論点1:

アジア通貨危機発生時の我が国による支援は適時適切であったのか。


 タイ・バーツが97年7月2日に通貨バスケット制(事実上のドル・ペッグ制)からフロート制に移行(バーツの切下げ)したことに端を発し、東アジア諸国は過去に経験したことのない通貨の動揺に直面し、金融危機に陥った。このうちタイ、インドネシア、韓国の三ヶ国はIMFへ支援を要請し、IMF支援プログラムに基づく再建に至った。アジア地域のリーダー的存在である日本は、この時三ヶ国に対してどのような働きかけをしたのか、またその対応は適時適切なものであったのか。


第1−1表 アジア通貨危機における通貨安定支援 (単位:億ドル)

  タイ インドネシア 韓国

IMF
世界銀行
アジア開発銀行

40
15
12

100
45
35

210
100
40

二国間支援 105 - -
 

日本
中国
オーストラリア
香港
マレーシア
シンガポール
韓国
インドネシア
ブルネイ

40
10
10
10
10
10
5
5
5

-
-
-
-
-
-
-
-
-

-
-
-
-
-
-
-
-
-

インドネシア政府緊急準備金 - 50 -
小計 172 230 350
第二線準備 - 162 230
 

日本
米国
シンガポール
その他

-
-
-
-

50
30
50
32

100
50
-
80

合計 172 392 580
出典:財務省ホームページ


 アジア通貨危機における各国共通の原因・背景としては、主として、実質的なドル・ペッグ制が採用されていたこと、巨額の短期資金が流入し これら諸国が過大な短期債務を負ったこと、国内の金融システムが脆弱であったことが挙げられている。また、タイの危機がインドネシア、韓国等へ次々に伝染(contagion)し、メキシコ危機の際の「テキーラ効果」を遙かに上回る深刻な影響を広範囲にもたらした。
 もっとも、経済悪化、通貨危機発生の背景は各国一様なものではない。タイの場合には危機顕在化以前より、事実上のドル・ペッグ制の下、人民元の減価、ドル高により、国際競争力を失って経常収支赤字幅が拡大し、投機筋のバーツ売りを誘発していた。為替投機が本格化するまでは短期資本が流入しており、タイ当局は為替介入で通貨防衛を行ったが、外貨準備が枯渇しドル・ペッグが破綻した。インドネシアでは、スハルト体制の維持可能性について懐疑的見方が急速に広まり政治不安が高まる中で、IMFの構造改革路線がスハルト体制と真っ向から対立し、これが金融・社会不安を高め、ルピアの暴落をもたらした。更に、これが政治経済情勢の悪化度合いを強め、最終的に政権の崩壊に至った。また韓国では、金融機関が持つインドネシア向け債権貸し倒れの懸念も、危機を深刻化させた。

