おかげさまで、拙著『日中韓2000年の真実』(扶桑社新書)の増刷が決定しました!
昨年12月1日に発売されて、2度目の増刷です。(三刷)
これも皆様のお力によるものと、感謝を申し上げる次第です。

2007年に初めて拙著を出版してから、早5年。
5冊の著書をだしておりますが、多くを増刷することができております。
改めて御礼を申し上げる次第です。
もうすぐ私の恩師である名越二荒之助先生の御命日ですが、また墓前に報告できることが増えたと感謝を申し上げる次第です。

私が名越二荒之助先生と出会ったのは1998年、明治維新一三〇周年記念講演と題する講演会が靖国神社で開かれたときでした。
当時、私は名越先生を知らず、もう1人の講師として登壇された東中野修道先生の吉田松陰の講演に興味をもって参加をしていました。(もちろん、東中野先生のお名前も知らなかった)

昔の私は、韓国という国が大嫌いでした。韓国のイメージは「事あるごとに日本に難癖をつけてくる国」「反日国家」といった印象であり、決して好きになれない国でした。
そんな私の価値観が、名越先生の講演を聞いて、一変しました。その話の概要は次のようなものでした。
日本と韓国は近く、多くの悲劇をもたらしてきました。しかし心ある人たちはこれを憂え、そのような中でも、どのようにすれば友好がもたらされるか、苦慮してきた、と。
その話に感激した私は、名越先生に「感激しました」と伝えようとしましたが、先生は名越ファンに囲まれてしまい、結局お話ができないまま、その日は終えてしまいました。
しかし夜になると、「あのとき、声をかけておけばよかった」と、売店で買った『日韓2000年の真実』(のちに『日韓共鳴二千年史』に改題)を読みながら残念な思いを募らせていきました。


