田山花袋と『田舎教師』周辺

松 本 鶴 雄


● 玉茗・花袋のめぐりあい(一)

 太田玉茗は自分の編集していた雑誌「歌舞伎新報」に尾崎紅葉の補筆で翻訳劇、リチャード・シェリダンの『彼刹羅(ビザロー)』を出している。紅葉だけでなく、泉鏡花と句会をしたり、正岡子規や桐野悠々などとも交わっていた。その交際範囲は文学流派を越えたものがあった。また国木田独歩の『欺かざるの記』にも「今夕、太田君よりゾラの話を聞き、感心したり」とあるのを見ても、交友関係の中でも外国の新しい文学知識に一日の長があったことがうかがえる。翻訳も多彩でボッカチオ、ゲーテ、トルストイ、ハイネ、モーパッサン、アンデルセン、サッカレー等がある。英文学以外の作家のものは英語からの重訳であった。次に掲げるのは『抒情詩』の翌年、明治三十一年に出たアンソロジー『山高水長』に収められたハイネの訳詩「語れ恋人」の第一連である。
 語れ恋人いかなれば
 薔薇はかばかり色あせし
 谷間の菫いかなれば
 ちからなげにぞ花咲ける
 この訳詩など日本で革命と情熱の詩人・ハイネが大流行する以前の先鞭であった。また『山高水長』は玉茗のほか独歩、花袋、宮崎湖処子、柳田国男、佐佐木信綱、石橋愚仙、繁野天来、子規、大町桂月、重松朋水、桐野悠々の十二人の詩集であった。当時の日本も若かったが、これらの詩人たちも若く、誰もが二〇代であったのだ。
 当時、太田玉茗は東京を離れ、三重県津の一身田にある真宗高田派本山専修寺の経営する中学の英語教師になっていた。中央での文学活動を続けながらの熱心な先生であったらしい。そのような玉茗を慕って現在も三重県では伊勢時代の玉茗研究が続けられている。また当時、友人の花袋や柳田国男がよく訪ねて来た。花袋の小説『名張少女』はその副産物である。だが二年後の明治三十二年五月に玉茗は建福寺住職に就任、羽生に帰った。
 彼が文学をやめ、田舎に帰ったのは当時の風潮の田園生活への憧れもあずかっていた。そのルーツは国木田独歩の『武蔵野』にあった。あるいは農村に移住し厳格な宗教活動を始めたロシアのトルストイの影があった。島崎藤村などもトルストイ主義実践のために小諸で『千曲川のスケッチ』をものしていたし、『抒情詩』の仲間の宮崎湖処子も『帰省』を書いて郷土主義に傾いていた。だいたい民友社が反都会の田園礼讚主義であった。世田谷千歳村の徳富蘆花の田園生活もその一つであろう。独歩は『田家文学とは何ぞ』を書き、後藤宙外も『田園文学論』を発表し大いに反響を呼んでいた。玉茗ばかりでなく、友人の柳田国男の民俗学への開眼もこうした世相の反映であった。明治四十一年花袋の小説『妻』に玉茗の帰郷希望が描かれている。田舎が良いか都会が良いか、花袋、独歩、玉茗、柳田のモデルたちががケンケンガクガクの議論をする。花袋モデルは言う「けれど君、田舎という処は恐ろしい所だよ。田舎は底の知れない泥深い沢のようなもんだからねえ。まごまごすると埋まって出られなくなる!」。かように花袋は玉茗の前途を心配していた。

● 玉茗・花袋のめぐりあい(二)