1.タイ
 97年2月にタイ・バーツの投機売りが強まった。97年に入って1ドル=25バーツ後半で推移していた為替相場は、2月13日に1ドル=26バーツ台に下落した。当局の介入で暫く為替相場は落ち着いていたものの、97年5月に再び投機売りが加速した。タイ当局は5月14日に、シンガポール、マレーシア、香港と総額100億ドル超の大規模な協調介入を実施し、翌5月15日にはバーツ取引のオンショア市場とオフショア市場を遮断し二重相場制を採用するなど、バーツ防衛に奔走した。二重相場制は一時的に相場安定に効果があったものの、外貨準備が枯渇し、7月2日に通貨バスケット制(事実上のドル・ペッグ制)の維持を断念し、フロート制に移行した。続いて7月28日には、タイはIMFに対して支援を要請した。
 このIMF支援要請の前に、日本政府がタイを支援する余地はなかったのであろうか。榊原(2000)によれば、7月18日に予定されていた日・タイ蔵相会談の準備会合のためにバンコクに派遣した大蔵省(当時)のミッションに対して、タイ側は非公式に中央銀行によるクレジットラインの設定、円借款を要請していた。しかしこの時、タイ当局から正確な外貨準備高などの詳細な情報開示がなく、日・タイ蔵相会談における日本の支援協議は物別れに終わってしまった。公的資金を用いた支援を検討するには、被支援国の対外債務の状況や外貨準備などに関する実態を最小限把握することが必要であり、当時の日本政府がこれらの情報を入手しないまま独自に支援を行うことは難しかったものと思われる。タイ側が必要なデータを把握しこれを開示していれば、日本政府の対応も異なった可能性があろう
 タイによるIMF支援要請後、日本は極めて大きな役割を果たしたと考えられる。97年8月11日に東京でIMF主催の支援国会合が開催された。IMFの試算では支援総額として140億ドル相当が必要であり、このうちIMFが40億ドル、世銀が15億ドル、アジア開発銀行(ADB)が12億ドルをコミットし、残り約70億ドルを二国間支援で集めることを迫られていた。これに対して、日本はIMFと同額の40億ドルの支援(二国間支援で最大)をいち早くコミットするだけでなく、イニシアティブを発揮してアジア諸国を説得し、二国間支援で105億ドルを集め、最終的な支援総額は、当初の試算を大きく上回る172億ドルに達した。米国が二国間支援に加わらない状況では、支援パッケージの組成成功は日本のリーダーシップに負うところが大きかったと考えられ、日本がその支援を迅速に決定したことの意味は大きい。
 IMFは支援パッケージの組成に際し、当初、タイに求めたことは、財政・金融の引締めや経営危機に瀕した金融機関の閉鎖であった。IMFの緊縮政策に関しては、中南米型の処方箋をそのままアジアに適用したものであり、民間の借入増大と過剰投資による危機に対して財政引締めを課しても信頼の回復に繋がらず、かえって不況を深刻化させたと批判されている
 こうした批判に対して、IMFは、各国に政策を強制することは出来ず、アドバイスのみが出来るという立場にあり、引締め(高金利)を要求するIMFプログラムは金融構造改革のためのプログラムであり、通貨の売り圧力を受けた国では、一時的な引締め策が当該通貨保有の魅力を生み、切り下げ−インフレ・スパイラルを回避するのに有効な政策であることが経験的に認められている、と反論している。10
 タイへのIMF支援については、当初は緊縮政策を要求したものの、チャワリット政権(当時)が安定しておらず、IMFが指示する通りにプログラムを忠実に遂行できなかった部分もあり11、この時のIMFプログラムを評価することは難しい。しかしIMFがこれまでの伝統的な支援プログラムの実行に固執し、当初財政の引締めまで要求したことが結果的に経済の回復を遅らせることになったとの批判は的を射ていよう。97年11月にチュアン政権が誕生し政局が安定した後、IMFは98年2月の第二次趣意書では、98年度の財政見通しをGDP比1%相当の黒字からGDP比2%相当の赤字に緩和したほか、バーツがより現実的なレンジ内で継続して安定を示せば金利引下げの余地があるとして、引締め策を見直した。