日韓共鳴二千年史―これを読めば韓国も日本も好きになる/名越 二荒之助

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翌日、私が入会していた「軍事史学会」の講演会に参加しました。講演が終わり、質疑応答の時間になったとき、真っ先に手を挙げて質問をされた方がおられます。
それこそ昨日、私が話を聞いて心底感激した名越先生その人でした。
私はこれぞ、天の采配と思い講演会が終わると早速、先生のところにいき、「昨日の講演は感激しました」と正直に胸の内を吐露しました。
先生はたいへん喜ばれ、その場で連絡先を交換し、別日で予定されている講演会予定をお送り頂きました。
以来、私は先生の「おっかけ」となりました。都内近郊であれば、先生の御講演はほとんど全て参加しました。
周りからも「アイドルのおっかけ」は聞くが、学者のおっかけをするなんて変わっている(笑)と笑われたりしましたが、私にとってはそれだけ夢中になれることでした。
なかには先生が「今度の講演内容は、以前、君が聞いたことのある内容だから来なくてもいいよ」と仰せになられたのもありましたが、「ご講演の内容は同じでも、質疑応答は千変万化します。先生の質疑応答も私にとっては楽しみなのです」と答えました。
先生もどこに行っても私が追いかけてくるので、可愛く思ってくださったのでしょう。
食事などを誘って頂けるようになりました。
そこではその日聞いた先生のお話について、自分なりの考えと、質問などをぶつける時間となり、ほとんどマンツーマンで先生のご指導を受けるようになりました。
しかし、私が幾度となく、先生に「弟子にしてください」とお願いをしても、先生は首を縦には振りませんでした。
先生は「親鸞聖人は自分の弟子をもたなかった。私も弟子はもたない主義だ」とのお答えで、了解を得ることができませんでした。
これが好転したのが、二〇〇二年の日韓教育文化協議会での論戦でした。
拙著『日中韓2000年の真実』にも書いたとおり、韓国の伽耶大学校の李慶煕総長が学校の敷地内に「高天原故地」なる碑文を建立し、「韓国こそが日本の神々が住む国であり、天皇が出でた場所である」などと主張していました。
先生は「君、これを論破できるか?」と尋ねられ、高天原故地に関する資料を渡されました。
中を読むと、戦前日本が唱えた日韓同祖論が韓国優位になって焼き直されたものであることがわかりました。しかし私は三歳のころから、父親に『古事記』や『日本書紀』は叩き込まれているので、李総長の牽強付会な部分なども即座に理解することができ、先生に「必ず論破してみせます」と回答。
韓国との論戦に赴くことになります。同時に反日教育の権化と言われる人をやり込めるなどしたため、先生は大いに喜び、夕食のときに「褒美をとらせる(笑)」といって財布から一万円を出されました。
私はたいへん恐縮したのですが、まわりから「先生のご厚意だ、受け取りなさい」と言われたので、褒美を頂くことにしました。
この活躍で、先生は私を一層、可愛がってくださいました。
その次に先生に託された課題は、墓地の調査でした。
青山霊園や多摩霊園は近現代史の偉人が葬られている宝の山ですが、「十分に調査したのがないから、君、これを調査したまえ」という下知が出ました。
そこで朝から晩まで幾日も青山霊園に通い、人物名を調べては調査をし、どこの区画に誰のお墓があり、その人物は何をした方なのかということを詳細にまとめあげました。
ある程度できてから、青山霊園の事務室に「こんなのをつくっています」と見せたところ、事務員が「ここまで精緻なものは、うちにもありません」と驚かれていました。(私は逆に、私くらいのものがないことに驚きましたが(笑))
さすがに墓地調査に夢中になりすぎて、雨がシトシトと降る夜中に、一人懐中電灯をつけながら、墓地調査をしたのは怖かったですが(笑)、それでも先生が喜んでくれればと頑張りました。
その成果が、今でも青山霊園・多摩霊園・谷中霊園などの墓地はすべて頭に入っており、「どこの角の何番目のどこそこには、誰それの墓があり、彼は何をした人物」というのを記憶するまでになっています。
これは私が歴史を研究するうえで、とても重要なことを知ることに繋がります。
それまでの私は、歴史をたんに活字で理解をしていました。史料を丹念にあたり、事実と事実を照合させて確認するといった、学術的な手法です。
しかしこの墓地研究を通じて、私は歴史とは単に活字を追うものではなく、こころを学ぶものだと気づきました。
こころを学ぶとは、その人物がいた場所に立つことで、空気として歴史を学ぶという作業です。うまく言葉にはできないのですが、歴史は文献をただ追うのではなく、現地を知り、現場を理解してこそ、本当のことがわかるということを、墓地調査をすることで理解したのです。
また墓地調査の傍らで、親日外国人の墓が掃除する人もなく、草などが荒れ放題になっているのに気づき、彼らの墓地の草抜きなどもおこないました。
名前をあげれば東京裁判で日本側弁護人として活躍されたブレークニー弁護人のお墓などです。
こういったことも名越先生はたいへん喜んでくださり、私の愚かなるを省みず、いろいろな場所に呼んでくださり、紹介などをしてくださりました。

私にとって名越先生と過ごした時間は、本当に楽しい時間でした。中国に行き、韓国にも再度行き、周りからも「あなたが先生のことが好きなのはわかるけど、年齢的に先生のほうが先に亡くなるのよ。どうするの?」と言われることもありましたが、私は「いつかはそんな日が来るかもしれませんが、今はそんなことを考えたくありません」と答えていました。
これは今にして思えば、将来、必ず起こり得る悲しい現実から目をそらしていたのかも知れません。

