~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
第五章 川の流れが澱み始める
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(1)石油業転・つぼ八(居酒屋)事件
第三章(2)で念願の復配を短時日で果し、本格的春を迎えようとしていたイトマンという河川の土手のあちこちに、まだ目だたないが少し気になる(?)の芽がめばえ始めていたと記述したが、イトマン川そのものの流れも次第次第に澱み始め、やがて川底にヘドロが堆積し始めるようになっていった。土手に立って眺めやると、川が汚染しだしたこともあって、川底のヘドロそのものは一般には肉眼では見えない状況だった。
以下川の流れの澱みについて具体的事例をあげて分析してみたいと思う。
大阪地検は河村良彦ら三被告の起訴についての冒陳の第三項「河村商法の実情」の項で、その商法の実態を各種の実例をあげて数々の無暴、暴走経営について端的、簡潔に指摘している。そのくだりは次項(2)で詳しく述べるが、そのうち本項に関係ある部分を次に引用しておこう。
「昭和六十年ころには、被告人河村が自ら手がけた『石油業転問題』で約一〇〇億円に上る巨額の損失を被り……」と記述している。
イトマン副社長(財経担当)は河村良彦らの第二回公判(平成四年一月二十八日)に検察側の証人としてはじめて出廷し、終日主任検事他の主尋問に対し証言した。
第一回の証言だったのでオリエンテーションめいていて、「伊藤萬一〇〇年史」の冊子にもとづく河村体制下の諸事業等、及び平成二年、三年の有価証券報告書の主要内容等々について尋問が続けられた。証人が証人台に立つのは初体験であり、本人の自社株取得罪についての初公判が五日前の二十三日に開催されただけで、具体的審理は未だ始っていない時期だった。緊張のあまり証人は相当疲れたようだった。
この副社長は次のような証言を淡々として行った。
「昭和六十年九月期決算(当時は九月決算だった)円高不況等もあって収益見通しは極めて暗く、社長もその対策に苦慮していた。同年四月に『石油業転問題』が発生し、マスコミは大々的に書き立てた。しかしこの事件は収益確保のために仕組んだ契約だった」と検察側の冒陳内容を立証した。
本項の最初の方で「河村が自ら手がけた」そして「仕組んだ契約」だったと、石油業転事件の核心、本質に触れるような結論めいたことをすでに述べてしまったが、どういう事件だったのか解説したいと思う。
「石油業転」とは石油業界での業界用語であって、俗な言葉でわかり易く言い換えれば、「業者間の転売」「石油ころがし」のことを言い、いくつものグループが二重、三重の輪をつくり、複数の商社や石油元売り業者がその間に介在し、伝票一枚、電話一本で売買し、いわば口約束で巨額の原油の取引が成立するという業界も公認の──「ころがし」と言えば印象は悪いが──正常な取引である。こうして業者間で原油をキャッチ・ボールすれば、売上高を吊りあげていくことは可能だった。繊維業界でも国内取引でこの原油取引に類した「オッパー取引」というのが、かつては盛んに行われていた。私もイトマンの丁稚時代にこの取引の受渡事務を担当したことがある。取引そのものは違法でもなんでもない。
さて、河村は同五十九年自分の甥にあたる和田某を途中入社させ、新らしく燃料部を設け、彼を責任者に据えた。そして新規事業の一環として石油の取扱いを開始した。この甥は大手商社系の燃料会社に勤務していた石油取引の経験者だったが、福岡支店への転勤を内示されたのでこれを忌諱し、河村を頼ってイトマンへ入社した男だった。河村は石油取扱いによる利益(石油取引きの利益率は大したものではなかった)もさることながら、量、すなわち売上高のボリューム・アップを企んだのだった。
一年後の同六十年四月、イトマンの石油取引の大口取引先の企業が倒産し売掛金の回収が不可能となった。ここでイトマンは突然業転の仲間の輪から抜け出し、仕入先の大手商社、石油元売業者への代金支払いを頭から拒否した。これをきっかけにして石油業界は物情騒然となり、大混乱を来した。
三井物産、トーメン、日商岩井、ニチメン、丸紅エネルギー、新東亜交易(三菱商事系)、丸善石油、コスモ石油などそうそうたる顔ぶれの一流の二十一社を相手にまわして、イトマンは「債務不存在確認の訴え」を東京地裁へおこした。その額は約一〇八億円という巨額に達していた。イトマンは石油取引の存在そのものを否定し、業界の商慣習だった口約束を認めず、「当社はそんな取引はしていませんよ」と主張し、裁判所にもその確認を求める訴訟をおこしたのである。
