずに局面打開には及びませんでしたが、この度、旭堂南左衛門師匠から深いご理解をいただき、旭堂への復帰と併せて、一部交流の復活への多大なお力を与えていただけることになりました。
もちろん芸界において、独立も前代未聞であれば、南陵一門から南左衛門一門への移籍も普通のことではありません。
多くの方々に戸惑いやなかには強い疑念、批判もあるかと存じますが、
8年前に独立を決断したあの日の自分に胸を張り報告できる行動を…と思い、再度、改名の決断をいたしました。

14年の間、お世話になりました旭堂南陵先生は、この8年の間、一部交流の復活はお願いし、ご理解もいただいておりました。結果として、私の打てる“最後の一手”にしか頼ることが出来ず、こうした形となってしまいましたが、これも「講談界のため」という私自身の確信でもあります。
南陽に対しては、私とだけではなく南左衛門一門との交流をお認めいただいたのは感謝するばかりです。
私自身は講談の技術向上だけではなく、今まで以上に後輩育成に力を注ぐことでご恩返しと思っていただけるように精進します。

南陵ご一門には有能な小二三、南陽という若手がいます。2人の個性とこれまで培ってきた経験は何物にも代え難く、それを東西、協会、一門の垣根を越えて後輩たちに伝えていくことが、講談界の未来の糧となります。

南左衛門一門には、南青、南舟、南斗という、その2人に負けない資質を有した若手がいます。もちろん、師匠が弟子を育てるのですが、多くの見聞を開き、良いも悪いもともに学ぶために先輩や同志がいます。そして、それは同時に先輩をも高める効果が生まれます。
そうした“普通の環境”が、ようやく作られようとしています。小二三、南陽にとっては失われた十年と言っても過言ではありません。その環境整備こそが、私が後輩たちにやらなければならない最大のことと思ってきました。


また演者だけではなく、お客様にも良い効果は必ず生まれるはずです。私はお客さんに「1人でも多くの講談師を見てください」と言ってきました。しかし、そうしたお客様が少ないのが現状です。南陽の会に南左衛門一門の若手が出れば、初めて見る人は多いのではないでしょうか?逆に南左衛門一門若手の会などに南陽が出られれば、やはり南陽を初めて見る人は多いはずです。お客様の交流も盛んになるのです。

こうした良い方向へ運ぶことは、まだまだあると胸膨らませますが、同時に思いもしない難題もおこることも考えられます。しかし、それらに立ち向かう覚悟がないと、今回の行動は起こせませんでした。
8年前の独立時には、小二三、南陽はあまりにも若く、まだ共に歩む先輩が必要だと感じていました。私自身にも共に闘う同志はおらず、単身未開の立場に身を置くこととなりました。あの時と比べれば、今回は南陽と共に闘い、僕にも南左衛門一門という心強い師と後輩たちがいます。それを思うと不安は限りなく無に等しいです。

「講談界のため」…その言葉の意味は講談師それぞれです。今回の行動は私自身が可能な唯一のことでした。

しかしそれは所詮、8年前の私の言葉に応えるだけのことです。

たったそれだけのことであっても、講談師太平洋に相応しい最期です。

ありがとう。太平洋。
君と歩んだ22年をこれから花開かせるからな。


母、妻、友人、恩師、南陵師匠、キミコ社長をはじめとしたこれまで育ててくださったみなさま、競馬関係者のみなさまと講談界をご支援くださるみなさま、共に闘ってくれた南陽、迎えいれてくれた南青、南舟、南斗、大きな度量で受け入れてくださった南左衛門師匠、そして何よりお客さま、ありがとうございます。

さらば講談師太平洋。

最高のバトンを南鷹が引き継いだ!


「make that change」旭堂南鷹でした