日露和親条約以前から北方4島日本領 「大英帝国」作成地図で明示

日露和親条約以前から北方4島日本領 「大英帝国」作成地図で明示
日露和親条約以前から北方4島日本領 「大英帝国」作成地図で明示
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 【ロンドン=岡部伸】19世紀前半に英国王付きの地理学者が北方四島(国後(くなしり)(くなしり)、択捉(えとろふ)(えとろふ)、歯舞(はぼまい)(はぼまい)、色丹(しこたん)(しこたん))を日本領として扱った地図が英国立公文書館で見つかった。地図は英外務省の公式文書として保管。覇権国として「世界標準」を設定していた大英帝国が、北方四島を日本領と定めた1855年の日露和親条約以前に日本領と認定していたと推定され、北方領土交渉をめぐる日本側の主張を裏付ける資料といえそうだ。

 今回確認されたのは、1811年にアーロン・アロースミスが作製した「日本、クリール(千島)列島」と、40年にジェームズ・ワイルドが作製した「日本、クリール(同)列島」の両地図。

 アロースミスの地図は、択捉以南の四島が北海道と同じ青色に塗られ、択捉島とウルップ島(得撫島)の間に国境線が引かれたと認識できる。ワイルドの地図では、ウルップ島までが北海道と同じ赤色に塗られている。

 いずれの地図にも、北方四島近くに「Providence」との表記があり、プロビデンス号で1796年に北海道に上陸し、翌年、北海道西岸を測量した英海軍士官、ウィリアム・ブロートンの探検結果を反映したとみられる。

 ブロートンは著作「北太平洋探検航海記」の中で、(択捉島に当たる)北緯45度25分までは「エゾ(日本領)」と記した。このためアロースミスらは、ウルップ島より南の択捉以下の四島は自然生態系上、北海道と同じと判断したとみられる。

 両地図は、ウルップ島より北の島々をクリール諸島と記し、四島を千島列島(クリール諸島)に含めていない。

 ただ両地図には、択捉島に「or Itrup of Russians(またはロシア人のエトロフ島)」、ウルップ島に「or Urup of Russians(またはロシア人のウルップ島)」と併記し、露側の主張に一定の配慮を示した形跡もある。

 アロースミスは1790年、メルカトル図法による大型世界地図を製作し、国王ジョージ4世付きの水路学者となった。同地図はキャプテン・クックの探検航海の成果で架空の南極大陸「メガラニカ」を消滅させるなど当時最新のものだった。ワイルドも、アヘン戦争における中国の地図に香港を初めて登場させるなど、ビクトリア女王付き地理学者として活躍した。

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