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私の新人時代  吉田 達  (東映)

 1958年、 (昭和三十三年) 4月2日、 東映入社、 東映東京撮影所企画部企画助手、 直ちに製作部製作課、 進行助手として、 一年間あずけられる。 スタッフ、 キャストの弁当、 飲物、 宿泊の用意、 監督の送迎用、 ロケの配車、 ロケの許可証取得。 そんなことが、 毎日くり返される。 体力だけの勝負の気がしたが、 美空ひばりちゃん主演の時は、 椅子をさし出す係だったので、 お二階さん (照明部) の若手から、 "あゝ、 大学は出たけれど…"とひやかされて最初に傷つき、 下宿屋で眠れなかった。
 1959年、 "名犬物語、 断崖の少年"伊賀山監督、 住田知仁・主演の映画では、 一日中、 犬の食事の用意で追いまくられていた。 後年、 "四季・奈津子" (東陽一作品) で風間杜夫氏にあいさつしたら、 "あの時の子役が僕ですよ"と云われおどろいた。
 企画部にもどって、 企画助手の仕事についた。 "ハリウッド・プロデューサー列伝"なんか読んで、 頭でっかちであったが、 企画を考えることが、 大変うれしかった。
 "百万弗を叩きだせ!"監督・内田吐夢、 脚本・八木保太郎、 主演・中村賀津雄、 森繁久弥、 山田五十鈴という構想の、 ボクシング映画であった。 脚本料百万円の第一稿が出来、 内田宅にとどけた。 夫人からミカンを出され、 縁側でいただいていると、 ドサッと音がした。 巨匠が途中まで読んで、 原稿を庭に投げ捨てたのである。 飛び上がって拾いに走った小生の、 当時の月給は二万円にも満たなかった。 両巨匠の対立で、 結局、 企画は流れた。
 1961年 (昭和三十六年9月)。 東映東京撮影所新任の岡田茂所長の演説。 "このスタジオは、 いま日本で最低のスタジオだ。 おれが来たからには、 こゝを日本一の撮影所にしようと思っている。 だからみんながんばって、 ついてきてくれ!"
 1961年2月14日"二人だけの太陽"第一回プロデュース。 二十六才、 10月長男が生まれて父親になる。
 1962年5月27日"残酷な月"三田佳子、 第一回主演企画。 1962年"アイ・ジョージ物語、 太陽の子"俊藤プロデューサー、 初登場の共同企画である。
 1963年3月16日"人生劇場・飛車角"
 岡田所長の飛車角が中心という発想が、 大ヒットを生み、 東映仁侠路線のスタートとなる。 弱冠二十八才の時の担当作品で、 四十一年前の話である。
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