大手商社などの上記の債権者は「業界の商慣習を無視する暴挙」だと猛烈に反発、仕入代金の支払いを求めて逆提訴を行った。まさに前代未聞の契約トラブルであり、訴訟であった。
河村は燃料部員全員を、女子社員も含めてホテルに缶詰めにし雲隠れさせた。一部上場企業として採るべき対応策ではなく、イトマン燃料部は「業界の異端児」という不名誉な大きなレッテルを額にペッタリと張られてしまった。
この事件の影響もあって同六十年九月期の売上高は、前年比約六〇〇億円減の五,〇三三億円にまで低下し、河村政権スタート以来維持、継続してきた増収路線は大きく蹉跌してしまった。ボリューム・アップをねらった河村は残念至極、ほぞをかむ思いであっただろう。
この業転をめぐる裁判は同六十三年五月、平成元年四月及び平成二年五月と相次いでイトマンは敗訴した。このような状勢下イトマンは和解のうえ約三十億円余については順次支払っていったが、十社(約七六億円)については、東京高裁、最高裁に上告し係争中であった。しかし平成五年二月、住金物産との合併を四月に控え、これ以上の訴訟継続は困難と判断して、和解にふみ切り、請求額約七十六億円に利息など約三十二億円を加算して、合計約一〇八億円を支払い和解して、一件落着をみた。イトマンは同年三月の決算で特別損失に計上したが、事件発生以来満八年の歳月と利息他約三十二億円に達するペナルティーを要した。
この石油業転裁判によって、一世紀の長きに亘り先輩が、私達の世代が、そして後輩達が文字通り汗と油で幾多の風雪にも耐えて着実に築きあげてきたイトマンの『信用第一』の社是は、残念ながらもろくも音をたててガラガラ崩壊し始めたのだった。顧問弁護士なのかだれの入知恵か知らないが、とんでもない訴訟を河村は起したものだ。
日本経済新聞社刊の「イトマン・住銀事件」(以下、日経新聞「事件」と称す)は「この石油業転事件がイトマン経営破綻のきっかけとなり、イトマン経営陣にとって、ノドに刺さった小骨のようなものだった」と論評した。
訴訟を指示した河村は、裁判の業界並びに経済界全般に与えた影響について、かくも大きな波紋をえがくとは露露予見していなかったのであろう。小骨どころか大きな骨がノドに突き刺さった事件だった。
ここで本事件についてはペンを擱くつもりであったが、一つだけつけ加えておきたいことがある。
河村は自分の甥が、イトマンに大損害を与え信用を失墜せしめたにもかかわらず、イトマン直系の石油販売の子会社に無理やり席をおかせた。この子会社の代表者からは人件費の負担と、本人の対外営業活動の禁止について条件がついたので、人件費はイトマン本体で負担することとし、裁判関係業務を担当するだけでやがては殆んど出社しなくなった。
この戦犯の燃料部長に対する厚遇は、河村解任直後まで続いていた。平成三年三月になってはじめてイトマン人事本部は、本人に対し退社を要求したという河村の偏った親族に甘い人事政策だった。この間の本人の年間給与は、会社業務に対する貢献は皆無だったにもかかわらず約一千万円余に達していたと聞いている。
ここでも河村方針は、提訴問題以外にも腐敗の芽を内包していたのだった。
ついで、イトマンの信用を失墜させた「つぼ八」事件に触れよう。「北海道つぼ八」は創業者の石井誠二が、工員、行商、バーテンなどを遍歴した後、昭和四十八年に夫人と札幌(北海道)に店開きした広さ八坪の一ぱい飲み屋からスタートした。(「つぼ八」という屋号もここから生れた)その後北海道地区を拠点にして、逐次チェーン網を築き上げ、やがて首都圏へも進出し、同六十年には全国で加盟店を含め四〇〇店鋪以上を数えるまでに発展した。
これに先立ちかねてから業容の拡大に伴い石井オーナーは、株式の上場を考えるようになっていた。イトマンの北海道地区の得意先の紹介もあって、石井はイトマンと提携することとなった。両者間の提携話はとんとん拍子に進み、同五十七年四月には折半の出資会社「つぼ八」(資本金五千万円)が東京に設立され、社長に石井、会長にはイトマンの理事が派遣され就任した。
当初イトマンは「つぼ八」の将来の株式上場によるキャピタルゲインを得ることを意図していたのだが、「つぼ八」の業容の発展、利益率のよいことに注目した河村は、例によって秘かに爪を研ぎはじめ「つぼ八」の経営権を手に入れようと意図した。