 前回触れた花袋の『妻』の場面は玉茗の帰郷是非論だけでなく、『近代日本政治思想の諸相』(未来社)の橋川文三の言葉を借りれば柳田国男の「歌のわかれ」でもあった。たしかに『妻』のこの場面で柳田のモデルは花袋や玉茗、独歩に向かって「僕はもう詩などに満足してはいられない。これからは実際社会に入るんだ」「恋歌を作ったって何になる!その暇があるなら農政学の一頁でも読む方が好い」と言い切っている。こうした柳田流の新版「詩を作るより田を作れ」が玉茗の田園主義と相互影響をなしたであろう。それに加えて『田舎教師』の玉茗モデルの言う「文壇の不真面目と党閥の弊」不信があった。
 ともかく玉茗は文学も都会も嫌になり、田舎に引退する決意を固めた。花袋が玉茗の妹、伊藤利佐子と結婚したのもこの頃であった。花袋の妻になった伊藤利佐子は何よりも花袋の気難しい母に気に入られていた。自分の一族をモデルにした花袋の大正五年の小説『時は過ぎゆく』などにもその様子が描かれている。花袋田山録弥の父・田山銷十郎は館林の秋元藩士であった。この秋元藩の昔の殿様は甲州郡内にいた。井伏鱒二描くところの『岳麓点描』にも出て来る。その後に川越に、山形にと転封を繰り返し幕末に館林に移って来た小藩であった。田山家も八石というから下級士族であった。維新後は父銷十郎は警視庁に勤務していたが、西南の役で西郷隆盛配下の私学党と激戦中戦死した。花袋の母は未亡人になって五人の子供を抱えて苦労した。そんな生活苦労のせいか、長男の嫁とはいつも折り合わなかった。しかし、次男の花袋の嫁には好感をもっていたようだ。『時は過ぎゆく』でも「行田の士族の娘」とあり、婚礼の際の母親の喜ぶ姿が描かれている。
 二人は妹を中にして義理の兄弟になったわけだ。花袋は羽生とは利根川を挟んだすぐ隣の群馬県館林の人である。ともに明治四年生まれの同年齢、風土観も同じであった。もっとも二人は隣町だからというので知り合ったわけではない。早稲田の専門学校在学中、香川景樹門の和歌の先生松浦辰男の所で、『抒情詩』の詩人たちと一緒に学んでいた。親しんでみると互いが隣町同士で、どちらも没落した貧乏士族の次男坊で趣味も感性も似通っていた。二人は運命的なものを感じたに違いない。何しろ彼等は文学上の親友であり、その妹が妻でもあった。それ以降は二人の仲は実の兄弟以上に親密になって行った。花袋は困ったことがあると大抵は羽生に、今は文学を離れ田舎の坊主になっている玉茗を訪ねた。大正六年に朝日新聞に連載した小説『残雪』にも次のような彼の本音が出ている。
「平野の寺に住んでいるO(太田玉茗のこと)という僧は哲太(花袋のこと)が少年時代から心を合わせて来た友達だけに、思想上にも、生活上にもまた女にも酒にも話のそりの合わないことのないほどの親しい間柄で、哲太と女の関係をも深く知っていれば、女も哲太と一緒にその寺に行って泊まったりしたことのあるほどの仲であるが、また哲太が世間で苦しんだ時には、いつも自由と温情とを以て彼を迎えてくれる唯一の幽棲とも言うべき処であったが、この頃、彼はまたそこに度々出かけて行くようになった」。このように困った時に羽生の建福寺住職を頼りにする一例が、評判作『蒲団』のモデル始末事件であった。人の好い玉茗は花袋の女弟子・岡田美知代の生んだ私生児を養子にしたのだ。

