加えて、当時のチームは本番前の短期間で4バックから3バックへの布陣変更を完成させなければならなかった。アルゼンチンのバティストゥータとクラウディオ・ロペス、クロアチアのシュケルとスタニッチという強力2トップを封じるためには、3枚のDFを置いた方がいいという判断があったからだ。そんな中、井原はリベロとして中西永輔(四日市TD)と秋田豊(盛岡監督)の両ストッパーを確実に統率するという大仕事を託されていた。初戦直前に怪我をしたのは誤算以外の何物でもなかったが、ピッチ内外で仲間と意思疎通を重ね、連係構築に力を注ぎ、ギリギリのところで実戦復帰。なんとか本番を迎えることができたのだ。
 
 6月14日のトゥールーズでの初戦。日本はアルゼンチンに善戦しながら、バティストゥータのシュートが名波の足に当たって入るという不運もあって0-1の苦杯。いきなり土俵際に追い込まれた。巻き返しを図るべく臨んだ20日の第2戦・クロアチア戦(ナント)も、一瞬のカウンターから繰り出されたシュケルの一撃に屈し、早くもグループリーグ敗退が決まってしまう。26日の最終戦・ジャマイカ戦(リヨン)も落とし、3戦全敗。岡田ジャパンは世界のレベルの高さを嫌と言うほど思い知らされることになった。

 この頃の日本の立ち位置を考えれば、惨敗もやむを得ないかもしれない。それでも彼らは最後まで崩れることなく、一体感を持って戦い続けた。急造3バックも機能し、大きく破綻することはなかった。そんな粘り強い集団になれたのも、つねに真摯な姿勢を押し出し、ひたむきにチームと向き合い続けた井原キャプテンの存在があってこそだった。

「結果は出ませんでしたけど、初めての大会でやろうとしていたことはある程度、できたと思います。その時点の日本が持っていた力も出せたのかなと感じますね」と本人も清々しい表情で話したことがある。

 キャプテンの形は多種多様だ。ドーハの悲劇の柱谷哲二(解説者)やブラジル代表を統率したドゥンガのような闘将タイプもいれば、2006年ドイツ・ワールドカップの日本代表を牽引した宮本のような頭脳派もいる。98年フランス大会のような混とんとした状況の中では、井原のような「冷静で寡黙なリーダー」が存在感を発揮した。日本のワールドカップ史を語るうえで、それは忘れてはならないひとつの大きな事実と言っていい。(文中敬称略)

取材・文●元川悦子(フリーライター)