ストーリー/野球
カープ「戦争からの復興と平和への思い」
2019-08-05 午後 0:00
8月6日。広島に原爆が投下されてから74年のこの日、プロ野球・広島の本拠地・マツダスタジアムでは平和を願う「ピースナイター」が行われます。
広島の戦後復興のシンボルとされてきたカープ。親会社を持たない市民球団として結成され、今も広島県民に元気を与え続けています。結成当時を知る元選手の証言と、球団に根づく平和への思いを取材しました。
終戦から5年後にカープ結成 1期生の思い
終戦から5年後の昭和25年1月にカープは結成されました。今回、当時の話を聞かせていただいたのが、この年に入団した広島市出身の長谷部稔さんです。カープで7年間、キャッチャーとしてプレーし、通算64試合に出場しました。
高校卒業を控えていた長谷部さんは、高校で学んでいた土木関係の仕事に進もうと考えていましたが、野球部の監督に勧められ、カープの入団テストを受験。
約100人の中から合格を勝ち取り、プロ野球選手としての第一歩を踏み出しました。長谷部さんは当時を振り返り、意外な言葉を口にしました。
長谷部稔さん
別にカープに入ることになるとは思わなかった。高校の監督が『長谷部くん、(入団テストに)行け』と言ったから受けただけで。広島県か広島市の土木の部署にでも入ると思っていたけど、キャッチャーが足りなかったから合格したのもあるんでしょう。
(7年のプロ野球生活は)悔いはないけどね、それが自分の人生だったのかなと。
“脳裏にこびりつく”原爆投下
広島に原爆が投下された昭和20年。当時13歳だった長谷部さんは、学徒動員で大砲などを作る工場で働いていました。しかし8月6日は工場が停電のため休み。長谷部さんは現在の広島市安芸区の自宅にいたところ、突然、強い光に襲われました。
驚いて外に出ると、爆風が吹き荒れ、およそ10キロ離れた市内中心部に見えたのはピンク色に渦巻くキノコ雲でした。その30分後には、けがをした人が次々と近くの小学校に運ばれ、数日後には多くの人が亡くなったといいます。
長谷部稔さん
死人を焼くのに焼き場に行っても1人か2人かくらいしか焼くところがない。
ばたばた死ぬから、小学校のグラウンドのへりに穴を掘って焼きよりました。あれはひどかったですね、いまだに脳裏にこびりついとる。
復興の象徴へ しかし経営難も・・・
原爆が投下され焼け野原となった広島。その復興の象徴としてカープが誕生しました。結成当時から市民球団として熱い応援を受け、野球人気の高かった広島で、戦後の混乱の中、市民の希望となりました。しかし親会社を持たない球団はすぐに経営難に陥ります。
長谷部さんも、給料の支払いが滞ったほか、野球道具も満足に買えず、先輩選手のお下がりを使うなど、現在のプロ野球では考えられない苦しい状況を経験しました。
長谷部さんたち選手自ら、カープグッズ第1号と言われる鉛筆を練習後に街なかで売って、球団の資金を稼ぐこともあったということです。
長谷部稔さん
給料をくれんのじゃけぇ。当時の石本(秀一)監督から『長谷部くん、我慢せいや』とよく言われました。
街角でテーブルならべて鉛筆売りました。苦労しましたけど、よく買ってくれましたよ。
戦後生き抜いた広島市民とカープ
さらに解散の危機が迫ったカープを救ったのが、有名な球場での「たる募金」。貧しい戦後の時代に、市民が入場料とは別に募金をする姿に、長谷部さんはうれしさがこみ上げてきたと振り返ります。市民とカープは互いに支え合い、苦しい時代を生き抜きました。
長谷部稔さん
市民には感謝しかないですよね。草木も生えんというのを見事に復興させた。
カープは広島の元気づけと、広島の復興、一緒になってスタートしたから、だから今のカープがあるんですよね。
今も息づく平和への思い
結成から来年で70年になるカープ、今も平和への思いは根づいています。球団は、毎年8月6日の前後に、歴史を継承し平和を願う「ピースナイター」を開催。ことしで12回目となります。この試合には選手も特別な思いで臨んでいます。
特に被爆地・長崎県出身の大瀬良大地投手は、子どものころから平和に関する教育を受けていたため、毎年、この日に感じることは多いといいます。
大瀬良大地投手
小学生の頃、図書館で借りる本といえば『はだしのゲン』でしたし、平和公園もよく散歩します。自分自身、すごく平和に対する思いというのは強いですし、8月6日は毎年、平和の大切さを再確認させてもらう日です。
今は野球を通じてですけど、なんとか何か伝えられたらいいのかなと思いながら、プレーしています。
球団もこの「ピースナイター」の企画を、毎年県外出身の新入社員に担当させ、広島の歴史や平和について考えてもらう機会にしています。今回取材させていただいた打ち合わせでは、大型ビジョンに映し出す映像について意見を出し合いました。
「広島とカープがこれからも一緒に歩んでいくメッセージを出せたら」、「戦争を知らない若い世代に、ちょっとした幸せから平和を感じてもらう」・・・。自分たちで調べた広島の歴史をもとに「私たちが伝えたい平和をどうやって伝えるか」を真剣な表情で話し合う姿がありました。
ことしの企画を担当した1人、カープ入場券部の西村彰吾さん(福岡県出身)は「毎日お客様に入っていただいて、野球を楽しんでいただけているということも、平和の形としての1つだと思う。そういった環境を続けていくこともカープの球団職員としての仕事の1つだと思っています」と話していました。
野球ができる平和に感謝を
3回の日本一と9回のリーグ優勝を成し遂げ、戦後、市民に元気を与え続けてきたカープ。結成まもない頃を支えた長谷部稔さんは、野球を楽しめる平和がこれからもずっと続くことを心から願っています。
長谷部稔さん
平和だから野球ができるわけでね、やっぱり平和であってほしい。
感謝しておりますよ、野球が広島を復活させたから。そういう意味では、みんなも、またカープの選手も平和に感謝しながら頑張ってほしい。
松山 翔平
スポーツ新聞社の営業職から平成22年に入局。大分局・千葉局を経て現在広島局。4月からプロ野球・広島を担当。元高校球児。ストレス解消法はジム通いとカラオケ。