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とり・みきの吹替どうなってるの「欧米人の吹替は実はアニメだった?」

 リニューアルしてからの2回目です。いちおう前回のテーマを引きずっているので、未読の方は「アジア人の吹替って不自然に聞こえる?」を先にお読みいただければ幸いです。

 さて、その「不気味の谷」ですが、谷というからには、いったん底に着いた後、また急な勾配を昇って高くなっていくはずです。つまり「似てるけどなんか違って変」と嫌悪感が強くなった感情も、もしロボットがさらに進化してさほど人間と見分けがつかなくなれば、ふたたび親近感が増す、ということになります。

 アジア人俳優の映画やドラマも、まるで日本人が喋っているかのようなレベルまでセリフがナチュラルに聞こえれば、前回で述べたような違和感は消えていくはずです。

 けれども、これがむずかしい。

 いったんアジア人俳優から離れ、欧米人の吹替に話を戻しましょう。なにせ語順からして違う原語を喋っているのですから、口パクやブレス、ブレイクを無理に合わせようとすると、どうしても日本語としては不自然なところで言葉が切れてしまう。これをどう違和感なく見せるか、聞かせるかは声優さんそれぞれに技があったりするのですが、それでもやはり限界は、ある。

 そこで、ナチュラルに合わせるのがむずかしいのであれば、別のアプローチとして、逆にめいっぱいデフォルメやカリカチュアライズをして、ブレスなども無視してオーバーにアテる、という方法も考えられます。そうすることでセリフに勢いや説得力を持たせてしまう。そもそも外国人が日本語を喋っている時点でかなり無理があるのですから、ベクトルをもっと過剰な方向に伸ばしてしまう。そういうやり方です。

 ここで我々は、日本の吹替がテレビというメディアで発達してきたことに留意しなければなりません。

 吹替の演技を問うときに、どうしても他の要素を見落として、声優個人の演技の質だけを語ってしまいがちですが、実は放送上の演技には、そのときどきの放送技術=映像や録音のテクノロジーが強い影響を与えています。影響というより、かなりの部分で演技を規定してるといってもいい。

 これまで僕は声優さんにインタビューするときに、外画の吹替とアニメのアフレコの違いについてばかり尋ねてきました。元の音声があり、役柄や性格が既に決まっている外画と、声やキャラクターをいちから自分で造り上げることの出来るアニメとでは、当然アプローチの仕方は変わってきます。

 現在は、それぞれを得意とする声優さんが、外画とアニメで棲み分けているような状態ですが(もちろん、両分野で活躍している人もいらっしゃいます)、ただ、これは、若手からベテランまで声優の数が多くなった、わりと近年の話です。

 70年代くらいまでは、いまほど外画とアニメの声のメンツに差はなく、同じような声優(当時はこの言葉は一般的ではありませんでしたが)さんの名前が並んでいました。そして吹替同様、日本のアニメもまた、60~70年代は主にテレビ放送という媒体で発達してきました。

 外国のアニメーションは、伝統的に声や音楽と絵の動きのシンクロを重視します。セリフはほとんどの場合アフレコでなくプレスコ(事前の録音)であり、キャラクターの唇や顎の動きは声優のそれを再現するように作画されます。

 翻って本邦の初期のテレビアニメでは、表情は少なく顎は止まったまま口だけが部分的にパクパク動き、体の動きもぎくしゃくしていました。のちにそうした省エネの工夫(?)は日本のアニメ独特の表現やリズムをも生んでいきましたが、ここではその功罪は割愛。

 そうした動きの少ないアニメでは声優の演技というのが、キャラクターに命を吹き込む重要な要素になってきます。いまだってそれは変わらないとは思いますが、当時の絵で番組を成り立たせるためには、より声優の演技に依存する割合が大きかったと思われます。声優さんが声でキャラを補完しフレームアップしていたわけです。もちろん2~3パターンくらいの口パクに、正確なリップシンクなど求められるべくもない。

 アニメほどではないにしろ、初期の外画番組でもまた、そうした声優によるキャラクターのフレームアップは必要だったろう、と僕は考えます。

 モノクロ時代の小さくて角の丸い、走査線の数も少なかった時代のブラウン管の映像は、現在のフルハイビジョンとは比べものならないくらい見づらいものでした。しかも放送初期にはその小さくて解像度の悪いテレビを何百人という人が街頭で見ていた、というような状況もありました。

