コラム

松井秀喜

ヤンキースと五本の矢 松井秀喜引退「やってみなけりゃ分からない」

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ジャーナリスト 朝田武蔵

 新聞社特派員として、ニューヨークに勤務した七年間、ヤンキースの試合は、欠かさずライトスタンドで観戦した。二〇〇三年、「日本一のホームランバッター」が、メジャー随一の名門球団にやってきた。当時、アメリカは戦時下にあった。

 シーズン開幕直前、イラク戦争が始まった。同時テロから、まだ一年半しか経ておらず、摩天楼の街は、テロ警戒の重装備兵と、反戦デモの怒れる群衆で埋め尽くされていた。

 松井秀喜の地元デビュー戦は、「開戦」から三週間後、四月八日の出来事である。厳戒態勢の球場では、荷物検査の列に二時間並ぶのが当たり前だった。あの松井の第1号満塁弾が、スタンドに飛び込んだ時、戦争という特異な精神状態にあったニューヨーク市民は、まるで何かから解き放たれたかのように興奮を爆発させた。

 球場全体に「ゴジラコール」と「マツイコール」が渦巻き、愛国の歌「ゴッド・ブレス・アメリカ」が、猛々しく響き渡った。

 あれから十年。松井が再びヤンキースタジアムに戻ってくる。なぜ、ヤンキースは、一日限定の契約を結び、引退式典という特別な花道を、彼のために用意したのか。常勝球団とはいうものの、ヤンキースが世界一に輝いたのは二十一世紀(二〇〇一年、同時テロ以降)に入ってから一度しかない。その二〇〇九年のワールドシリーズで、松井が手にしたMVPという勲章が、背番号「55」に対する畏敬の念となっていることは無論のことだ。しかし、あの満塁弾が、開戦直後という時代背景の中で飛び出した重要事実を抜きにしては、引退式典の理由は到底理解できないであろう。

 唯一の超大国が危機に瀕していたあのころ、市民は「強いアメリカ」を体現するニューヒーローの登場を求めていた。「ゴジラ上陸」の衝撃は、まさに社会的事件だった。満塁弾の残像は、イラク開戦という米国史と重なり合って、今も市民の記憶の中で踊り続けている。

 六日後には第2号。ライトスタンド三階席に飛び込んだ。「あんなすごい打球を見たのは、レジー・ジャクソン以来だね」。隣席ファンの度肝を抜かれたような表情をよく覚えている。

「僕はやる前から、物事を決め付けるのが好きじゃない。野茂(英雄)さんが、メジャーで騒がれた時(一九九五年)も、『バッターはメジャーで通用しないだろう』と言われたことがあった。やってみなければ、そんなことは分からないじゃないですか。それが言いたい」

 やってみなけりゃ分からないーー。

 それが松井の性分であり、人生の主題だ。

 ヤンキース在籍七年間で140本のホームランを打った。その後、ケガと闘いながら三チームでプレーし、通算175本。「アーチ」とは本来、弓型の放物線を意味するが、スタンドで、その弾道を見ていると、ギリギリと引き絞った弓から、突如、一本の矢が射られ、糸を引くような勢いで迫ってくる緊迫感がある。瞬間、息が止まる。

 175本の矢のうち、「五本の矢」に濃い記憶がある。二本は、第1号満塁弾と、世界一を決めたワールドシリーズ第6戦の先制弾。金色の光芒を放つ矢と言っていい。ほかの三本は世間的な印象より、打撃職人、松井の個人的実感として忘れ難いものかもしれない。いぶし銀的な色彩を持っている。第43号、第67号、第101号――。三本の矢を通して、松井の飛躍を点描したい。

 常々、松井が語る打撃の三原則がある。

 ①楽に、なおかつ正確にスイングする
 ②ゆっくり、ボールを見極める間合いをつかむ
 ③左の軸足から、踏み出す右足にスムーズに体重移動する

「一番難しいのは体重移動ですね。体重移動がうまくいかないから、緩いボールに泳がされたりだとか、詰まったりする。体重移動が常に一定だったら、いいバッティングができるんですよ」

 スイング、間合い、体重移動。そのうち体重移動に、一番の困難さがあるという。ある夏の晩、食事の後、一緒にエレベーターに乗っていた松井が、左足一本で立っていることに気付いた。

「どうしたの? 案山子のまねなんかして」

「案山子じゃないですよ。バランス取ってるんです」

 右足を少し浮かせた松井が左足に全体重を乗せるようにして、ひざを曲げ伸ばししていた。「いかに軸足に重心を残すか。これが本当に難しい」。舞台裏の一風景。案山子の踏ん張りこそが、体重移動の滑りを良くする工夫なのだという。

