遺伝子発現の確率性

図1.A. 一卵性双生児の指紋,B 左は右のネコのクローン(Science, 2005)




図2.Schrödinger's cat - 遺伝子発現の確率的変動は生きており同時に死んでいる細胞の状態を作るのであろうか?




図3.Glioblastoma multiforme (脳腫瘍) Percival Bailey (1933),Intracranial Tumorsより ... これはカオスだ.

図4.遺伝子発現ノイズの一般式 (Nature, 2004)

参考記事
化学反応の確率論的取り扱い
確率論的遺伝子発現
遺伝子発現は一定ではない
左の図1をみてください.Aは一卵性双生児の指紋ですが,ゲノムが同一である一卵性双生児でも指紋が同じになっていません.Bのクローン動物の場合も遺伝子は全て同じはずですが,毛のパターンが全く異なっています.こうした指紋や毛のパターンを決めるのは確率が支配する世界だからです.より厳密な研究としては,たとえば,ショウジョウバエの網膜の細胞の分化を決めるのは確率的な遺伝子発現によっていることが証明されています(Nature, 2006).こうした遺伝子発現が確率的に起こる現象であることをはじめて実験によりスマートに証明したのはElowitzらによる研究でした(Science, 2002).同じプロモータに駆動される2つの異なる蛍光色素を大腸菌に発現させて調べ,細胞1個1個で両遺伝子を駆動する転写活性化レベル(extrinsic noise)が確率的に変動するとともに,両遺伝子の比率すなわち同じ発現刺激のある場合での遺伝子発現も確率的に変動(intrinsic noise)することを明らかにしました.駆動レベルが低いときにはintrinsic noiseは特に大きいことがわかりました.
遺伝子発現の確率的遷移がもたらすもの
このような遺伝子発現の確率的変動は生命にとってどのような意味を持つのでしょうか? Elowitzらの研究の後,現在まで次のようなことがわかっています.
  • 変動する環境の下では確率的な遺伝子発現の多様性は増殖のために有利なことがある(Genetics, 2004
  • 遺伝子の機能が異なる2つのアレルを持つヘテロ接合体の集団では見かけ上ホモ接合体とヘテロ接合体の混合集団となる
  • 細胞集団,個体集団は複数の安定な定常状態を呈することをある程度説明できる
  • ノイズが転写因子からその標的に伝播するときに定常レベルを大きくシフトさせるような状態を作りだす
がん細胞が非常に異なる表現型を持つ細胞が混在する状態をなす(heterogeneity)のは細胞1つ1つがゲノムの多様性を持つこと以外に,このような確率的な効果もあると考えられます.
シュレーディンガーの猫
1920年代後半に物理学者Schrödingerは当時の量子力学的世界観に有名なパラドックスをつきつけてみせました.シュレーディンガーの猫です.それは原子核分裂をする放射性物質と核分裂の結果の中性子を検出する機械につながった毒ガス発生装置の入った箱の中に猫を入れるという思考実験です.原子核分裂は観測者が観測する前は,確率的に分裂しておりしかも分裂していないという状態が同時に存在する量子論的状態をとりますから,中性子を検出して毒ガスを出す機械も,毒ガスを出しており,しかも出していない状態が同時にありえるはずだとシュレーディンガーは考えました.すると猫は生きており,同時に死んでいる状態が共存するという奇妙な状態が生じるというパラドックスです.このパラドックスはミクロの量子論的世界と猫の生死というマクロの世界をつなげるという無理があることは皆さんにも明らかだと思いますが,細胞の場合にはどうでしょうか?遺伝子発現の変動が細胞死を誘導する遺伝子に起こったとしたら,突然細胞がなんの原因もなく死んでしまうということすら起こりうるという分子生物学的なシュレーディンガーの猫を考えることができます.
確率的遷移を安定させる仕組み
このシュレーディンガーの猫は細胞の生存にとって実際深刻な問題を突きつけます.生命進化の長い歴史の中では非常に低い確率で起こることが,生物集団の全ての個体に起こるということは起こりえることだからです.つまり,確率のイタズラ以外になんの原因もないのに,ある生物種が突然絶滅してしまうことだってありえるのです.生命はこうした確率のイタズラにどのように対処してきたのでしょうか? 酵母において遺伝子発現が確率的に変動するのを,フィードバックループを用いて巧妙に安定化させるしくみ(細胞記憶)があきらかになっています(Nature, 2005).つまり生命は巧妙なネットワークを作ることによってノイズを安定化させているのです(PNAS, 2006).
がんの中の無数のシュレーディンガーキャット
図3は多形膠芽腫という脳腫瘍です.このがんは,化学療法や放射線療法も効きづらく,5年生存率はほとんどゼロの極めて悪性な性質をもっています. 図からもわかるように,文字どうり多くのいろいろな形の細胞からなっています.こんなふうにいろいろな形をとるのは1つ1つの細胞が違うゲノムをもっているせいではないことは明らかですね.もしそうなら,大きい細胞は大きい細胞,小さい細胞は小さい細胞というように同一の親から生まれたゲノムが同一の娘細胞は集団を作るはずだからです.細胞の個性は確率的な要素がありそうです.これは形だけではなく,アポトーシスという自発的な細胞死もランダムに起こっています.つまり,細胞死も確率に支配されるシュレーディンガーの猫というわけです.このような不安定ながん細胞が集団としてみると,多くのがんの中でも最も悪性のがんの1つであるというのは,化学療法などの環境変動を生き抜く多様性を獲得しているためだと思われます.
確率的な遺伝子発現をどう捉えるか?
確率的なネットワークのモデルを作成するには,ボトムアップアプローチとトップダウンアプローチがあります(Nat Genet, 2004).