 そういう画面で欧米人の芝居を見る、というのは、かなりわかりづらかったであろうことが想像されます。いや、実際僕がテレビで外画番組を見始めた60年代初めの頃でも、実感としてそういう印象がありました。まだ映画館でそれほど洋画を見ていない年齢でしたから、よけいに外国人の区別なんてつかないのです。演技の巧い下手もわからない。

 欧米人といえば目鼻立ちがくっきりしていて、役者の見間違いはしないように思いがちですが、実はふだん見慣れていない異種族というのは個体間の識別がつきづらいものです。藤子・F・不二雄さんの『モジャ公』というSFギャグマンガに、宇宙人であるモジャ公のクラスの卒業写真が皆同じ顔に見えてしまう、という話が出てきますが、欧米人から見た平たい顔の種族である我々もまた、そのように見えるはずです。逆もまたしかりで「ガイジンさんは皆同じ顔」に見えてしまう。

 さらに、先に述べたような小さくて粗い画面では、実写でも口パクはあまりはっきりとはわからなかったでしょう。

 初期の吹替は、TBSの前身であるKRTでは生放送でスタートしました。マイクも1本だけでレシーバーも共用。ごく少人数でたくさんの登場人物の声をアテていました(今でも複数担当はありますが、比べものになりません)。日本テレビは最初から録音方式でしたが、これもほとんど一発録りでした。

 そのような録音環境と画面の解像度では、口パクの精度を高めるのは無理な話でした。現在のように、パソコンでプロツールズを使って一語一句合わせていくような厳密さは求められなかった。ある種の即興芸のような奔放さがありました。

 こうした技術上の問題に加え、そもそもテレビ番組というのはわかりやすさが求められますから、外画の場合も、アニメのアフレコのように、よりはっきりしたキャラ付けが行われがちでした。当然それは原典よりはオーバーアクト気味になる。

 むしろ「欧米人はジェスチャーがオーバー」というイメージから、少々ショーウィーな話し方のほうが外国のドラマっぽい、しっくりくる、と思われてたフシもあります。

 アニメと外画のふたつだけを比べれば、そこには大きな違いが幾つもあります。しかしまだ黎明期だった日本のテレビ放送の中で見れば、初期の外画の吹替は、やり方としては今よりもアニメと感覚が近かったのではないか、というのが今回の話です。これは是非でなく、劇場でなくテレビで発達していった日本の吹替というのは、そうならざるをえなかった、ということです。

 やや時代が進み、長尺番組(洋画劇場)が始まる60年代後期は、高級家電として大きめのサイズのテレビやカラー放送が増えていった時期でもありました。また映画はオリジナルが先に公開されよく知られているので、吹替も原典の再現、ひいては演技のリアルさや成熟が問われたでしょう。

 音声制作会社の老舗・東北新社の当時のモットーは「隣の部屋で聞いたときに、普通のドラマだか吹替番組だかわからないような日本語版を作れ」ということだったそうです。初期の「日曜洋画劇場(最初は土曜)」のラインナップを見ると『裸足の伯爵夫人』『帰郷』『見知らぬ人でなく』『成功の甘き香り』『旅路』『お熱いのがお好き』『ハスラー』など、ハデなアクションではなく役者の芝居で見せる作品が並んでいます。

 フィックスに選ばれたのは、それまでも既にTVシリーズなどで活躍していた新劇系の俳優さん達でした。いまでは使わなくなった言葉ですが、外国製の外国人の登場人物を日本人が演じる芝居は「赤毛物」などと呼ばれ、新劇調の独特の抑揚のセリフは、それだけで「ガイジンぽい」響きが感じられました。そういう共通イメージが作る側にも見る側にもあったと思います。

 もっとも、そもそも、その新劇調のセリフ回し自体が日本語として不自然ではないか、という批判はのちのち演劇界でも吹替でも起きていくのですが、当時は、この新劇的セリフ回しの応用という「方法」は、リアルさの表現として非常に有効でした。

 しかし、そういうナチュラルさを獲得する努力が見られた作品もあった反面、CMの中断やカットが前提のテレビの吹替は、特にコメディやアクション映画などの場合は、過剰にわかりやすく、よりデフォルメした方向へも進化していきました。先ほどの話とは裏腹に「画面を見ないで聞いてても、すぐ吹替番組だとわかる」日本語のセリフ、そして、キャラ立てのハッキリした抑揚の強い独特の演技……。