河村にとって提携先とか出資先について、共存共栄の実をあげて双方が繁栄し、共に利益をあげていくという考え方は次第に無くなっていき、単に「利益源」としてしか映らなくなっていったようだ。河村も就任当初は「中小企業の支援育成は商社の使命である」との持論を表明していたのだが、やがて河村がモットーとする「利益第一主義」「欲ボケ」が頭をもたげるようになってきた。河村サイドはつぼ八の石井オーナーに対し「イトマンと組めば上場が早くできますよ」と言葉巧みに共同事業化をもちかけ、右記の通り合弁企業が設立されたという経緯があった。
河村は役員を順次送り込み、「経営指導料」という名目で年間一億円もの利益を強制的に吸い上げていった。これは後ほど詳しく述べる伊藤寿永光、許永中の事件主役から奪取したといってよい「企画料」まがいのイトマンの収入計上だった。
またイトマンからの派遣役員、社員については大企業並みの──中小企業ではその負担に耐えられないような、一人当り年間一千万円の人件費還付金を徴求していた。そして次第に経営にも口を出すようになり──中小企業の実情を軽視したような大企業ペースで運ばれていった。
同五十九年末に「つぼ八」は倍額増資し、資本金は一億円に倍増した。さらに同六十年九月には「北海道つぼ八」を吸収合併して、七〇%の株式をイトマンが握るようになり完全に経営権を手に入れた。次にイトマンは石井と親族所有の株の一部を額面の二十倍の一万円で買い取っている。
同六十二年十月石井社長が「社長印を勝手に持ち出した」ということで、臨時取締役会で社長解任動議を議決してしまった。当時、河村が「なにがなんでも石井の首を切れ」という指示を出しているとの噂が社内外に流れていたのを私も承知していたが、創業者石井の放逐作戦だった。
イトマン、石井社長双方に夫々言い分とそれなりの理由があるのだろうが、外部から見ればまさに「イトマンの乗っとり劇」の荒技だった。
この以上の二事件は河村の自ら蒔いた種とはいえ、河村にとっては予想以上のつまづきとなり、なによりもイトマンの信用の崩壊にもつながっていったのは残念至極である。前述したが日経新聞の「事件」が指摘したように経営破綻のきっかけ、萌芽となった。この二事件にはまた河村の焦りが色濃くにじみ出ていたといえよう。
(2) 新規事業の相次ぐ蹉跌
イトマン社長河村は、ある提携先の大阪の繊維製品卸の社長に──河村が社長就任後程なくひょんなきっ掛けから、この社長と極めて親密な間柄となり、イトマン大阪本社の社長室には事前のアポイントもとらずフリーパスで出入りできる程の仲となっていたのだが──ある日社長室でこう語ったという。
「イトマン社員の高令化はこれからますます進んでいく。毎年新社員は採用していくが、こんご定年前若しくは定年後の中高年者の職場を本体外で確保、吸収せにゃならん。このため新規事業をどんどん開拓していく必要がある。必要資金はいくらでも出す。新規事業案件をどんどんもってきて、提案してもらいたい。スタート時のある程度の損失、リスクを恐れていては何もできん。リスクを恐れるな。よろしくたのむ」
河村はこの考え方にもとづいて、新規事業に前後の見境もなくといってよい程積極的に取組み展開していった。
これと平行して、従来イトマンの大株主の大正海上(現三井海上)をメインとする保険代理店業務を営業種目としていた既存の子会社に、昭和五十四年十月に新らしく商事部(物品販売)や航空サービス部及び人材派遣部等を設け、主として定年退職後の社員用の職場を開拓し、六十才以上のOBが──なかには七十才前半の方が喜喜として働ける環境をつくった。
従来のイトマンにはなかった発想であり、新施策だった。従来は定年になればハイ、サヨナラで残念ながら、彼らを吸収し得る職場はなかった。当時は「さすがは河村さんだ」と、定年後も働く意思さえあればその場が与えられることとなり、礼賛と歓迎の声が関係者の間で高かった。このケースは既存の子会社に従来他の子会社や、本社でやっていた地道な事業を新設したものだった。そしてリスクというものは殆んどないといってよい内容だった。
しかし従来全く手がけたことのない、またその業界事情にたけた人材も、ノウハウも経験も全然もち合わせていない事業へ、さしたる事前の準備も調査も充分に行わずに、どんどん進出していった。そして大きな痛手をうけつつも、またさらに新らしいものへと深入りしていった。
新規事業の必要性を論ずる河村の基本的な考え方に異議を唱える気は全くない。新規事業分野への開拓、進出といえば当然のことながら大きなリスクをかかえてスタートするわけで、それだけにこの数々のリスク解決方策の事前の綿密な検討が必要だったが、その進出のプロセスはあまりにも杜撰だった。