● 歴史の中で消えた駅

 明治四十年(一九〇七年)「新小説」に掲載された『蒲団』はその後の日本の小説の流れを変えたと言っていい。だが、小説中の内弟子横山芳子は現実には、若い学生の子供を生んだ。子供が生まれると二人の仲は破れ、内弟子が赤ん坊を抱えて苦労しているのを見かねて花袋は子供を引き取り、羽生の玉茗に養育を頼んだのである。だが、子供は三歳くらいで病死した。小説中の横山芳子こと岡田美知代は赤ん坊が建福寺になれるまで、相弟子の水野仙子としばらく寺に滞在していた。別れたはずの男が訪ねて来たり、大変な騒ぎが続いた。それらは花袋の小説『縁』『幼きもの』『再び草の野に』で描かれている。
 『再び草の野に』は大正八年に発表された。岡田美知代の『蒲団』後日談はほんの一部で、作者のねらいは散文詩風のタッチで、オムニバス形式を取り入れてコミカルに軽く書き流し、特定の主人公も筋もない新しい小説の実験であった。羽生在の草原に鉄道の駅が出来、そのまわりに町が作られる。だが駅は鉄道会社の都合で廃止され、町は廃墟になり再び草原に戻るという、いわば時の流れと世の流れの非情さをテーマにしたものであった。現在の東武伊勢崎線は明治三十六年頃、羽生駅の隣が終点であった。利根川にかかる鉄橋が費用がさむので、中々できないで、利根の堤防下の所に暫定的に終着の川俣駅ができた。田圃と林と沼地が不意に町になり、栄えだし、また数年後に草茫々の野に帰ったのだった。明治四十年に鉄橋が開通し、鉄道は群馬県の館林の彼方へと延びて行った。羽生の川俣駅は群馬県側に移転し、同じ川俣駅になった。どちらも地名が川俣であったのもおもしろい。かくして埼玉県側の川俣駅は突如消滅し、廃墟になったのである。まるで西部劇の町のようだ。その盛衰を花袋は庶民的視点で群衆の離合集散や喜怒哀楽をこめて羽生近在の自然の風景とともに描いている。花袋作品中『蒲団』『田舎教師』と並ぶ名作である。
 早春のある日、私は高校教師で詩を書いている行田の友人・吉野富夫氏に頼んで車で廃墟付近の探索にでかけた。あちこっち回ったが中々わからなかった。途中の小さな食料品店のおばさんは「川俣駅は川向こうの群馬県だよ」と言った。「それじゃなく、古い昔の川俣駅だ」と言ったら、「昔から川俣駅はあるよ。昔っていつ頃かい?」と聞くから「明治だよ」といったら、「そんな昔のことは誰もしらねーね」ときた。ようやく我々はその場所を発見した。後で東武線の羽生駅で聞いてみたが間違いなかった。利根川の堤防近くで東武線が鉄橋にかかる手前のガード付近である。昔の鉄道で使ったレンガ積みの橋脚あり、壊れたレンガの破片があたりの土中に四散した広場があった。一部が変電所になっている。反対側の広い空き地には昔の蒸気機関車の赤さびたカマの残骸があった。
 ああ、ここが花袋が作中ルーイン(廃墟)だ、ルーインだと感傷的に叫んだ、駅跡と消えた町であったのかと、しばし感無量になった。しかし明治の時代と違い周囲は「再び草の野に」なっているでもなく、北関東のありふれた新興住宅街が迫っていた。
 またこの小説はSなる若い小学教師の日記が地域の変遷の節目をつなぐ仕掛けになっている。Sこそ『田舎教師』の主人公・林清三こと「小林秀三」のイニシャルであった。

