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“外交弱小国”日本の安全保障を考える

第12回
惨憺たる結果に終わった小泉政権の国連外交
~常任理事国入りを急ぐより、国連改革圧力を強めよ~

国際問題評論家 古森 義久氏
2006年12月5日

外交的にはほとんど得点がなかった2005年の小泉政権

 2005年もいつのまにか、年末が近づいてきた。年末といえば、その年の回顧が常である。まだやや早いとはいえ、小泉政権の今年の功罪を回顧してみると、外交での最大の失態は国連対策のように思える。

 小泉政権の中国や韓国に対する外交が失敗だと指摘する論者も少なくない。小泉首相の靖国神社参拝に中韓両国が干渉し、首相が参拝の中止を言明しない限り、国家主席や大統領は首相とは会談しないと断言し続ける。相手国の内部の慣行が気に入らないからといって、相手国の首脳と会わないというのは、独善専行の恫喝外交である。だだっ子のような身勝手があらわでもある。そんな要求に小泉首相が屈すれば、日本の将来に禍根を残す屈辱の土下座外交となろう。

 だが首相が参拝を止めれば、とたんに日本の中韓両国との関係がよくなるように論じる識者も少なくない。しかし現実には中国は首相の靖国参拝があってもなくても、日本への圧力をかけ、非難をあびせる体質かつ体制の国なのだ。首相や閣僚の靖国参拝が日本の対中や対韓の外交政策ではないことは日本側のどんな靖国嫌いでも認めるだろう。だから靖国問題を日本の外交政策の功罪とみなすことは、中韓両国の外交トリックの術策に陥ることになる。

総力をあげた常任理事国入りキャンペーンの歴史的失敗

 この点、小泉政権による国連安全保障理事会の常任理事国入りの努力は完全に外交政策ではあった。だがその外交政策はどの角度からみても無残な失敗と評するほかなかった。日本政府、とくに外務省が2005年のはじめから膨大な経費とエネルギーを投入して、日本を常任理事国にする案を推したが、中国やアメリカの反対にあって、みじめにも挫折した。

 「私は外務省に入って以来、二十数年、一つの目標のために外務省の全機構がこれほど集中的に動員され、これほどの努力を払って、各種の工作や活動を展開した実例をみたことがありません」

 ベテランの日本人外交官がもらした感慨だった。だがそれほどの努力もまったくの失敗、なにも得られなかったどころか、かえって日本外交に醜い傷跡さえ残したのだった。

 常任理事国入りの大キャンペーンは川口順子外相時代から町村信孝外相時代にかけて、つまり2004年から2005年春をピークに2年がかりで推進された。東大教授から外務省に起用された北岡伸一氏が国連の日本政府次席代表となり、ニューヨークでその工作の先頭に立った。インド、ドイツ、ブラジルという三国と組んで、日本を含めた四カ国が新たな常任理事国になろうという案だった。4か国が主役なので、「G4案」と呼ばれた。

 しかし国連本部のあるニューヨークのイーストリバー河畔に秋風の吹く9月ごろには、G4案の死は明白だった。小泉政権の大誤算、あるいは日本外務省の歴史的といえる大失態だった。

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