大阪地検は冒陳で(第四章で詳述した)ここらのくだりについて次のように記述しているので引用しておこう。押収した数多くの証拠書類や、多数の参考人の供述調書等にもとづいて作成された集大成ともいうべき内容だと思う。
第三項「河村商法の実情について」の「(一)イトマン社長への就任とその後の経営実績」の項で「イトマンでは経営の多角化による新規業種への進出の過程で、後発の業界参入者としての人材不足と、営業上のノウハウの蓄積がなかったことに加え、既存の業者の厚い壁に阻まれて、その進出を焦るあまり、昭和六十年ころには、被告人河村が自ら手がけた石油業転問題で約一〇〇億円、業務提携先の大日本コンピューターの倒産により約一一二億円、さらに同六十一年ころにはおもちゃのコスモスの関連で約一一二億円に上る巨額の損失を被り、これら多額の損失をイトマンの通常の収益で吸収し償却することは、到底できない状態となっていた」と簡潔にして的確、かつきびしく要点を指摘している。
冒陳は新規事業の蹉跌の代表的な三例を、あまりにも巨額の損害にのぼるので挙げたのであって、他にもその失敗例は枚挙にいとまがないほどである。右三例だけでその損失は指摘のとおり三百数十億円の巨額にのぼっており、検察が指摘する通り、イトマンの経営規模、収益性から考えて、ウルトラC的な離れ技がなければ、固定化営業債権の償却は不能の状態になっていた。ちなみに同六十年九月期の経常利益は約五十二億円だったので、単純計算すれば年間利益の約六倍の赤含み損失を三例だけでかかえたことになる。また当時の資本金は約八十一億だった。
前記の他にも既発の不良債権や赤字含みの滞留在庫をかかえており、もちろん公認会計士からの指摘、指導もあって、無理をして適時償却をしてきたのだが、一部上場企業の商社活動のなかに於てウルトラCなんかは実際問題としてあり得ないわけで、これが今回の、これから詳しく検討していく、「住銀・イトマン事件」のウルトラC的離れ技につながっていくことになる。オリンピックの体操競技で金メダルを獲得した選手の見事な着地とは違って、大方の予想通り頭からマットに突っ込み、頭がい骨骨折の瀕死の重傷を負い、遂には命を絶ってしまうことになってしまった。
まず地検のあげた新規事業の三例についてもう少し詳しく述べたいと思う。
河村が自ら手がけたと指摘された「石油業転問題」については、本章の(1)ですでに詳述した。
次に「大日本コンピューター」については、当時住銀直系の情報処理会社だったJAIS(日本情報サービス)から専務(住銀からの出向者)をわざわざ迎え入れ、同五十七年十一月に代表取締役に選任し設立したイトマン直系の情報処理会社だった。
この社長はさしたる業績もあげていないにもかかわらず、二年後にはイトマン本体の取締役に選任されるという厚遇だったが、コンピューターシステムの新規のソフト「地図情報システム」他の開発、販売、漢字情報の入力業務等々に失敗し、社長自らがくわえ込んできた提携、融資先の「ミロク経理」(この社の社長がどういうわけか提携時の昭和五十八年にイトマン本体の理事〈準役員待遇〉に登用された。一般社員にはよくわからない不可解な役員人事だった)の倒産による貸付金の回収不能とも相まって先程の一一二億という巨額の損失を計上した。
次に「おもちゃの『コスモス』」なる指摘があるが、これは子供向けのおもちゃの自動販売機の製造、販売会社「コスモス社」に対し、工場設備資金や運転資金の巨額の融資、原材料の供給を続けてきたが、肝心の販売機が不良品の多発、販売不振等の悪条件が重なり、一時は広場に返品機が野積みされるありさまで結局経営が行き詰った。
これらの三件については第十一章(4)でも触れているので併せ参照していただきたい。
さて以下他の新規事業の失敗例について述べることとしたい。
(一)メガネの小売チェーン店の展開
イトマン本体の直接展開ではなかったが、提携先及び河村の姻戚筋等のダミー出資で「マイルック」と称する新会社を設立し、「メガネ」のチェーン店──大阪市内三ヵ店、東京(渋谷)一ヵ店の小売展開(河村の首唱する川下作戦の一環)をスタートさせた。レンズメーカーから専門家と一部資格保有者を入社させたようだが、責任者はイトマンの繊維担当のベテランの営業課長クラスだった。或る日突然畑違いというか場違いの業界、しかも個人消費者対象の“小売業界”への出向を命じられたのだ。