 レジー・ジャクソン直伝の教えでもある。ヤンキースの永久欠番「44」。通算本塁打563本。一九七七年のワールドシリーズ第6戦で、3打席連続ホームランを放った伝説の男。松井の「MVP仲間」だ。「ミスター・オクトーバー」という名誉ある称号は、今も彼のものだ。松井は二年目のオフ、マンハッタンのバーで、レジーと鉢合わせになった。レジーは薄暗い酒場で、初対面の松井に熱心に体重移動の重要性を説いた。

「その場で、いきなりバッティング教室を始めた。軸足に体重をためろと言ってた。誰でも知ってることだけど、もっと、もっと、ためろということだよね。もっと意識しろということ」


■第43号

 先日のオールスターゲームで、松井は解説者として初仕事をした。「対戦した中でビックリするような変化球を投げた投手は?」と問われ、即座に二人の名をあげた。

 ペドロ・マルティネス(サイ・ヤング賞三回)

 ロイ・ハラデー(同二回)

 メジャー移籍後、ペドロは「最初の天敵」であり、ハラデーは「最後の壁」となった。

「最初、ペドロへの意識が一番高かった。メジャーで一番いいピッチャーかもしれないですね。全然打てなかった。凄いなと思いました」

 初対決から17打席ノーヒット。転機は二年目の九月二十四日のことである。試合前の打撃練習。松井は普段通り、バッターボックスに入り、ホームベース寄りの白線と両足が並行になるよう構えようとした。ふと、一瞬の閃きがあった。

 今日は右足を後ろに下げてみようかな。

 左の軸足より、投手側の右足を一〇センチほど引いて構えることを思いついた。

「遊びですよ。全くの偶然です。それまで、体をちょっと開くことに気づかなかった」

 スパイク三分の一ほどの移動幅。足元をわずかに後方に置くことで、ボールの見え方が変わった。初のオープンスタンス。その差が、劇的効果を生んだ。打撃三原則の②、間合いの習得である。

「その練習から、打ちにいく感覚がすごい良かったんです。右足を、ちょっと下げてから、ビューって足を踏み出す。あ、いいな、と思って、試合でも意識的にやってみた」

 マウンドには、ペドロが立っていた。

 投球術の要諦のひとつは、打者の間合いを外すことにある。ペドロほど打者の「読み」を見分ける能力にたけた投手も類がない。速いボールにタイミングを合わせていると見れば、緩いチェンジアップで、変幻自在に打ち取る。間合いの閃きを試す相手として、これ以上の相手はいない。

「そしたらね、ヒット1本打って、ライトのブルペンにホームランも打った。あの時の自信は強いものでした。自分の技術に対して、初めて、か・な・り、自信が持てた。大きかった」

 ペドロからの初ホームラン。それが、第43号だ。

 それからの6試合で、松井は何と5本ホームランを打った。九月三十日には初の3試合連続ホームラン。二〇〇四年のホームラン31本は、メジャー十年間で最高の数字となった。


■第67号

 翌二〇〇五年、「4番松井」は苦悶した。打率は2割3分1厘まで落ち込み、202打席ホームランが打てなかった。シーズンの三分の一に当たる長期間である。満塁機では六回続けて凡退。ある日の練習では、冗談好きのキャプテンの目が、さすがに笑っていなかった。松井が打撃ケージに入る時、デレク・ジーターはショートの守備位置についていることが多い。

「僕が打つと、よくショートに打球がいく。ライナーでボーンと……」

 普段ならば、ジーターがすかさずリアクションを返す。
「アブねえじゃねえか、この野郎!」

 が、その日は、打球がショートに飛ばない。

「こっちに打て」

 ジーターが全身を使って盛んに指示を送ってきた。異例のことである。

「マツ」と、彼は松井に呼びかけた。

「お前、いい時は、俺の所に打ってるだろ」

 最後まで体の軸を残せば、打球は左方向に飛ぶ。キャプテンのアドバイス。レジーと同じだ。

「普段はバカなことばっかり言って、どうしようもねえな、コイツ、と思いますけどねえ。あの時は、右肩の開きが早いって言ってくれたんです。信頼って、そんなことの積み重ねですよね」

 六月以降、「松井はクラッチ(勝負強い打者)だ」という評判が、波紋のように、ニューヨークに広がり、揺るぎないものになった。六月十七日から四度の満塁機でことごとくヒットを打った。

「僕、満塁好きなんですよ。ピッチャーが、フォアボール出したくないでしょ。絶対ストライク取りに来るんですよ。だからボールを絞りやすい」。当時、松井はカラリとそう言ってのけた。

 クラッチ認定の極め付けは八月二十三日。1点ビハインドの九回裏。先頭打者の松井が起死回生の同点ソロを放った。チームはサヨナラ勝ち。

 中継のテレビのアナウンサーが興奮気味に叫んだ。「ワールドシリーズ第7戦。9回裏、満塁。1点を追う場面。あなたは誰を打席に立たせたいですか? 私なら、もちろん松井を選びます」