そして2007年に、先生とお別れするときが来ます。
2007年1月に先生からお電話を頂きました。そこで先生は病気で片目が見えなくなったこと。遺された時間はあとわずかであるということ。以前から一緒に本を出そうと約束していたが、それを急ごうと思うということ。そんな話をされました。
そして3月。名越家に電話をしたところ、先生が再度入院したことを教えられました。先に先生から病気のことを聞かされていたので、余命幾ばくもないことが察せられ、電話口でただ、ただ泣いていました。
その翌朝、体調がまだ良いうちに、話がしたいとお電話を頂き、急きょ、先生がご入院されておられた三宿病院へと向かうことになります。
本当はすぐにでも行きたいところでしたが、当時、重要なプロジェクトを任されていたので午後休とし、午前中にメンバーに指示を与えて電車に飛び乗りました。
電車に乗ると緊張の糸が途切れたようになり、電車の窓外を見つめながら、先生と一緒に過ごした楽しかった日々が、頭のなかで走馬灯のように駆け回り、涙が堪えきれなくなってきました。
幸い昼間の電車は人が少なく、またボックス席であったので、一人電車で声を押し殺しながら泣いていました。
病院に到着し、先生の病室へ向かおうとするのですが、病室へ近づけば近づくほど、涙がとまりません。
「死ぬと決まったわけではない。これが今生の別れになるわけではない」自分に言い聞かせますが、後から後から涙がこぼれてきます。
そこで病院のトイレにこもり、10分ほど思い切り泣いた後で、先生の病室へと向かいました。
「これだけ泣いたら、もう大丈夫。笑顔で、先生に挨拶をすることができる…」
そう念じながら、病室に入りました。
病室には名越先生と奥様がおられ、明らかに先生はやつれ果てておられました。そのお姿をみて、私はまた泣きだしてしまいました。
「本来、見舞いに来たのだから、笑顔で励ますのが役目なのに、オレはアホではないか…」と頭でわかっていても、涙がとまりません。
先生はそんな私をみて、笑顔で「よく、来てくれたね」と優しく声をかけえくださいました。
私は泣きながら「…はい。先生。。。先生も…お元気そうで」と答えます。
「拳骨君と会ってから、何年になるかな」
「私は1998年に、靖国神社で先生のご講演を拝聴いたしました。9年になります」
「そうか、9年か。もっと長く一緒にいたような気がするよ」
「はい…私もです。。。。先生との出会いは、靖国神社の英霊が、、、、英霊が導いてくださったものだと・・・・本当に・・・・おもっております・・・」
「そうだね。拳骨君とは色んなところに行ったな。韓国、中国、青山墓地、多磨霊園…みんな楽しい思い出だ」
「先生。。。。病気が、、、病気が治ったら、また、行きましょう。先生とお約束して、、、まだ行けてない場所がいっぱいあるじゃないですか」
「そうだ、君に託したい仕事がある」
「…はい?」
「私がやり遺した仕事が3つある。1つは『大東亜戦争を見直そう』を再刊するという話だ。今から読めば新しく修正をしなければいけない部分もあるが、これはもう仕方がない。これは弥吉君に頼んでいる。もう1つはモラロジー研究所で連載しているものをまとめて本にするというのがある。これは私の娘に任せている。そして最後が防衛弘済会から本を書いてほしいという依頼が来ている。アウトラインは定めたが、中身は手つかずのままになっているので、これを拳骨君に頼みたい」
「…先生…そんなこと言わないでください…。。。先生がお元気になれば、いつでも書けるじゃないですか…。。私には先生ほどの知見はありません。。それに、引き受けてしまうと、先生とお別れしそうで嫌です。僕は…僕は…先生とお別れしたくありません」
「拳骨君には、今まで、私の学んだすべてを教えてきた。君にはそれに応えられる力もある。君ならやれるよ。大丈夫。私の一番弟子だ。自信をもって…」
「先生…」
「そろそろ疲れてきた。最期に、握手をして別れよう」
というと、先生は私に手を差し伸ばしてくださいました。私は泣きながら、先生の手を握りしめました。あたたかく大きな先生の手を握り、「どうか…どうか…これが今生の別れになりませんように…」と祈りつつ。

その日の夜、名越先生の娘様であられる高草真知子先生からお電話を頂きました。防衛弘済会との面談のためです。
私は内心、私の代筆は拒否されるのではないかと考えていました。防衛弘済会は名越先生に執筆を依頼したのであり、無名の若造である私が執筆をするなら、出版を取りやめると決断するのではないかという疑念があったからです。
しかし、防衛弘済会は名越先生の病状に驚いても、私が書くことに対してはまったく驚きはしませんでした。
それはすでに入院される前に、名越先生は私のことを防衛弘済会の編集部に伝えており、共著とすることを伝えていたからです。同時に先生は「彼は能力においても問題ない」と太鼓判を押してくださっていたということで、防衛弘済会も正体不明の私を心よく迎えてくださったのでした。
これに安堵をしましたが、同時に驚くべきことが防衛弘済会から伝えられます。
それは当時の防衛弘済会のトップが、元官僚であったため「大東亜戦争という呼称を使わず太平洋戦争にするなら許可する」という話でした。
編集部は「大東亜戦争」が正しいと十分に理解しながら、なんとか本を出したいと懇願してきました。もちろんこの話は名越先生が知るものではありませんでした。