● 『田舎教師』のふるさと

 『田舎教師』の発表は明治四十二年(一九〇九年)であり、『再び草の野に』は大正八年(一九一九年)である。十年も前に死んでいるはずの主人公が出ているのは不自然な感じもするが、しかし、両作品の背景は同じ時代である。だから『再び草の野に』は『田舎教師』外伝でもある。花袋という作家は現実に小説中のモデルを求め、それをいろいろな作品に使う傾向があった。現実からヒントを得て書くのではなく、現実をそのままなぞるのだ。人物の場合も多少のデフォルメを加え、名前を変えるだけのものが多い。大抵は誰のことだとわかる、いわゆるモデル小説の典型で『田舎教師』もその一つである。
 花袋は『東京三十年』に「私は青年――明治三十四・五年から七・八の日本の青年を調べて見ようと思った。そして、これを日本の世界発展の光栄ある日に結びつけようと思い立った。ことに、幸いであったのは、小林秀三氏の日記が、中学生時代のものと、小学校教師時代と、死ぬ年一年と、こう纏まってO君(太田玉茗のこと)の手元にあったことであった」と書いている。この小林青年は玉茗の建福寺に下宿していたのであった。県立の熊谷中学を出て、家が貧しいので上の学校に行くのを断念し、羽生在の弥勒小学校の代用教員(臨時教員)になった。月給十一円というから生活を支えるのがやっとであった。
 これより少し前に石川啄木も郷里の渋民小学校の代用教員だった。月給は八円で、一年中前借りと貧乏のどん底であった。同じ教師でも漱石は松山中学で百円以上貰っていたし、島崎藤村は小諸義塾で三十六円であった。当時は学歴があるのとないのとではこれだけの差があった。しかし作中の青年教師は貧しさにもめげず、前途に明るい希望を燃やしていた。ひとかどの文学者になるつもりであった。仲間たちと雑誌「行田文学」も出した。だが運命は残酷であった。結核にかかり、学校もやめ、行田の実家で寂しく息を引き取ったのである。その日、日露戦争の真っ最中で町は遼陽陥落の報で万歳に沸き立っていた。
 現在、建福寺に彼の墓があり、弥勒小学校跡に田舎教師の立像が建っている。その小柄な容姿は淋しそうであった。また行田の水城公園にも山口平八氏筆の碑が建っている。
 このように花袋は玉茗の縁でこのあたりの風物人事を小説中で時々使った。前にもふれた朝日新聞の連載小説『残雪』もその一つである。羽生の建福寺や玉茗も出てくる。書き出しは「町の四つ角のところに来た。そこには乗合馬車が一台待っていた。馬はすでに杭につけられてあった。『妻沼町へはもうすぐ出ますか?』」である。花袋がモデルの主人公は女性問題で苦しみ全国を放浪し、妻沼の聖天院隣の割烹旅館(千代桝屋)に泊まり、聖天様境内で当地出身の源平時代の武将斎藤実盛を回想する。「彼はまたこの本尊を勧請した歴史に名高い髪を染めて北国に戦死した健気な武士のことを頭に浮かべた。無限に長い過去であった。また無限に長い将来であった。その長いライフの流れの上に、こうして一夜泊まって黎明の境内を歩いている・・・」と。この作品は当時では珍しい観念小説であった。その聖天様には芭蕉の句碑があり、近くに石原八束の句碑もあった。また妻沼は渡辺淳一の『花埋み』のヒロイン、日本で最初の女医荻野吟子の故郷でもある。

