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2003年9月3日
●霞浦劇場(土浦)が取り壊しへ
木造映画館、老朽化で76年の歴史に幕
 土浦市内唯一の木造の映画館として親しまれた、 同市中央の霞浦劇場 (前田祐一支配人) が、 76年の歴史に幕を下ろすことになった。 建物の老朽化に伴う閉館が昨年末決定していたもので、 今週中に取り壊しが始まる。 現在、 劇場再建の予定はないという。 前田支配人は 「建物の老朽化と個人劇場の衰退は宿命。 すべてが時の流れでしかない」 と冷静に受け止めている。
 前田支配人は建物の老朽化や入場者減により、 昨年十月から同館の閉館を検討。 建物、 敷地の所有者と話し合い、 昨年末に閉館を決めていた。 断続的に今年二月まで上映を行ってきたが、 跡地の権利はすでに第三者に渡っており、 前田支配人も再建の意思はないという。
 すでに劇場内からは客席やスクリーン、 映写機、 音響設備、 照明などの主要機材は取り外され、 工事待ちの状態となっている。
 同劇場は一九二七 (昭和二) 年六月、 旧匂町 (現・桜町三丁目) に、 土浦劇場 (二六年完成) に次ぎ市内二番目の劇場として開館。 興行主は前田支配人の祖父の吟一郎氏。 館の造りは当時主流の芝居小屋形式で大きな天井と広い舞台袖、 大道具部屋が設置され、 無声映画のほか舞台や歌謡ショーなども上演した。
 館内からは開館当時升席だった客席で暖をとるため一升に一つずつ準備された火鉢や、 過去の映画のフィルム、 ポスター、 パンフレットなど劇場の歴史を物語る多数の資料が発見されている。
 閉館直前の客席総数百五十二席に対し、 升席だった開館当時は老朽化のため消防法規制で二十年前から使われていない二階席、 立ち見などを含め連日八百人以上が詰め掛けた。
 同館の向かいに終戦後から住む田角伴美さんは館の隆盛について、 「一九五〇年代の 『君の名は』 シリーズが上映された時は、 劇場前の通りまであふれた客がうちの玄関を押すもので、 家がきしんだり、 具合が悪くなった客を面倒みたりと大変だった」 と振り返る。
 六〇年代は、 洋画全盛の時代に。 前田支配人は「子供だったが 『世界残酷物語』 と 『史上最大の作戦』 の客入りのすごさを覚えている。 みかん箱に入場料のお札を入れるんだが、 箱からあふれるので踏んで積め込んだほど」と思い出を語る。
 老朽化や経営拡大により、 八二年には同館隣に土浦ピカデリーをオープン。 前田支配人は三館を抱えるようになるが、 レジャーの多様化から入場者数は減少の一途をたどる。 銀映座、 小野座など戦後市内にできた木造劇場も次々と姿を消した。
 二〇〇〇年に、 つくば市内に複合映画館 (シネマコンプレックス) がオープンすると、 入場者数は半数以下に激減したという。
  「ピカデリーなどの運営も人件費を節約するなど厳しい状態。 今まで動員数の多かった映画を再度上映するか、 ロードショーを終えた映画を低価格で上映するかなど、 館運営の選択を迫られている。 経営する限りは良質の作品を上映し続けたい」 と厳しい経営の中にも、 支配人としての使命を貫く姿勢を見せている。