おまけに、関西では「メガネの三城」だとか「メガネの愛眼」「メガネスーパー」等の大手ディスカウンターが要所、要地に大大的なチェーン店展開を実施していた。同時にマスメディアを通じて中小が到底太刀打ちできないような活発、派手な宣伝活動を展開し、値引き作戦と相まってシェアーを拡大していた。一方、中小の老舗は固定客をもちながら身分相応に経営を維持している業界だった。
若干のベテランが入社したとはいえ、いわば素人に近い集団で、全く手がけたことのない業種、小売の展開には誰しもがその前途に大きな不安をもった。これから高令化社会を迎え、また若年層の近視の増加によるコンタクトレンズ他の需要増等による業界全体のパイの拡大を見越しての進出だったが、案の定というか数年にして整理せざるを得なくなった。詳しい内容は私の許ではよくわからないが、ウン億円(一桁億円)の整理損失を計上したときいている。高い授業料を払った種も、将来も芽をふくこともないまま、これだけでポシャってしまった。典型的な新規事業進出の失敗例だと思うので一番目に挙げた次第である。
(二)天然果汁入り乳飲料の新規取扱い
少し古い話になるが、同五十四年暮から牛乳にオレンジあるいはリンゴの天然果汁を入れて凝固しないように上手にブレンドしたといううたい文句で「果汁入り乳飲料」の販促活動を大々的に開始し、首都圏の量販店とも交渉し一部店鋪には納入したようだが、いつしかこの乳飲料の件は話題にのぼらなくなり、プロジェクトチームを解散してしまったようだ。この乳飲料は名づけて“サニー・ボーイ”と呼んでいた。SUNNYがRAINYに豹変してしまった。
(三)“ピザ”チェーン店の展開
河村社長就任後間もなく、住友石炭鉱業の子会社、日本デザインの営業権の譲渡をうけて、“ピザ”チェーン店の展開を意図し、加盟店を募集したりして「外食産業」への進出のスローガンをかがげて大阪ミナミ他に数店をオープンした。五十年代の前半だったので“ピザ”そのものが、日本人の趣向に合わなかったのか、商社にはこうした飲食小売業の経営が無理だったのか、本格的展開を待たずにこれまた消えてしまった。最近首都圏では“ピザ”の宅配特急便が繁盛していると聞くのだが……。
(四)エアロビクス教室の開設
「ジャパン・ワークアウト」なる新会社を設立し、東京(渋谷)、大阪(谷町)及び京都の三ヵ所にエアロビクスエクササイズ教室を開設した。同五十八年のことだったので当時家庭主婦やOLの間にブームがおこっていたようだが、教室数の増加の声、拡大の話も聞かないまま、閉鎖の運命をたどったようだ。
(五)東海精器(百円ライター)との業務提携
同五十三年七月に使い捨て百円ライターのトップメーカーだった東海精器(現、東海。平成六年五月に会社更生法を申請倒産した。負債総額は約七二〇億円にのぼっている)と提携、金融支援を行うとともに、原料の樹脂等を納入し、ライターの販売にも乗り出すこととした。同年九月には国内販売会社として直系の「伊藤萬トミック」(トミックというのはライターのブランドだった)を設立し、本格的販売活動をオールイトマンあげて積極的に展開した。同五十五年には東海精器小山工場新築工事の建設の請負いをするまでに取引は親密度を増していった。
しかし、先方の社長の心は残念ながら次第に──百円ライターの大ヒットで利益があがり、資金面でも余裕ができるようになると──イトマンから離反していくようになっていた。
河村は東海精器に対する融資の金利は、一般の取引先よりはやや高い目に設定していた。東海精器としてはこれに抵抗してイトマンからの借入金は遂には全額返済してしまう。同社としては調達コストの高い資金を借入れる必要性は全くなくなっていたのだ。おまけに原料関係も他の大手商社(三井物産、三菱商事他)からの仕入れに切りかえてしまった。この二商社は七.一%ずつの株式を保有し、第二位の大株主となった。
かくして同社との業務提携は解消され、イトマンはお呼びでなくなってしまった。
イトマン元副社長(財経担当)は河村良彦らの第二回公判(平成四年一月二十八日)に検察側の証人として出廷し、
「業務提携の解消は先方からの申出であり、理由は金利が高いからだった。貸金の利率の決定は河村社長自らが決定し、社長は銀行出身者でその道の専門家だったので、その指示に従った。自分から高い金利について意見具申することはできなかった。
また(株)ソディック(独自に開発した精密ワイヤカット放電加工機のメーカー)との業務提携、金融支援についても、イトマンサイドに極めて有利な金利での融資が提携解消につながった」