● ルージンの「隠れ家」の風土

 今回は太田玉茗と田山花袋の関係でふれ残したことを書く。玉茗が田舎寺に引っ込み、花袋は東京に踏みとどまった、そのありようから、さまざまなこが考えられる。前にもふれた花袋の小説『妻』(明治41年)は玉茗の妹で花袋の妻・利佐子との結婚生活を妻の立場から描いたものだ。当然そこには親友で兄でもある玉茗がしばしば登場する。作中名は花袋が(中村勤)、玉茗は(早川貞一)である。また、この小説にはツルゲーネフの『ルージン』がライトモティーフのように繰り返される。ルージンとは一九世紀のロシアの小説家ツルゲーネフの主人公の名前である。青年時代にドイツやフランスの大学で近代的な教養を身につけ、才能を開花させて帰国する。だが当時の帝政ロシアの社会は遅れていた。彼等の新知識や教養を生かす場は皆無であった。彼等は能力や才能を発揮する機会もなく、しだいに挫折をくりかえし、厭世的になり、世間に背を向けた生涯を送る。いわゆ《余計者》の原型であった。そして何故かルージンや同じツルゲーネフの『父と子』のバサーロフの生き方が明治日本の若い読者層を熱狂させた。二葉亭四迷の『浮雲』もこれから生まれた。小栗風葉の『青春』も正宗白鳥の『何処へ』にもその影響は流れていた。藤村も花袋も玉茗も独歩も等しくその影響から逃れられなかった。そうした時代背景からか『妻』でもルージンの《隠れ家》の話が伏線として使われている。
《一二年前連中が集まった時、ツルゲネフの『ルウジン』の話が出て、レジネフがルウジンに向かって言った『敗兵にも隠れ家が必要だ』という言葉について、大いに激して語り合ったことがあった。戦闘者には『隠れ家』などは必要ないという説と、敗れた者は一度静かにその創瘡を養う為の『隠れ家』が必要だという説と二つに別れて盛んに気炎を揚げた。大学生は敗北せばむしろルウジンたらんと言った。貞一はレジネフに同情を持っていた》。この大学生は柳田国男である。またレジネフとはいつも挫折するルージンを温かく迎える人物である。玉茗は羽生の寺に隠退し、レジネフ的な存在になって、東京で傷ついた友達を迎え入れたいと思っていた。しかし玉茗自身がまた、中央で志を果たせない挫折したルージンでもあった。『妻』ではこの数年後、玉茗は敗兵のようになって羽生の寺の《隠れ家》の住人になる。そこは太田玉茗にとって隠れ家であると同時に、花袋にとってもまたとない《隠れ家》であった。花袋は作中でも実生活でも玉茗にルージンとレジネフの二役を兼ねさせていた。次は『妻』で花袋(中村勤)が羽生を訪問する場面である。
《蝙蝠傘に雨を凌いで勤が傾きかけた山門の処にひとり立った時には、さまざまな思いが胸をついて湧き返った。当年の若い群れの一つの心は、此処に埋もれ果てているのである。柳町から原町喜久井町の長い路をシエクスピアを抱えて早稲田に通った彼、柔しい情を常に若い群れに与えていた彼、共に恋に泣き運命に泣いた彼、明治の詩壇に新しい種を蒔いた彼ーー彼は此処にいるのであると思うと過ぎ去った昔の追懐がそれからそれへと集まって来て、緩やかな哀愁が曲譜のように心に流れわたった。勤は此のなつかしい思いを静かに味わいたい気になって、山門の処にしばし立ち尽くした。秋雨は降りしきった》。
 モデル小説とは言え、この小説では玉茗の人となりが等身大に出ている。また花袋が田舎に隠棲した友の前途を気にかけ、くりかえし惜しんでいるさまも印象的である。

● 『田舎教師』のもう一つの主題

 先週の続きだが『妻』には建福寺で玉茗に最近書いた詩を見せられ、花袋が困る場面がある。時代遅れの詩なのだ。「田舎に安んじてしまうと、やはりいかんのだ」と玉茗も自戒して言う。花袋は一時期「田園生活」が唱えられたが、今考えると、あれは衰退現象だったかもしれないと、友人の田舎寺隠退を遠回しに批判した。東京で売れない原稿を抱えて貧乏生活に悪戦苦闘している独歩の話も出る。詩を捨て農商務省の役人になった柳田国男の噂も出る。四、五年で『抒情詩』の若い詩人たちの運命は変わってしまった。それを友情あふれる文章で花袋は描いている。そこにも《ルージンの隠れ家》の話が出る。
《ルージンの話、わが党にも隠れ家が一つぐらいあっても好いとその頃言った。その隠れ家に敗兵は来ずに、貞一自らが隠れることになったのである。若い群れは思想上にも実際上にも敗北に敗北を重ねながら、なお志すところに進んでいた。勤のその頃の心から見ると、貞一はあまりに平和に安んじ過ぎた》。花袋は『妻』の中で、たしかにルージンのイメージに太田玉茗を重ねている。いや、そればかりではない。花袋のルージン・イメージは『妻』の一年後の作品『田舎教師』になると不遇な運命の中で死んで行った小林秀三に転移する。中央で志を果たせずに夭折した彼もルージン族の一人と映ったのであろう。
 『田舎教師』の筋は小林青年の手記をなぞっているが、その精神的な部分はルージンであり、その日本版と花袋が思っていた玉茗でもあった。だから『田舎教師』には、隠されたもう一つの主題があることになる。それは小林秀三の生涯を借りて、そこに親友で、妻の兄・太田玉茗の存念を描こうとしたこと。それはまた、在りし日の花袋の暗い可能性との対決でもあった。そしてルージンの典型と無名な若者の非運と、玉茗の生き方の三つが一体化して《林清三》になっていると理解すべきであろう。この作品の深みもそこにある。たしかに花袋の小説はモデル小説であるのだが、時たま現実のモデルを乗り越えて永遠の主題に結び付くことがある。『田舎教師』などもその成功例であった。だからそこに描かれているのは薄命の代用教員・小林秀三だけではない。ルージンのイメージもあれば、玉茗の運命も暗示的に、批判的に描かれている。それゆえ作中人物「林清三」そっちのけで、モデル「小林秀三」を伝記的に探索し過ぎるのは、文学解釈としては邪道であろう。