●木内野球の夏が終わって-8
気楽に臨んだ藤代との決勝
 【引き続き、 七月二十六日の県大会決勝戦直前の両監督のインタビュー。 木内幸男監督のコメントで、 藤代のエース美馬学投手 (二年) に関する分析では、 選手一人ひとりの能力・性格を見抜く 「木内野球」 の片りんを感じさせた】
 ―藤代で要注意の選手は。
 木内 やっぱり、 美馬君から何点取るかなんですよね。 取られることは覚悟してますから。 美馬君は、 立ち上がりが悪い日の翌日の試合には、 だいたい2安打完封っていうタイプなんです。 昨日 (準決勝) よくなかっただけに、 きょうは絶対いい。 昨日の反省が生きる子だから、 あの子は。 今日は絶対いいと思ってます。
  (初めて全国制覇した取手二時代に、 決勝でPL学園と対戦し) ウチ (=取手二) の三年が (当時PLのエースだった) 二年の桑田 (真澄投手=現・巨人) を打ったように、 「二年生に負けてたまるか」 というようなものを出してくれる子供たちだと、 頼もしいんだが。 その辺に、 ちょっと不安があります。

 ―選手にどんな指示を与えましたか。
 木内 それはこれから。 昨日のうちにやると、 (選手は) 考えてしまって夜眠れなくなっちゃう。 ですから、 きょうの戦い方を生徒に説明するというような時間を、 朝になったら取るということです。 前の晩はよく寝てもらう。 そういう主義で、 帰ってからミーティングはやりません。 忘れちゃうこともあるからね。
 ―何点勝負と考えていますか。
 木内 うーん、 4点だろうね。 (これまでの秋と春の二度の対戦で) あのころよりも、 ウチのバッターはストライク、 ボールの見極めというのが30%ぐらい、 多くできるようになってきた。
 美馬にはだまされるんですよ。 ストライク、 ボールの同じところに出し入れしますんで。 でも、 だまされる確率が少し減ってきたんで、 もう少しとらえられるかなぁ、 と思うんですが。
 彼は気が入っている時は、 外野フライも打たせてくれませんから。 低くてね。 釣り気味に釣り気味に、 厳格に言うとストライク一球あったかないかぐらい。 自分がピンチの時は、 そういうピッチングをする。
 こちらは焦って、 打ちたいから打っていく。 その時に、 無理な球を打たせることができるピッチャー。 だから4点取っていかないと、 甲子園の道はないと思ってます。

 ―決勝の相手は木内監督の後任の持丸監督ですが。
 木内 私にとっては非常に気楽で、 今までの中では、 気分的には一番楽でして…。
 子供たちが (甲子園に) 行きたがっているんで、 勝たせてやりたいなと思う。 私は十九回も行ってますんで、 そんなにむきになって行くこともないんですが、 去年行って未練を残してるんで、 今年連れて行ってやりたい。
 もし、 間違って向こうが勝てば、 「監督さん、 甲子園で夏の研修をしてらっしゃい」 と言える立場にもありますから。
 ええ、 試合になれば闘争心が出るんでしょうが、 試合の前の晩に悩まなかったのは夕べだけでした。 このチームを持って最近の十日ぐらいは夜中の一時、 二時まで眠れませんでしたから。 このチームを元のチームにどう戻そうか、 ということばかりを考えていましたからね。

●土浦市長選、小野・元議長が再出馬
前回に引き続き2度目の立候補
 任期満了に伴う十一月九日告示、 十六日投開票予定の土浦市長選で、 元同市議会議長の小野治氏が二日、 立候補を表明した。 前回に続き二度目の立候補となる。
 立候補の動機について 「この二十年で土浦の経済や文化、 教育などが荒廃してしまった。 原因は行政に責任感が薄れ、 有効な手を打ってこなかった失政にある。 現状を座視できない」 と語った。
 この上で 「土浦の財産である環境を生かし、 経済政策や少子化対策などを実施し、 県南の雄都復活を目指したい。 市長に当選したら二期八年が任期と考えている」 と抱負を述べた。
 土浦再生の政策として、 行政の効率化や入札制度の改善など市政改革をはじめ、 市中心部に鉄道博物館建設、 土浦駅西口に商業施設の集約化、 駅東口の景観整備と霞ケ浦の観光振興などを挙げた。
 合併問題については、 「土浦の強いリーダーシップが必要」 として、 千代田、 霞ケ浦、 新治を加えた四市町村の枠組みを強調した。
 小野氏は一九七五年に市議会議員初当選し、 九九年の市長選に立候補するまで七期二十五年務めた。 この間、 正副議長を歴任した。 現在は木田余土地区画整理組合理事や社会福祉法人白銀会理事、 土浦リトルリーグ会長などに就いている。
 助川弘之市長は三日開会の九月定例市議会で、 今期限りの引退を表明する意向。
 土浦商工会議所会頭の中川清氏が、 助川市長の後継候補として、 近く立候補を表明する予定だ。