と提携解消の実態を証言した。手錠、捕縄を解かれ証人の後方の被告席に座る河村が静かにジーッと聞き入っていたのが印象的だった。
考えてみるに、物流とか、設備・在庫投資等に伴ういわゆる商社金融については長期的観点に立って、金利収支及び資材納入、完成製品の販売等についての収支バランスを見て、相手企業の育成発展の見地にも立ちながら、綜合的なバランスシートをつくって検討の上、融資金のレート、納入資材のコスト等の決定を行い取り組むものだ。
しかし、河村は銀行畑出身というキャリアと彼の信条とする利益第一主義が禍して、相手企業の当時の旺盛な資金需要の足許を見て、いわば高い金利を吹きかけ、資材納入、製品販売でも、利益を吸いあげるという助平根性をまる出しにしたため、俗な言葉で表現すれば相手先二社に逃げられてしまったという構図だった。必要以上に爪を研ぎすました河村商法の完全な敗北だった。
(六)「ブリタニア」のファッション衣料の販売会社の設立
国内繊維部門では同五十六年暮に、アメリカ有力アパレルメーカーのションフェルド・インダストリー社と包括的ライセンス契約を結び、同社の総合ブランド“ブリタニア”の名称を冠したスポーツカジュアル、アウトドアファッションなどを国内でライセンス生産を開始した。
同五十七年春には東京・渋谷に「ザ・ブリタニア渋谷店」(直営一号店)を開店した。首都圏、関西地区でTV・スポットCMを流し、また若者向け雑誌に広告を出す等PRにつとめ、担当部門の努力にもかかわらず、「ブリタニア」の知名度はあがらず消え失せてしまった。
(七)タイ国のウナギ、ブロイラーの合弁事業
食糧部門では相当早い時期(同四十八年ころ)から、米国、中国産ブロイラーの輸入販売を手掛けてきたが、商社間の競争の激化と相まって、相場下落のリスクも大きく、採算ベースに乗りにくく苦戦していた。そこでタイ国に着目し、現地に同五十六年にブロイラーの合弁二社を設立した。
同時に同国で養鰻事業にも着手することを決定し、同年合弁会社を設立し、養鰻及び白焼き生産事業に着手、輸入販売を夫々開始した。
しかし、前出のイトマン元副社長の大阪地裁での法廷証言によれば、二事業ともうまく運営できず、中止し撤収した由である。撤収に伴う損失等の詳細内容については証言がなかった。
(八)通信販売(無店舗販売)事業の展開
昨今TVやラジオによるショッピングや、カタログによる通信販売事業も、アメリカと同様核家族化、働く女性の増加等の要因もあって、需要が増加しつつあるようだ。イトマンでも相当早い時期(同五十六年十月)に河村指示によって、「通信販売開発部」を新発足させ、フジサンケイリビングサービス他数社の通販専業者と連携し、本格的に乗り出した。OBの家庭にも当初は頁数も多い立派なカタログが送付されてきたが、時日の経過とともに次第に頁数も減り、最終的にはタブロイド版にまで縮少されてしまい、遂にカタログそのものの送付が中止になってしまった。人件費はもちろんのこと、印刷費、通信費等の所要経費の吸収が困難になってきたのであろう。しかし、ある大手商社系の婦人衣料を中心とした通販事業は、年々売上を増大させ今も順調な業績をあげているのだが……。
(九)「YURIE」ブランドの展開
かつて歌謡界の新ご三家と呼ばれたアイドル歌手郷ひろみ夫人として知られる女優「二谷友里恵」と提携し、ウエアを中心とし生活用品まで含めたトータルファッション分野で、「YURIE」ブランドを展開すると同六十三年七月に発表した。「YURIE NITANI」と「YURIE NEWYORK」の二ブランドの積極的展開のため、イトマンはわざわざアパレル子会社との共同出資で専任で当る別会社を設立し、翌年二月には東京・神宮前にモデルショップをオープンした。
郷、二谷夫妻はイトマン大阪本社を契約締結後に表敬訪問している。なお、余談だがこの夫妻は、郷ひろみが例の松田聖子との間に「スッタモンダ」があった末に結ばれるという複雑な経緯があった。
当初二年間の赤字まではなんとか面倒をみるということでスタートしたようだが、いつしか「ユリエ」のユの字も残念ながら聞かれなくなってしまった。
なおイトマンと同業の三共生興では女優吉永小百合と提携し「小百合」ブランドのブティックを東京・南青山に、ほぼイトマンと同時期にオープンしたが、平成五年夏に閉店、撤収している。
こういう際物の小売展開は、当れば大きいがいかにむつかしいものかという証左だったと思う。
(十)新会社(株)ハイ・ハイ・コミュニケーションの設立