● 鉢形古城址と田山花袋

 寄居町の鉢形城址に田山花袋の漢詩碑が建ったは昭和二十九年(一九五四年)である。武者小路実篤の筆であるところがおもしろい。自然主義文学の花袋と白樺派では敵対関係だったはずなのに、鉢形の古城址では仲良く共同作業しているさまがほほえましい。碑の裏側に故山口平八の撰文がある。それによれば「田山花袋翁は曾て此の地に遊んで詩情豊かな一篇を残した。今や此の詩は新しき村を本県に営んで理想郷を作りつつある武者小路実篤先生の麗筆によつて永遠に生きることとなつた」とあるから、この二人を結び付けたのは山口平八であろう。もっとも関田史郎氏の『文学で歩くふるさと』の記述によれば、花袋と親しかった柳田国男や正宗白鳥に頼んだが断られたとあるから、窮余の策であったことがうかがえる。しかし今まで見た文学碑の中でも行田の水城公園の田舎教師の碑、羽生の弥勒小学校跡地の田舎教師像、いずれも山口平八がかかわっていた。彼は深谷市の人で壮年時代、早稲田大学図書館長を勤め、その後は郷土埼玉の文化史、文学、渋沢栄一研究などにパイオニア的な役割を果たして来た。この花袋碑などもその一つであろう。
 さて「詩情豊かな一篇」といわれる花袋の漢詩は大正五年頃の紀行文『秩父の山裾』に出てくる。花袋は小説家であると同時に、旅行好きも手伝って一流の紀行文家でもあった。博文館から三年がかりの『日本一周』三巻を出して、関東東北地方が最後の巻になる予定であった。これなどもその一つであった。坂戸から越生、小川、寄居と今の八高線沿いの秩父山系の東側をガタ馬車や鉄道を使って、子供連れでやって来た。花袋は鉢形城址の雄大な景色に驚いて、書いている。《何とも言えない雄大なシインがそこに開けた。荒川は大きな渓谷をつくって、両山の間を激怒憤越して流れ落ちて来ているのである。(略)長瀞の渓潭が好いとか、三峰に至る間の山水が好いとか言ったって、どうしてこれと比較になろうと思われるほどそれほどその眺めはすぐれていた。私は敢えて言う、東京付近で、これほど雄大な眺めをもった峡谷は他にない、と。『襟帯山河好。雄視関八州。古城跡空有。一水尚東流。』こうした詩が、ひとり手に私の頭に上って来た。私は一時間以上もそこに彷徨した。感慨尽きるところを知らなかった》。この漢詩は「襟帯の山河は好く、雄視す関八州、古城の跡は空しくありて、一水なおも東に流る」と読むのであろう。(一九九六年、埼玉新聞連載「さきたまの文人たち」より)