●JCO臨界事故現場を初公開
事故から4年目、関係設備を撤去へ
 死者二人、 住民を含む六百人以上が被ばくし、 国内最悪の原子力災害となったJCO臨界事故から四年。 JCO東海事業所が二日、 事故後初めて現場を公開した。 刑事裁判が終わり、 証拠保全が解除されたことから、 設備撤去を前に公開に踏み切った。 JCOは 「操業しないでほしいという住民との約束」 を強調している。
 同日の公開対象は、 県政記者クラブの加盟各社。 「公共性があり、 学術的価値もあるので、 原子力学会にも公開したい」 と強調。 「狭く、 従業員も減っている」 として、 周辺住民や関係市町村、 反対派などには公開しない。
 施設内は、 まだ八十 シーベルトの放射線を検知。 管理区域として、 空調で汚染された空気が、 外に漏れないようにしてあり、 現在もコンプレッサーのメンテナンスなど、 厳重な管理を続けているという。
 報道陣は、 午前八時から二回、 職員の案内で現場に入った。 旧転換試験棟は、 事故後にウラン燃料などを運び出し、 除染などを経て証拠保存されており、 ほぼ事故前の状態に保たれている。
 四方十六メートル、 二百四十平方メートルの施設で、 特に臨界事故を起こした沈殿層のある旧仮焼還元室は、 三十三平方メートルとかなり狭い。 職員が、 刑事裁判で認定された事実に基づき、 当日の違法な作業手順を説明した。
 同社は、 八月下旬の証拠保全解除を受け、 二十九日には国に撤去を申請した。 現在、 国の許認可手続きを待っている。 早ければ、 十一月には撤去作業に着手し、 来年夏ごろには終了したい意向だ。
 撤去は二〇〇〇年の企業行動計画で決めた。 大場浩正総務部長は、 「住民が操業再開に不安を持っていた。 操業しない証として、 撤去することを決断した」 と話した。
 旧動力炉・核燃料開発事業団時代、 東海再処理工場で火災・爆発事故を起こした核燃料サイクル開発機構は、 反省の証として施設を残して公開しており、 JCOの撤去措置について記者団からは、「残す選択はなかったのか」との声も上がった。
 同事業所は現在、 六十三人に減った従業員が、(1)ドラム缶約八千本の低レベル核廃棄物の保管(2)事故施設の維持管理(3)被害者への補償対応を行っている。 今後も長期間、 同様の状況が続くという。

●県内男性最高齢者・小野一郎さん(106)
長寿を祝い、助川・土浦市長が訪問
 十五日の 「敬老の日」 を前に二日、 県内男性最高齢者の土浦市木田余、 小野一郎さんを助川弘之市長が訪問し、 長寿を祝った。
 小野さんは明治三十年四月生まれで百六歳。 今回で三年連続の県内男性最高齢者。
 小野さんには子供四人、 孫十人、 ひ孫十六人、 やしゃご一人の五代にわたる家族がいる。 自宅では長男の美明さん夫婦、 孫の一男さん夫婦の五人暮らし。
 視力や聴力が弱ったものの、 健康状態に異常はないという。 毎日午前七時三十分ごろに起床し、 午後十時ごろには就寝する。
 刺身が好物で日本酒の熱燗で晩酌をするのが楽しみという。 たばこは 「健康に悪い」 として吸わない。
 小野さんは助川市長から褒状とタオルケットの記念品を贈られ喜んでいた。


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