2.インドネシア
 インドネシアでは、97年8月14日にルピアがフロート制に移行したが、外貨建て負債を抱えた民間企業のドル買い需要に加え、森林火災の被害拡大懸念が重なり、97年9月下旬に入ってルピアが急落した。インドネシア政府は10月8日にIMF、世銀、ADBに対して金融支援を要請した。10月31日にはIMF、世銀、ADB、インドネシア政府緊急準備金で総額230億ドルの金融支援が大枠で合意され、翌11月1日に用意された日本、シンガポール、米国等を含む160億ドル超の第二線準備と合わせて、総額390億ドル超の支援の枠組みが固まった。11月5日にIMFは第一次融資30億ドル(22億SDR)を実行した。第二線準備に関しては、結果的に使用もされなかったことから効果はなかったとの批判も見られる。しかし特にアジア危機のような資本収支危機の場合では、第二線準備であっても使用可能な資金の存在を知らせることで市場に対し安心感を与えることも指摘できよう。
 また日本は、シンガポールと共に第二線準備として最大の50億ドルを表明しただけでなく、11月3日にシンガポール市場で、ドル売り・ルピア買い協調介入に参加し協力した12。97年10月末に1ドル=3,590ルピア13だった為替レートは、97年11月3日に1ドル=3,207ルピアまで回復した。しかしスハルト政権は、金融支援に合意した2日後の11月2日に、IMF支援パッケージで廃止とされたはずの開発プロジェクトをすぐに復活させてIMFとの関係を悪化させた。加えて、支援パッケージに基づいて実行されたラジカルな金融再建(再建不可能とされた銀行16行の閉鎖等)が逆に金融不安を助長させ、ルピアは98年1月には1ドル=10,000ルピア割れまで暴落した。拡大した金融不安の前においては、日本の第二線準備のコミットとルピア防衛の協調介入も大きな効果をあげることはできなかった。
 他方、日本は政治的側面からもインドネシア支援に尽力した。98年3月中旬に予定されていたIMFの第二次融資30億ドルが、経済改革の進展が不十分として延期され、IMFとスハルト政権との溝がさらに深まった。この時日本政府は、橋本首相(当時)自らがジャカルタを訪問し、両者の関係修復に努めた。この訪問をきっかけに、スハルト政権はIMFを無視して提案したカレンシーボード制を撤回する一方、IMFは支援条件を一部見直し、98年5月から第二次融資が再開された14。橋本首相訪問当時は、日本はIMFに同調しているとの批判も受けたが、IMF・インドネシア双方から譲歩を引き出し、IMF融資再開を実現させたことに鑑みれば、日本は両者のパイプ役として十分な政治的支援を果たしたと評価できよう15。しかし、IMF支援条件に基づく燃料価格の引上げを引き金にして、98年5月にジャカルタ市内に暴動が発生し、スハルト体制は崩壊した。IMFは、民族不和の歴史があるインドネシアにおいて痛みを伴う緊縮財政が続けば、政治的・社会的混乱を引き起こす可能性がある点を軽視しすぎた。
 日本はこの暴動の直後の98年6月に日本輸出入銀行(当時、現国際協力銀行)を通じてツー・ステップ・ローン10億ドルを即時実行した他、99年2月には「新宮澤構想」の一環として総額24億ドルの信用供与を決定する等、単独でも多額の金融支援に取り組んだ。市場では、世銀、ADB等も「新宮澤構想」による日本の支援決定を受けて、追加支援の姿勢を打ち出すことになったと日本の支援を評価している。
 インドネシアに対するIMF支援に関しては批判が多い。当時のインドネシアは、スハルト一族を中心としたクローニズムで退廃しており、IMFがこの政治的混乱を結果的に助長させたことは疑いない。支援の決定に際して、IMFは政治的要因も考慮に入れるべきであったと言えよう16。問題銀行の閉鎖に関しても、混乱状況の中で強引に急速に進めたことが問題であり、IMFは金融システムの再構築を急ぎすぎたと批判されている17。IMFとインドネシアとの対立が見られる中で、日本は橋本首相の訪問で取った仲介的な役割や、世銀とADBの追加支援を引き出した新宮澤構想での信用供与等、重要な役割を担ったものと評価できる。