「最も頼りになる男」。野球選手としてこれ以上の賛辞はないであろう。「どんなプレッシャーを受けても、常に落ち着いて見える」「決してパニックにならない」。松井への称賛が、チーム内外にあふれた。その年、満塁の場面で19打数9安打、1死球、1犠飛。打率4割7分4厘。ヤンキースの主軸で、松井は堂々の一位だった。


■第101号

 二〇〇七年七月、五年目で初めてア・リーグ月間MVPを受賞した。一カ月で13ホームラン。巨人時代の二〇〇二年、「50」の大台を達成した年の八月、同じく13本を打っている。自己最多タイ記録。メジャーリーガー松井が、初めてニッポンの期待に追い付いた夏。

 最後の壁を乗り越えたのはその直後のことだ。

 実はハラデーは松井が最初に打った投手でもある。二〇〇三年三月三十一日。メジャー初打席の相手がハラデーだった。初球をレフト前ヒット。「最初に打っちゃったけど、その後、何回も対戦して、やっぱりすごかったということ。基本的には全部打てない。最初はラッキーだったんだって、そう思うようになった」。初ヒットの相手が、最後の壁になったという図式が何とも面白い。

 最初の四年間で25打数5安打。打率2割。「ハラデーがいいときは誰も打てない。すごいファーストボール(速球)を持ってる。シンカーとカッターね。シンカーが一番すごいんだろうね」

 松井の体から遠ざかるように滑り落ちていくのがシンカー、懐をえぐるように近づいてくるのがカッターだ。一五〇キロ以上の球が同じ軌道を描き、ホームベース直前で、手元か、向こうにククッと曲がるのだから、話はやっかいだ。

 八月八日のブルージェイズ戦。ついにその時が来た。「最後だけ甘かった」というハラデーのシンカー。松井はバットを豪快に振り下ろすと、熱いものに触れたかのように、今度はポーンと放り投げた。打球はバックスクリーンに消えた。第101号は、松井の両手に忘れ難い感触を残したに違いない。ここまで五年の歳月がかかった。「石の上にも五年? ハハハハ、かかりましたねえ」

 実は、月間MVPの快進撃が始まった七月二日、松井は第43号から三年近く間合いの軸となってきたオープンスタンスを突然やめた。構えた時の右足をバッターボックスの白線と並行にした。全く元の形に戻したわけだ。「ひざを曲げてみたり、オープンスタンスで構えたり、いろいろやったけど、その日は自然に、普通に立ったような感じでやってみた。戻す抵抗? 全然ないですね。いいものを出すためだったら、何でもしますよ。打てるなら右でだって打つ」

 打撃の深淵に触れた「無」の構え。やってみなけりゃ分からない。松井の真骨頂であろう。

「ちょっとしたことで劇的に変わったりするんですよ、バッターは。変えてるのは、木で言ったら枝葉の部分です。僕の根本的な部分は変わらない。大事な所をうまく出すために枝葉をどうしたらいいかを考える」。打者松井の「幹」は不変だ。それが打撃三原則。打席での構えなど「枝葉」に過ぎない。が、枝葉の色艶や成長具合、あるいは風向き次第で、木は突如として印象を「劇的」に変えるのだという。

「スーーッって構えて、そこからギューーッって沈んでいくような感じかな。その方が、何かほら、時間的に取れるような感じがするじゃない」

「スーーッ」「ギューーッ」。擬声語で表現される新感覚が、これまでにない鮮やかな色彩を帯びて体に宿り始めた。「要するに体重移動でしょうね。体重移動がうまくいったから、ボールの見え方もいいし、いいスイングができる。三つ(打撃三原則)は全部リンクしてるわけだから。(七月二日から)体の使い方がいい感じになり始めた」

 打者の仕事とは、ひと言で言ってしまえば、打撃の「円」を独創することである。変幻極まりないメジャーの球に翻弄された松井は二年目の秋、第43号で、独特の間合いをつかむ新段階に踏み出した。そして五年目の夏。第101号。最後に体重移動という最終課題に光明が差し、三原則が矛盾なく重なり合った。「最初の天敵」を打ち崩したのは317試合目。「最後の壁」を破るまで、さらに288試合を要した。

 さて、最初に触れたワールドシリーズ第6戦に戻る。先制弾の相手はペドロだった。第2戦の決勝弾もペドロから打った。メジャー最強右腕と言われたペドロは、第6戦を最後に、二度と再びマウンドに戻ってくることはなかった。松井の野球人生には、こうした劇的要素が極めて多量に含まれている。

 華やぎと、重量感を併せ持った金と銀の矢。「ヒデキマツイ」が放った五本の矢は、一世紀を越える名門ヤンキースの歴史に、今も、ズシリと、深く突き刺さっている。

 やってみなけりゃ分からない。主題は貫いたつもりだ。