1. ビコーズジョージ:アルバム『アビイ・ロード』でこの曲をレコーディングしている時に、ジョンが考えついたアイディア。ジョンはベートーヴェンのソナタ『月光』の出だしを聞いて、そこからこの曲の基盤となっているギターのアルペジオのパターンを展開させていった。ジョン、ポール、ジョージだからこそできたハーモニーによるこのトラックを今新たに聞けば、彼らがいかに素晴らしいヴォーカリストたちだったかがわかる。 2. ゲット・バックジョージ:このトラックはドライヴ感あふれるロック・サウンドで幕を開ける。見事なドラム、素晴らしいギター…、全くもってすごいバンドだ!
3. グラス・オニオンジョージ:ジョンによるありきたりでない労作の一つ。彼は窓を叩き割る音や電話のベル、BBCの放送効果音などを混ぜ合わせたサウンドまで録音していたが、(当時は)すべて使われないまま終わっていた。その代わりとして、この曲により色彩を持たせるためのストリングスのアレンジを私が書くことになった。ひんぱんに耳にすることはないが、私のお気に入りの変わり種の一曲である。 4. エリナー・リグビー/ジュリア(トランジション)ジョージ:この曲のレコーディングを開始する時点で、すでにオーケストラ・サウンドが持つ可能性に気がついていたポールは、初めてストリングスのみによる曲を書いたのだった。私が手配したのは、4台のヴァイオリン、2台のヴィオラ、2台のチェロというダブルの弦楽四重奏団で、マイクロフォンに近づけて録音した時の音の浅さが、まさに我々が求める切迫感のあるサウンドを演出してくれた。バーナード・ハーマンの「サイコ」とそっくりなのは、明らかに意図的なものである。 5. アイ・アム・ザ・ウォルラスジョージ:ジョンが「アイ・アム・ザ・ウォルラス」を初めて私に弾いて聞かせてくれた時、なんとも気味の悪いサウンドだと思ったが、彼がやりたい方向性でバンドと共にトラック作りを始めた。すると今度は、私にあまり特定的にならないスコアを書いてほしいと言ってきた。長いこと真剣に考えた結果、私はヒューッという声やチャント(詠唱)、そして笑い声を録音するために、オーケストラを一団と16人分の声を確信を持って手配した。このコーラス隊がやっているものを聞いたジョンは、あまりの意外さに笑い転げた。気まぐれこの上ない曲ではあるが、間違いなく傑作だ。 6. 抱きしめたいジョージ:1963年から64年に年が変わる時、私はビートルズと一緒にパリに滞在していた。夜中の一時にブライアン・エプスタインがホテルの私に電話してきて、歓喜と誇りの入り混じった声で、「抱きしめたい」がチャートを急上昇し、ついにアメリカでナンバーワン・シングルになったことを報告した。まさに栄えある、そして意義深い瞬間だった。ビートルズがついにやったのだ! 7. ドライヴ・マイ・カー/愛のことば/ホワット・ユーアー・ドゥーイングジョージ:「ドライヴ・マイ・カー」は傑作『ラバー・ソウル』のオープニング・ナンバーで、1965年10月のとある夜の午後7時から深夜0時の間にトントン拍子でレコーディングが済んだ。このリズム感はショウの中のダンスの連続シーンにピッタリ合った。その数週間後に録音された「愛の言葉」は特徴的なビートを持った曲で、これもやはり数時間で完成した。「ホワット・ユーアー・ドゥーイング」はこれより一年前に録音されたものだが、やはり同じくドライヴ感のあるリズムを持った曲だ。絶頂期にあった彼らはまさに働きづめで、ひとときの時間も無駄にしなかった。 8. グンキ・ンサジョージ:場面を印象づけるようなサウンドで、ムードを盛り上げてくれる序曲がショウの中で必要になった時、ビートルズによるこれまで聞いたことのないコラーレ(合唱)がその役目を果たしてくれた。「グンキ・ンサ」となった理由は一目瞭然だが、弁解はすまい。なぜなら私から見るとまさに魅力的な作品に仕上がり、劇中でとてもよく映えているからだ。 9. サムシング/ブルー・ジェイ・ウェイ(トランジション)ジョージ:ジョージによる最も美しい曲で、これによって彼もジョンやポールと同じくらい素晴らしい曲を書けるということにみんなが気づき、彼に大きな自信を与えた。ビリー・プレストンによるキーボード・ラインを入れたマスター・トラックは5月に完成し、8月中旬には最終的なストリングスのオーケストラを加えた。仕上がりには大いに満足した。 10.ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト/アイ・ウォント・ユー(シーズ・ソー・ヘヴィ)/ヘルター・スケルタージョージ:この曲は間違いなくジョンの最も絵画的な作品の一つであり、スタジオでは本物のサーカスみたいなサウンド作りをみんなで楽しんだ。困ったのはジョンとポールがプロデューサーごっこをしている間、古代のハルモニウム(リードオルガン)を演奏しなければならないことだった。彼らは私があの忌わしい楽器のペダルを踏みながら何時間も悪銭苦闘するのを見て喜んでいた。ショーではやや違ったもっと暗いムードが求められたので、オリジナルのサウンドはすべてそのままにしながら、エンディングにかけてかなり切迫感に満ちた仕上がりになった。 11. ヘルプ!ジョージ:「ヘルプ!」はもともとビートルズの2作目の映画のために書かれた曲だが、多くの精神科医気取りの人々は、これを名声や成功から逃れようとするジョンの悲痛な叫びだと深読みしたがる。しかしむしろこれは単純明快な、よく出来た作品だと言える。スタジオでは大したいざこざもなく完成し、映画のタイトル・ソングとしても大成功だった。 12. ブラックバード/イエスタデイジョージ:ショウで「イエスタディ」を使うべきかどうかについては、かなり悩んだ。ひとつの時代の象徴ともいえる有名な曲であり、いいかげん聞き尽くされてしまったのではという心配もあったからだ。オリジナルに弦楽四重奏がつけられたいきさつはよく知られているものの、当時のレコーディング技術がいかに限られたものであったかということは、ほとんど知られていない。だからこの曲を入れない可能性も強かったのだが、これほど素晴らしい作品を誰が無視できようか?