3.韓国
 韓国では97年初めから中小の財閥(chaebol)の破綻が続き、タイ・バーツが暴落して間もない97年7月15日に起亜グループの中枢にある起亜自動車が破綻したことが大きな衝撃を与えた。9月8日には、中央銀行が起亜グループのメインバンクである韓国第一銀行に1兆ウォンの特別融資を実施する程まで金融不安が加速した。その後、韓国は11月21日にIMFに支援を要請、12月3日にIMF支援パッケージ合意へと進んだ。韓国も、タイと同様に、外貨準備が枯渇した段階でIMFに支援を要請しており、要請自体が既に遅すぎたとの批判もある。この合意でIMF210億ドル、世銀100億ドル、ADB40億ドルに加え、第二線準備230億ドルを含む総額580億ドル超の支援枠組みが決定された。その中で日本は、第二線準備としては最大の100億ドルをコミットした。
 しかし、この支援は94年のメキシコ危機を上回る過去最大の規模であったにも関わらず、そのアナウンスメントは市場に安堵感を与えず、それどころかタイとインドネシアにおいてIMF支援パッケージが当初効果を挙げていないことも連想させて、市場に逆に悪影響を与えた。11月21日に1ドル=1,05518ウォンだった為替レートは、12月11日に1ドル=1,719ウォンまで急落した。日米欧の民間銀行が韓国向けローンの回収を速め、外貨準備が急速に底をつく可能性が一層高まった。格付機関のS&Pは、12月22日の韓国ソブリン格付けの見直しで、BBBからBへと一気に4ノッチも引下げた。
 榊原(2000)によると、この時韓国の短期対外債務の多くが韓国の民間銀行に集中し、97年12月12日時点で韓国の主要銀行が抱えていた短期対外債務残高は320億ドル、その借入先の内訳は、日本が118億ドル、欧州全体で118億ドル、米国42億ドルであったとされる19。この日米欧の民間銀行に対する債務返済繰り延べ(リスケジューリング)の成否が、まさに韓国の国家破産を回避できるかどうかの鍵を握っていた。この時日本政府は、邦銀に対して返済繰り延べの説得に奔走した。日本国内の金融市場が混乱する中で20、日本政府は短期間のうちに邦銀の合意を取り付け、98年1月29日に日米欧民間銀行団の短期債務繰り延べ交渉を妥結に導いた21。この交渉妥結は市場に大きなインパクトを与え、1月29日に1ドル=1,678ウォンであった為替レートは、翌1月30日には1,524ウォンまで値を戻した。交渉妥結が与えた安堵感に加え、97年12月に就任した金大中大統領によって海外からの証券投資に対する規制が緩和され、対外証券投資の流入が促進された。韓国の国際収支は安定を取り戻し、韓国は通貨危機を受けたアジア諸国の中でもいち早く危機克服に向かった。
 韓国支援についてもインドネシアにおけるのと同じく強いIMF批判がある。伊藤(1999)は「97年12月3日にIMFが作成したプログラムは失敗し、ウォンの下落を止める何の役にも立たなかった。韓国危機は短期貸付金のロールオーバー拒否によって起きた訳で、通常のIMFプログラムは効果がなく、融資銀行団がロールオーバーに応じたことで危機を収束させた。」としている。
 韓国の場合は、政府機関と民間部門が協力して通貨危機を成功裡に乗り越えた初めての事例と言える。通貨危機の前に既に一部財閥が破綻しており、インドネシア危機が飛び火してウォンが下落した。これは韓国の銀行がインドネシアに巨額の債権を持っており、これが不良化すると予想されたからであった。したがって韓国の民間銀行の債務危機をどうするかがポイントであり、韓国の民間銀行に対する債権を所有する日米欧の民間銀行が韓国危機解決の鍵を握っていた。この点を斟酌すると、韓国の危機においては、IMFプログラムではなく、むしろこれを受けた日米欧民間銀行団による韓国の金融機関の短期債務繰り延べが効果を発揮したのであり、最大のエクスポージャーを持っていた邦銀を説得した日本政府は大きな貢献をしたものと評価されよう。

4.まとめ
 三ヶ国における日本の支援を総括評価したい。
 タイでは、日本は最大の二国間金融支援を行うなど、支援パッケージの組成を成功させた。急激かつ柔軟性に欠けるIMFの引締め策によって危機が深刻化し、政治危機に陥ってしまったインドネシアでは、日本はIMFとインドネシアとの仲介役を務めた。韓国では最大のポイントであった民間銀行の短期対外債務問題について、日米欧民間銀行団による韓国金融機関の短期債務繰り延べ交渉で大きな役割を果たした。それぞれ個別の要因を抱える各国に対して、日本は適切な支援を行ったものと評価できよう。
 支援が適時であったかに関しては、インドネシアの様に政治的な問題が大きく関わっているが、支援が可能となった時点で遅れることなく支援を行ったことを併せ考えれば、適時と評価しうるのではないかと考える。
 もっとも、日本の支援にせよ、IMF支援にせよ、域内のモニタリング、サーベイランス体制が整備されていれば、より効果的なタイミングでの支援が可能であったと考えられる。また適切なサーベイランスを行うためには、当該国によるデータの開示が十分に行われることが大前提である。