ターゲットを女性にしぼり、(1)美と健康、(2)知的生活情報及び(3)ベターライフをコンセプトとして、五年以内には全国に五千ヵ所のコミュニティプラザをつくり、五万人の婦人カウンセラーを組織して、二五〇万世帯を会員として、情報(High Tech)と感情(High Touch)を融合させるニューセールスシステムを構築するという派手な営業目的で、(株)ハイ・ハイ・コミュニケーションという新会社が同五十八年十月に設立された。
そして五年後の年間売上目標を五千億円とするという驚異的な事業計画の発表が行われた。ちなみにイトマン本体の五年後の同六十三年の売上実績は約五千億だった。本体と同額の売上を達成するというそれこそ気の遠くなるような向う見ずの計画だった。
東京・日比谷の一流ビル内に事務所を設け、開業費用だけで資本金の一億円はまたたく間に費消してしまった。イトマンの出資は七〇%だった。この新会社の代表者は、百科事典、英会話教材他の二十年にわたる訪問販売のベテランだったが、河村はこの遠大な計画の先物買いをしたのか、イトマンの理事に登用するという異例の人事を行った。前述の「ミロク経理」の代表者と同様の首をかしげる理事への登用だった。
読者各位はこれだけの説明では抽象的でどういう事業を展開しようとしていたのかさっぱり理解できないと思うが、二年をまたずしてハイ・ハイの遠大にして雄大な計画は結実せずして解散してしまった。
以上十項目を挙げたし本項の紙面もオーバーしてきているので、ここらでとめたいと思うが、この他にも住銀大阪市内のある支店長もち込みの白熱灯なみに蛍光灯の瞬時に点灯可能な特殊 ICの事業化。静岡県焼津市での特許工程による五日間での即成栽培の「かいわれ大根」の製造、販売事業。宝石、宝飾品等ジュエリーの販売会社の設立。米国リンクス社とのゴルフクラブの総代理店契約にもとづくリンクスジャパン社の設立。昔の「万金丹」の置き薬方式による一般家庭への「置き薬」の新会社の設立。流水を全く必要としないコンポスト・トイレ(発酵堆肥化させる)の販売等々まだまだ枚挙にいとまがないくらいである。
河村は、関西財界人の間で一時話題となった例のサミエル・ウルマンの「青春の詩」を抜粋し、「先輩から引き継いだ仕事は、年数と共にその仕事も老いていくことになる。ここに発想の転換を起こして、仕事も若い青年の信念、自信と豊かな想像力と情熱をもって変化していかなければならない」と説き、同五十七年の年頭に当って「『イトマン丸』も『グループ丸』も頑丈な強い船になり、少々の波浪風雨にもびくともしなくなった。そこで本年は従来の『守りの経営』から『攻めの経営』を目指していく。『攻撃は最大の防御である』」と年頭所感を述べ方針を明示している。
これらは河村の持論であり、経営哲学であった。繰返えし社員に向って説いてきた河村イズムにもとづいて、変化を求めて新規事業の積極的展開を実行し、「攻めの経営」に転じたのだが、残念ながら企業体質の変化を急激に求めすぎ、攻めを焦るあまり肝心要の「守り」「事前の周到な準備」他が等閑になりすぎ、新路線を走る河村新幹線(よしひこ号)はもはやブレーキがきかなくなっていた。
以上新規事業の展開とその蹉跌について具体的事例をあげてきたわけであるが、実はイトマンの伝統的な繊維部門、特に繊維の二次製品取扱いについての営業政策についても、河村は大きな変化を要請していた。
『すべての商品が生産過剰時代となり、少品種多量生産から多品種少量生産の短サイクル時代へと変化してきた。この結果商社は販売力の強化をはかると同時に、その機能を見直す時期が到来し、流通主導型の経済に変化してきた。
すなわち商社段階では生産メーカーの見込み生産が先行した販売部門から、川下(小売)を中心とした売れるものの組立て機能をもつことが必要となってきた。また繊維産業を情報産業としてとらえ、POSシステム(店頭販売時点情報管理システム)を整備しながら、従来の川上─川中─川下という垂直的な競合分断取引方式から円周的な組立て方式が必要となってきた』
このような基本的考え方にもとづいて、繊維部門に対し河村はいわゆる川下志向作戦を打ち出した。この考え方をどこから仕入れてきたのかは不明であるが、当時親しくしていたある大手量販店の首脳から吹き込まれたのかもしれない。
長年にわたり商社としての元卸機能を果してきたイトマンとしては、唐突な河村指示に対応するノウハウも人材もPOSコンピューターシステムも整備されていなかった。それに加えて当然ながら川下に至るまでに長年にわたり親密な取引のある中間取引先が厳然と存在していた。しかしせっ勝ちな河村は、月初訓示、社内報とか朝会を通じて口うるさいほど営業におけるPOSシステムの構築、川下作戦の始動を要請した。
