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【特集・連載】

1998年10月23日 長銀が一時国有化 崩れ去った『護送船団』

2007年6月5日 紙面から

長銀の特別公的管理開始で会見し、頭を下げる鈴木恒男頭取(左)=1998年10月23日、東京証券取引所で

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 東京・虎ノ門に昨年建ったオフィスビルの二十階。菅井毅(52)は午前九時の出勤とともに、自社の株価をパソコンでチェックする。不動産投資運用会社、セキュアード・キャピタル・ジャパン(マザーズ上場)の最高財務責任者(CFO)。不動産投資ファンドの運用や不良債権の回収などを行う会社で、ファンドの主要出資者は海外機関投資家だ。

 投資案件を協議する会議に出席しながら、次々に送られる決裁書類を処理する。三カ月ごとの自社決算も担当だ。昼食は抜くことが多い。夕食も階下のコンビニで買ってすませる。オフィスを出るのは、深夜零時ごろ。激務を支えるのは「株主から委任された仕事への責任感」という。

 菅井は旧日本長期信用銀行の出身。入行四年目、為替ディーラーとしてひょんなことからシンガポール市場にテレックスをつなぎ、為替売買の取引をした。大損だったが、自由市場のスピード感に興奮した。続いて会社から派遣された米留学でシカゴ商品取引所の活発さに触れ、日本の規制の多さを肌身で感じた。以来、自由市場の信奉者。自分で考え、自分でリスクを取ることが持論だ。

 長銀は一九九八年十月二十三日付で破たんし、金融再生法に基づく特別公的管理(一時国有化)の適用第一号となった。「旧大蔵省と銀行界の癒着が切れた歴史的瞬間だった」。その七月に経営陣を批判して取締役を辞任した箭内昇(60)=現アローコンサルティング代表=は言う。

 護送船団と称された旧大蔵省の規制と保護下で育った日本の銀行は、九〇年代に入るとバブル崩壊で多額の不良債権を抱え、経営が悪化する。もっとも苦しい銀行の一つが長銀だった。

 長銀は旧日本興業銀行などとともに、戦後の基幹産業に対する長期資金の貸し手として誕生した。資金は独占的に発行する金融債で調達したが、金融自由化の進展で金融債の優位は薄れ、都銀との競争が激化した。

 こうした中、異様に高まった不動産融資の多くが不良債権となる。長銀は返済期限の延長や受け皿会社への飛ばしで問題を先送りし、資金繰りがいよいよ苦しくなると、優良顧客から強引な融資の引きはがしに出た。

 菅井は九〇年、主力取引先の海外融資物件の調査に加わったことがある。売買契約書の不備など、でたらめな実態に驚いた。調査チームが発した危険信号にもかかわらず融資は継続された。

 長銀には、大蔵省や政界が最後は救ってくれるという期待があった。護送船団の下、規制する側とされる側はもたれあってきた。不良債権の定義さえ当時はあいまいで、回収見込みがなくても、金利の一部でも返済されていれば不良債権とはみなされなかった。

 だが、時代は変わっていた。大和銀行ニューヨーク支店の損失隠し(九五年)や北海道拓殖銀行、山一証券の破たん(九七年)などで、金融界の一新を求める声が国内外から高まった。破たん直前の二カ月、夜ごと金融監督庁(当時)へ資金繰りの報告に通った本部幹部(53)は、相手の反応から、すでに長銀は救われないと感じた。

 結局、不良債権の定義は厳格化され、長銀は「債務超過」と認定されて破たんに追い込まれた。箭内は「政治家も役人も、追いつめられれば、それまでの“同じ穴のむじな”をばっさり切り捨てるのだと、感慨にとらわれた」と振り返る。

 破たんは、多くの長銀マンの人生を変えた。当時の本店営業部幹部(51)は「自分が知っているだけで、長銀関係者から十人近い自殺者が出た」という。

 長銀株が無価値になって、株を引き受けていた取引先の中には、十億円単位の損失を被ったところも出た。「長銀を最も助けようとしてくれた人たちを、最も損させてしまった。私もその責任を重く感じる」

 破たん前後の「人には言えない」顧客との折衝をこなした後、長銀が外資に譲渡されたため、それを嫌って、長銀ではつきあえなかった中小企業向けのコンサルティング会社を興した。自身も一千万円を超える長銀株を持っていたが、今では紙くず。「おれが死んだら、株券を棺おけに入れろと家族に言っている。よく燃えるぞ、と」

 金融監督庁に通った本部幹部は、一時国有化と同時に、無力感から辞職を願い出た。「信用不安に対して、長銀は大丈夫だと、預金や金融債のお客さんを説得できなかった。それができれば、破たんは避け得た」。今は別の金融機関に転職。今度こそ「本当にお客さまの役に立てる金融サービス」の実現を目指す。

 菅井も破たん直前、長銀を離れた。三年に及ぶ世界銀行への出向から帰国してみると、古巣の融資部門は開店休業で、人事部が再就職先をあっせんしていた。外資系証券会社、IT(情報技術)企業、そして現職へと、実力で渡り歩く人生の始まりだった。

 「長銀破たんは不可避だった。官の保護に甘えるより、むしろ早くつぶれた方がよかった」。菅井は、今の日本はまだ規制が多いと思っている。

 失意のうちに歩み始めた第二の道。だが「多くの長銀マンが、長銀で生かせなかった能力を新たな世界で花開かせている」と、箭内は言う。

 もちろん、自行の再出発に期待をかけ、残留した者も多い。長銀は新生銀行と改称し、旋風を巻き起こした。現金自動預払機の二十四時間稼働、インターネット・バンキング、投資銀行業務やノンバンクへの注力、専門性と業績重視の人事制度…。既存の大手銀行はその外資的性格に反発しつつ、アイデアの一部を取り入れることになる。

 新生銀の行員は約二千人。その四割が長銀出身者だ。(沢木範久)=文中敬称略

<プレーバック> 公的資金3兆6000億円つぎ込む

 長銀は系列ノンバンクによる無謀な不動産融資などがたたって、不良債権が膨張。1998年6月に月刊誌が「実質破たん」と報じて、信用不安が高まった。

 長銀は前年、旧SBC(スイス銀行)との提携を発表して経営再建を目指していた。長銀株の株価が下がったため、合弁で設立した証券会社の経営権をSBC側に奪われ、提携は挫折。このため長銀は大手行との合併を模索し、最後は時の小渕恵三首相が住友信託銀行を説得したが、失敗した。

 金融監督庁は98年10月、長銀を特別公的管理下に置いた。長銀を「債務超過」と断定し、長銀株を価値ゼロとする厳しい判定だった。

 長銀は2000年3月、米系リップルウッドを中心とする投資ファンドに譲渡されて再出発。同年6月に新生銀行と改称した。

 譲渡価格は10億円。もともと預金保険の対象でなかった金融債についても全額保護するなど、つぎ込まれた公的資金は約3兆6000億円に達し、日本経済に高くついた教訓となった。

 

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