私は「名越先生が大東亜戦争という呼称を、戦後はじめて公でつかった嚆矢であるのに、太平洋戦争という呼称を使えるわけがないではないか!」と強く反発し、「先生のご許可が得ないと、とてもではないが私は出せない」と回答しました。
しかしながら、この時点において名越先生は会話できる状況にありませんでした。
進むに進めず、退くに退けず、悩みに悩み抜くことになります。
太平洋戦争という呼称を私が使うことは、「裏切り者のユダ」になることであり、毒杯を仰ぐに等しい行為であることはわかっていました。
しかし、私が託された先生からの願いは、防衛弘済会で本を出すことでした。私が拒否すれば、先生から託された思いを無にすることになります。
そのうち名越先生のご長男であられる健郎先生から、「私の学問も、学統も、全て彼が引き継いだ。彼が私の後継者である」と私が去った後に先生が話していたとお聞きし、先生の思いを知れば知るほど苦悩することになります。

しかし編集部から「この本は名越先生を知っているファンに向けてではなく、大東亜戦争と太平洋戦争の意味の違いをわからない人々に向けて書くもので、対象が異なるのです」と言われたことで、「たとえ行いが足利尊氏であっても、心が楠木正成ならば、きっと先生なら理解してくれる…」と思い、全責任を負う覚悟で執筆を開始しました。

それが、『これだけは伝えたい武士道のこころ』(防衛弘済会)となります。

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しかし、私が太平洋戦争という呼称を使ったため、出版後、当然ながらバッシングを受けることになりました。
今にして思えば、太平洋戦争という言葉を使わなくても、「先の戦争」「あの戦争」「第二次世界大戦」などの表現を使うとか、言葉自体を出さないという方法もあったのでしょうが、そこまでの知能が正直、あの当時は働きませんでした。(おバカさんなので仕方がないですが・・・)

同時に私は当時、三〇歳であり、著書は0。今以上の無名であったため、
「なぜ、最期の病床に招かれたのがあの若造なんだ!」(名越先生が入院していることを教えられたのはご家族以外では私だけだった)
「なぜ、私ではなくあの若造に名越先生が後を託したんだ!」
「常識的に考えて孫ほど歳の離れた若造に、仕事を名越先生が託すはずはない!本当は名越先生は後を託していないにも関わらず、あいつが勝手に名越先生の仕事を盗んだのではないか!」
などとも言われました。。。。
(保守派では偉いとされる某先生です)
「本書のあとがきを読めば、名越家が同席していたことがわかるだろうに・・・」と思いながら、正直、悔し涙を流したこともあります。

ただ逆にこれは効果を発揮し、「それだけ叩くからとんでもない本だと思って買って読んだら、中身は素晴らしいではないか」という声もあったということです。

この本は名越先生が託した本のなか(防衛弘済会がその後、出した本を含め)では一番売れることになり、4刷まで進むことができました。(最後は防衛弘済会が出版事業から撤退することで、絶版)
本書は日販・東販を通すことができず、官報の扱いで書店に並んだのですが、そのハンデを乗り越えて売ることができました。

陸・海・空の自衛隊幹部学校では、本書は教育のための副読本という扱いをとられており、田母神俊雄航空幕僚長(当時)が、朝の幹部への訓示で本書をとりあげ「私が推薦する本である」と言ってくださったため、幹部がこぞって買い込んだという話があります。
また平沼赳夫先生なども推薦文を出してくださり、方々からも高い評価を得ることができました。

絶版して数年が経ちますが、いまだに「あの本はないか」と問い合わせがあるそうです。当初の狙いは、目論見通りになったと言えると思います。

その後、経済界から私が単著として出した『日本と中国 歴史の真実』(経済界)もヒットし、増刷を重ね5刷にまで進みます。このあたりから、私に対する批判は消え去ることになりました。

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私は作家の第一歩を、裏切り者のユダとして歩みはじめましたが、悲嘆の淵に沈んでいた私に力を与えてくださったのは、読者の皆様に他なりません。
私は名越先生になることは無理で、こえることも難しい。
自分には名越先生に匹敵するほどの視野の広さもなければ、思慮の深さもございません。
しかし、先生が私に最期に託そうとした思い、これまで私に教えてくださったことは、いまでも深くこころに焼きつけています。

私が名越先生と同じ年になったとき、名越先生が私にしてくださったことと同じことができるだろうか。
同じになれなくても、その万分の一でも、人にしてあげることができる人間に私はなりたいと思います。

簡単に書くつもりが、かなりの長文になっていましましたが(笑)、『日中韓2000年の真実』が発売3か月で三刷まで行けたのも、皆様のお力によるものであると思います。
今後も精進をいたしますので、よろしくお願い申し上げます。


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