 テレビのさらなる大画面化と高解像度・高音質化が進んだ現在でも、この種の、やや演技過剰な吹替はたくさん耳にします。というより、多く聴かれるということは、結局そういう喋り方がいちばん外国語(ほとんどは英語)に乗せやすく、かつ視聴者の人気も高い、ということでもあろうかと思います。

 「吹替っぽい喋り方」は、近年は複数の芸人さんのネタにもなったくらいで、それを聴いて笑いが起こるということは、つまり誰が聞いても吹替だとわかる、ある種の不自然な演技パターンが存在し蔓延し世の人に認識されている、ということになります。同様に、先に述べたように、いつのまにか聴いている側も「そういう喋り方のほうが欧米人ぽい」と、思いこんでしまっているフシがある。

 こういうのは複数の原語に精通している人に訊かねばと、先日、ある海外在住の漫画家さんに日本語吹替のナチュラルさについて尋ねたところ、やはり原語に比べ日本版の演技はかなりオーバーで、かつ高圧的であるように感じている、とのことでした。

 これはでも、字幕と吹替両方で観ている人はおそらく同じ印象だと思います。ただ、小説でも、ある種の翻訳文体が、日本語としてはちょっともってまわった表現ながら、しかし、そこが好きだというファンもいるように、ややオーバーなテレビ吹替も「そのほうが好きだ」という支持者も多くいます。

 僕自身も意訳満載+声優さんの持ち芸も楽しめる『コマンドー』のようなテレビ吹替は大好きですし、当「吹替の帝王」サイトでは、カット有りということで敬遠されがちなテレビ吹替の価値や魅力について、これまで何度も語ってきています。

 余談ですが、気をつけなくてはいけないのは、そういう声優調とでもいうべき声の演技の中に、抑えた演技の喋りを入れると、かなり浮いて聞こえてしまうことがあるということです。芝居の位相が他とずれている感じを受ける。声優調に慣れすぎてしまうと、実は日本語として自然な喋り、自然な演技をしていても、その人だけ「下手」に聞こえてしまったりする。

 昔からなにかと話題になるタレントや実写系の俳優さんの吹替も、番宣や、取材を呼ぶことだけが目的の、しかも演技的にはどうかと思われる起用には疑問を感じてしまいますが、演出家がある意味達者すぎる声優調の喋りを嫌って選んでいる場合もあるので注意が必要です。この辺は教条主義的に批判するのではなく、作品ごとに起用が奏功しているかどうかの見極めが大事でしょう。

 話を戻して……。以前は、テレビ吹替と字幕版の2種類しかありませんでしたが、現在はテレビ吹替と、オフィシャルな劇場用吹替版と、字幕版の3つの選択肢があります(すべての映画がそうではありませんが)。

 僕は、テレビ版とオフィシャル版では、吹替の演出や演技はやはり違ってしかるべきだと思っています。テレビの吹替映画は、あえて暴論というか極端な言い方をすれば「映画の素材を使ったテレビ番組」です。かつて、それしか吹替がなかった時代では、変更点は即「悪」として批判されがちでしたが、いまとなっては、僕はテレビ版吹替は翻案や過剰なキャラ演出があってかまわない、そのほうが楽しい、と思っています。

 逆に劇場版では、極力(演技の細かなトーンまで含めた)日本語による原典の完璧な再現が求められるべきでしょう。ナチュラルに、リアルに。実際にだいぶそうなってきているとはいえ、まだまだ「え、原典ではここ叫んでなんかいないのに」というようなことは多い。

 理想としてはアジア人俳優の吹替であってもまったく違和感を覚えないようなレベルの演技まで近づけてほしい。なかなかむずかしいとは思いますが。

 これらはテレビ版吹替と劇場用オフィシャル版吹替が共存する、という前提で話していますが、残念なことに、当節はテレビの長尺枠でも、局独自の新録はせず、劇場版音源(のカット版)をそのまま使う例が増えてきました。テレビ版として見ると、お行儀がよすぎたり、カットやCMを入れるタイミングが悪すぎたりして、どうにも居心地が悪い。

 また、逆に、劇場版は本来テレビ版より自由な日本語表現が出来るはずなのに(具体的には汚い言葉も使えたりするはずなのに)、後にテレビでOAされる可能性を考えて訳語を選ばねばならぬ弊害もあるそうです。どちらにとっても、あまりよいこととはいえません。

 さて、次回は、声優の演技に比べなかなか語られる機会の少ない、録音機材やハード面についてもう少し詳しくお話しします。韓流ドラマの吹替が違和感あるのには、実はもうひとつ理由があったのです。

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