これをうけて──河村指示には絶対服従だった──担当役員、各担当本部長及び関連企業社長はこの指示を自分のものによくそしゃくできず、消化不良のまま、、新戦略に突入していった。その結果は、案の定というかものの見事に失敗し、特に二次製品を取扱い、従来は儲け頭だった関連会社は軒なみに打ちのめされ、赤字計上を余儀なくされてしまった。
ある紡績メーカーと販売先のある首脳は
「実態をよく知らない銀行マンが、商社機能、元卸機能を無視して何を訳のわからんことを言っているのか」
と口を極めて痛烈に批判した。
これらの新規事業部門並びに既存部門における蹉跌によって計上した累計損失については、一OBの立場から知ることは残念ながらできない。
例えば大阪地検から指摘のあった「コスモス」(おもちゃ自販機)の損失については金型をイトマンで買いあげそれの売却損失として計上、また「大日本コンピューター」については、コンピューターのソフトウエアーを関連子会社二社で買い取り、三年間の繰り延べ償却をする等、夫々こみ入った償却方法を採っており(イトマン元副社長((財経担当))の法廷証言)、損失額の実態はストレートには極めて把握困難になっている。
しかしながら大小とりまぜてこれら新規事業の損失を積みあげていくと(海外を含む)一千億円に垂垂とする巨額に達するのではないかと私は推定している。数多く手がけた新規事業のなかで、なんとか芽を吹き新住金物産傘下にあって営業活動を続けているのは、居酒屋チェーンの「つぼ八」と、日本電気(NEC)のオフィスコンピューターのハード並びにソフトの販売の情報処理システム会社の二社ぐらいしか私の頭の中には残っていない。
イトマンの関連企業に(株)イトマンスイミングスクール(I・S・S)があった。河村政権以前の前社長伊藤寛時代に、当時社長が標傍した「暮らしの商社」を具現化するため、生活密着型の企業として、昭和四十七年十二月に設立された企業だった。第一次オイルショックで企業の存立について危機を迎えたり、紆余曲折はあったが、社長伊藤は初心を砕くことなく担当者を督励し育成をはかってきた。
河村政権になってからも、一般の水泳教室と相まって、競泳選手の強化にも力を入れ、ミュンヘンオリンピックのゴールドメダリスト青木まゆみをはじめ西側よしみ選手、最近ではバルセロナの千葉すずなど傑出した選手を輩出した。かくして水泳日本(少し表現が古くさいが……)とイトマン、I・S・Sの知名度の内外における高揚に大きく貢献した。同社元会長奥田精一郎はI・S・Sを全国のトップレベルに育てた功績を認められ、平成五年に大阪府教育委員会から「大阪スポーツ大賞」を授与された。
ところが、このI・S・Sがイトマンの合併に際し住金物産のグループ企業から外れ、住銀系の不良債権受皿会社の傘下に入ってしまっていることが判明した。イトマンに多大の貢献をして新規事業の成功例の最たるものだったが、私は、I・S・Sのこのニュースをきいて愕然とした。OBとしてもI・S・Sにはすごい愛着をもっているからである。イトマンの名前がそのまま残るときいていたので尚更である。
河村はI・S・Sの好業績を逆手にとって、業績不芳の繊維関連、スポーツ教室会社、ゴルフクラブの販売会社等の赤字子会社を業績抜群の I・S・Sに「逆さ合併」させるという奇手を講じた。「逆さ合併」というのは赤字会社が黒字会社を吸収合併するという方式である。
本件については当時のイトマン副社長(財・経担当)が、「河村社長から始めて教ったノウハウであり、イトマンではかつて実行したことのない手法だった」と法廷証言した。(第八回河村良彦ら公判、平成四年五月八日)
このような変則的やり方で、イトマンスイミングスクールという名称は屋号として残ってはいたが、登記上の社名はイトマン総合スポーツ(株)、ないしはリンクス・ジャパン(株)と変遷を重ねてきた。リンクス・ジャパンの社名のもと(アメリカリンクス社のゴルフクラブの日本での販売総代理店だった。(前出))水泳教室を開くという極めて変則的な形態となった。
この合併を重ねる過程で資本構成が大きく変化したのか、あるいは住金物産との合併時に何らかの政治的判断が働いたのかは、私の段階ではよくわからないのが真相だが、住銀系受皿会社傘下に入るとは、何んとも言いようのない複雑な情けない感情にかられる。
これも河村経営手法の残滓というべきか。
|