「ブラックバード」のポールのギター・ワークの一部をイントロに導入したが、今聞くとこれで正解だったと思う。このシンプルさがダイレクトに、胸にグッと響くのだ。 13. ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァージョージ:初めて「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」を聴いた時のことは一生忘れないだろう。いつものようにジョンはたった一人の観客である私の前に立つと、アコースティク・ギターをかき鳴らしながら、あの素晴らしいオープニング・ラインを歌い出した。これまでとは全く違う素材で、レコーディングするにははかな過ぎるとも思えるこの曲に、私の心は完全に奪われた。この曲には数回の変更があったためレコーディングも一度では終わらず、最終的にはキーもテンポも異なる二つのヴァージョンを合体させることになった。自分では気に入っているが、ジョンはそれから何年も経った頃、自分は本当は満足していないと私に言った。きっとレコーディングのやり方に不満があったのだろう。もう許してくれているといいのだが。 14. ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー/トゥモロウ・ネヴァー・ノウズジョージ:ポールはつねに新しいサウンドを模索していて、家ではブレネルのレコーダーを使っていろいろ実験を繰り返していたが、ある日、テープの一定のループ上には音がいっぱいになるまで録音できることを発見した。私はこれらの中から何本ものテープを選び出し、時にはスピードやピッチを変えながら、ジョンが書いた新作に使ってみた。彼らがたった3テイクで録音した素晴らしいリズムを使って曲をスタートさせると、タンブーラの音色やけだるいリンゴのドラム・ビートを随所に入れながら、こうして「トゥモロウ・ネヴァー・ノウズ」は生まれたのだった。後に『サージェント・ペパーズ』を制作していた最中のこと、かなりインドに傾倒していたジョージは、興味深く特徴的な曲「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」を作った。ジョージと一緒に行なったこのレコーディングは、楽しくて仕方なかった。複雑なリズムと色調に対する彼の感性は尊敬に値するもので、この曲は『サージェント・ペパーズ』のB面のトップを飾ることとなった。ジャイルズの提案により、この2曲をこんなにも見事な方法で合体させることができた。 15. ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ザ・ダイアモンズジョージ:この曲の不思議な歌詞には、ジョンが渾身の力を込めて描いた、ルイス・キャロルやサルヴァドール・ダリの作品の向こうを張るサイケデリックな世界が広がっている。事の始まりは、息子のジュリアンがクラスメイトのルーシを描いた絵を学校から持ち帰ったことだった。絵の中の彼女はまるで宙に浮いているようで、その回りには小さな星がいくつも描かれていた。この純真さ!
