野口旭の「ケイザイを斬る!」
第8回 開かれた社会とその宿命

page 1of 4 /Text Only Version/「ケイザイを斬る!」の一覧/イラスト:藤本康生

民主主義はすばらしい

 最初に念を押しておくが、筆者は科学方法論については素人である。とはいえ、経済学業界の平均からすれば、方法論的な問題にも注意を払ってきた方といえるかもしれない。それは、筆者の大学院時代の研究テーマが、国際貿易理論の理論史研究だったからである。経済学だけでなくどのような学問分野でも、理論のフロンティアにいる研究者が方法論を意識することはめったにない。しかし、経済理論史という、理論展開のあり方それ自体を理解しようというメタ理論研究にとっては、方法論は最も重要な主戦場の一つである。

 例えば、筆者の研究上の恩師であった根岸隆教授(東洋英和女学院大学)の著作『経済学における古典と現代理論』(有斐閣、1985年)やHistory of Economic Theory(North-Holland、1989年)では、冒頭の章でまず科学方法論争の整理がなされている。The Methodology of Economics(Cambridge University Press、初版は1980年)というこの分野のロングセラーを書いたマーク・ブローグ(Mark Blaug)のように、方法論それ自体を研究対象にしている経済学史家・理論史家も多い。そのようなわけで、筆者も大学院時代には、科学方法論の文献をそれなりに読んだ。そこで出会ったのが、科学哲学者カール・ポパー(Karl Raimund Popper: 1902-1994)であった。

 筆者は3年ほど前に、ゆえあって、「『開かれた社会』の創出にむけて」(『ていくおふ』93号、2001年)という、ポパーを題材とした小論を書いた(『経済論戦―いまここにある危機の虚像と実像』日本評論社、2003年に所収)。筆者はそのとき、ひさしぶりにポパー関連の文献をいろいろと読みあさってみて、20世紀最大の実践的哲学者はポパー以外にはありえないという確信を新たにしたのである。

 ポパーの言葉は、たとえそれが自らの論敵を手厳しく攻撃する文脈であれ、常に平明さと爽快さに満ちている。それは、「開かれた社会」としての民主主義とは何なのか、われわれはなぜ民主主義を守らねばならないかについて、ポパーほど揺るぎない確信を持っていた思想家はいないからであろう。

 20世紀およびそれ以降の世界は、社会主義やカリスマ的独裁といったさまざまな政治的経験を経て、結局のところ民主主義に収斂しつつある。おそらく、その政治的変化の必ずしも小さくはない一部は、直接あるいは間接にポパーの言論活動の強い影響によってもたらされたものである。つまり、ポパーの知的実践は、社会に対する形而上学的考察が、実際に社会改善に寄与しうることを示している数少ない例の一つなのである。筆者のみるところ、それは、哲学と呼ばれる領域にありがちな「知の意匠」的スノビズムとはまったく無縁のものである。


政策批判はなぜ必要か

 筆者がポパーを再読して、もう一つ改めて気付かされたことがある。それは、筆者がポパーの関連文献を真剣に読んだのは、15年以上も前の大学院生時代だけであったにもかかわらず、筆者がそれ以降にやってきたことを現時点から振り返ってみると、この時代の「ポパー体験」が大きく効いていたらしいという点である。

 この連載の第1回でも述べたように、筆者は常日頃から、さまざまな経済問題に関して、メディアなどに流布されることで世間一般に幅広く信じられているような見方や考え方には、大きな問題点や誤りが含まれていることを実感してきた。そして、この数年は、その世間的通説の問題点や誤りを標準的な経済学の観点から指摘するということを、自らの専門家としての役割分担の重要な一部として考えてきた。筆者がそこで取り扱ってきた具体的なテーマには、貿易摩擦、通貨および為替政策、構造改革、マクロ経済政策とりわけ金融政策などがある。それらはすべて、これまでの日本の経済政策と深く関連した問題である。筆者はもっぱら、こうした問題について、政府、政策当局、立場の異なるエコノミスト、そして各種メディアに的をすえて、それらが展開している考え方やスタンスを批判するという形の政策批判を実行してきたわけである。

 ところで、ポパーの定義する民主主義社会=開かれた社会とは、端的にいえば、批判が排除されない社会である。より正確には、「異論が単に異論であるというだけで抑圧されない社会」である。この「批判」や「異論」がなぜ重要かといえば、われわれの認識には、一般に「科学的」と思われている認識も含めて、常にさまざまな誤りが含まれているからである。その誤りの多くは、ささいな取るに足りないものかもしれない。しかしそれは、社会に悲惨な帰結をもたらす致命的な誤りである可能性もある。だから、社会の構成員の誰かが、その誤りあるいは誤りの可能性に気付いた場合には、それは制約を受けることなく自由に表明されなければならない。その批判の自由が保証されてこそ、より多くの人々が誤りの存在に気付く機会が生まれ、その誤りが是正される可能性が高まり、社会は人々にとってより望ましい方向に改善されていくのである。

 逆に、実際には一つの思想的あるいは宗教的立場にすぎない無謬の真理(例えば「科学的社会主義」)や、崇拝の対象としての絶対的なカリスマに依拠するような、ポパーのいう閉じた社会=批判の自由のない社会では、誤りが是正される機会はほとんどない。その結果、多くの場合、その社会は停滞あるいは衰退を余儀なくされる。それが、社会主義国家や多くの独裁国家の現実の姿だったことは、いちいち例を挙げるまでもないであろう。

 このようなポパー的観点からみると、筆者がこれまで、上記のようにメディアや他のエコノミストや政策当局の批判をねちねちとしてきたことにも、それなりの意義はあったのではないかと自らを慰めることができるのである。というよりも、筆者は、入門時代に読んだポパーのメッセージに無意識のうちに感化されて、こうした政策批判を始めるようになったのかもしれない。それが、ポパーをひさしぶりに読んで得た、筆者の発見であった。

 もちろん、筆者の政策批判なるものは、単なる的外れであって、誤っていたのはこちらだったという可能性もある。その場合、筆者は、「行き過ぎた批判」の責めを負わねばならないのだろうか。あるいは、そのような行き過ぎの可能性を考慮して、他のエコノミストや政策当局への批判はできるだけ手控えるべきなのだろうか。筆者はそうは考えない。というのは、ポパー的な「開かれた社会」においては、そのような誤った批判を反批判する機会もまた、あらゆる人々にとって十分に開かれているからである。もちろん、筆者はその場合、自らの誤りを指摘されることで、専門家としての信用を大きく失墜させられることになるであろう。それもまた、民主社会で言論活動を行う以上はそのリスクを決して排除できない、開かれた社会の宿命なのである。

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