「母は差別する側」と思ってた娘 数十年後に知った事情

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喜園尚史
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 ずっと封じ込めていた水俣の記憶。40年余の歳月を経て、語り始めた女性がいる。故・石牟礼道子さんの「苦海浄土 わが水俣病」を読んだのは大学生の時。水俣病が伝染病だと恐れられていた当初、商店で小銭を受け取ってもらえなかった、恨みの言葉がつづられていた。お金を受け取らなかったのは母の店だ。知らなかった――。

 換気のため開けていた入り口から、小さな背中が見えた。東京都新宿区のJR高田馬場駅近く、週末の雑居ビルの一室で、郡山リエさん(71)は、一人で資料作りをしていた。「水俣フォーラム」(実川悠太理事長)の事務所へ、神奈川県厚木市の自宅から通う。展示会を開くなど水俣病問題を伝える活動に参加し、5年前から理事を務める。

 水俣の湯堂(ゆどう)という100軒ほどの小さな漁村に生まれました。4人姉妹の2番目。祖父は漁師、父は地元のチッソ工場で働き、母は村で唯一の商店を営んでいました。

 水俣病が公式確認された時(1956年)、小学2年生でした。当時、両親から水俣病のことを聞いた記憶はありません。ただ、棺を運ぶ葬列をたびたび見かけるようになったことや、父が「今日は墓掘り番じゃ」と出かけていったことは覚えています。当時は火葬ではなく、土葬でした。

 学校では、平均台の上を歩いたり、目をつぶって両手の指先を合わせたりする検査を受けました。理由は言われなかったと思います。海で泳ぐことも禁止になりました。湯堂は初期に水俣病が多く発生した地域ですが、私は何が起きているのか、ほとんどわかりませんでした。

「苦海浄土」の一節に…

 熊本市内の高校、そして鹿児島大学に進みました。入学の翌年(68年)に、水俣病がチッソによる公害病と認定されました。患者の支援活動が活発になり、私も友人と水俣病問題の研究会を作って講演会を催しました。

 「苦海浄土」を手にしたのは大学3年の時でしたか、最初は故郷が美しく描かれていましたが、読み進めると、こんな一節がありました。

 「店に行ってもおとろしさに…

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