曲はあっという間にできあがり、冒頭の数小節はシンプルながらも素晴らしい。 16. オクトパス・ガーデンジョージ:ショウの中でリンゴの「オクトパス・ガーデン」を使うことができて嬉しく思っている。多くの意味で、時代を感じさせない、そして子どもの耳にも馴染みやすい曲であり、何と言っても『LOVE』の監督が想像力を駆使して作り上げた、意外な始まり方をする海底シーンにピッタリな選曲だ。 17. レディ・マドンナジョージ:ポールと初めて会った時には彼がギターしか弾けなかったことを思うと、曲をグイグイと引っぱる彼のブギー・ピアノには目を見張るものがある。バッキングではカズーを使うつもりだったが、使いこんだクシと紙だけでもちゃんといい仕事をしてくれた。 18. ヒア・カムズ・ザ・サン/ジ・インナー・ライト(トランジション)ジョージ:ジョージの素晴らしいギター・ワークによるところが大きい、変わった拍子を持つ傑作だ。一方「ジ・インナー・ライト」は全く趣が異なり、こちらは基本的にジョージが『ワンダーウォール』の映画とアルバムのための音楽をボンベイでレコーディングしていた時に録音されたもの。ジョージは私がその存在も知らない、奇妙で素晴らしい楽器を操るインド人の名演奏家たちを何人も使っていた。イギリスに戻った彼は自分のヴォーカルを加え、私たちはそれにジョンとポールのヴォーカルをオーヴァーダブした。 19. カム・トゥゲザー/ディア・プルーデンス/クライ・ベイビー・クライ(トランジション)ジョージ:「カム・トゥゲザー」はいたってシンプルな曲ながら、演奏者たちの傑出した素晴らしさゆえに際立っている。ポールのベース・リフがリンゴの想像力に富んだドラムの素晴らしい土台を作り出し、ヘヴィなテープ・エコーを効かせたジョンのヴォーカルは、彼が手を叩き、マイクロフォンにシュッという息を吹きかける瞬間、最大の威力を発揮する。ジョージのギターも同様に際立っており、全体的に見てこれはビートルズの最高傑作の一つだと信じている。「ディア・プルーデンス」と合体させたのは「クライ・ベイビー・クライ」のエンディング部分のポールのヴォーカルの一部分で、これがうまくムードを醸し出している。 20. レヴォリューションジョージ:これほど力強いハード・ロック録音が他にあるだろうか。ギターのディストーションは当時の保守的なリスナーたちから非難ごうごうだったが、実際のところ当時シングル盤用にマスターをカットする際にはかなり多くのテクニック上の問題が出てきた。ジョンの曲の多くがそうであるように、そのメッセージはまさに明快で、当時としてはかなり革命的だ! 21. バック・イン・ザ・U.S.S.R.ジョージ:当時フラストレーションがたまったリンゴが一時的にグループを抜けてしまうという緊迫したムードの中、なんと2日でレコーディングとミックスをやってしまった。ポール、ジョージ、ジョンの3人はリンゴ抜きでなんとかやってみようと、ポールがドラムを叩いて「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」のレコーディングを始めた。やがてリンゴが戻り、自分抜きでもどうにか一曲できたことを知るが、他のメンバーたちは彼が戻ってきたことをとても喜び、花束をどっさり贈った。それにしても、これはリンゴの素晴らしいドラミングを聞くことができない数少ない一曲だ。 22. ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープスジョージ:ほとんどの人が「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のヘヴィー・ヴァージョンを頭に描くだろうが、それより前にほとんどデモに近い初期のヴァージョンがアビイ・ロードで録音され、『アンソロジー』が出るまで捨てられたも同然の状態だった。私はその初期テイクがちゃんとマスターらしい音になるように、ストリングスのスコアを書くよう依頼された。責任の重さを感じたが、ありがたいことに、オリヴィアやみんなが仕上がりにオーケーを出してくれた。「イエスタデイ」は私が1965年に最初にビートルズのためにスコアを書いた曲だが、それから41年後のこの曲で最後となる。これは世界を変えた驚くべき4人組と一緒に過ごした素晴らしい年月を、締めくくるスコアでもある。 23. ア・デイ・イン・ザ・ライフジョージ:いつものことだが、ジョンは奇妙なところからインスピレーションをわかせ、この場合は新聞の切り抜きだった。だがミドル・セクションが必要になったためポールに何かアイディアはないかと持ちかけたところ、あるにはあったが結局うまく合わなかった。こんなにも違うテンポやスタイルを持ったもの同士なのだから切り離すべきだ気づいたポールは、その穴埋めとして後から24小節分のセクションの案を出した。交響楽団が欲しいと彼らが言ってくるまで、私にはその部分を一体何で埋めるのか、まるで見当がつかなかった。ポールは音階を上げながらクライマックスに持っていきたいと考えていたが、それを効果的なものにするには、ある程度のオーケストラ編成が必要だった。結果はご承知のとおりで、初めて耳にした人は思わず呆気にとられるほどの素晴らしい出来映えとなった。しかしこれを破壊的と見なす向きもあって、愛しきわがBBCまでもがドラッグ使用をあおるとしてこの曲を放送禁止とした。 24. ヘイ・ジュードジョージ:現役時代のビートルズは多くの名曲を書きレコーディングしたが、中でも「ヘイ・ジュード」は傑出した例だ。私がオーヴァーダブのために手配してあったオーケストラ内で、ちょっとしたいざこざがあったのを思い出す。自分たちのパートを演奏し終えたミュージシャンたちに、私はコーラスに合わせて一緒に歌い手拍子をしてくれるよう頼んだのだ。図々しいことは承知だったが、誰もがいい顔をしたわけではなかった。一人のヴァイオリニストなどは激しく抗議し、自分たちはセッション・シンガーとして雇われたのではないと言い残して出ていってしまった。だが誰か他に一緒に彼らを祝福してくれる人はいないかと尋ねたところ、みんなが残ってくれ、超過分のギャラが支払われた。 25. サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(リプライズ)ジョージ:これはアルバム『サージェント・ペパーズ』における仮想のパフォーマンスを締めくくるために作られた、活気あふれるアップビートのオリジナル短縮ヴァージョンで、最終曲につなげるにはうってつけだ。オリジナル・レコーディングはまさにあっと言う間の作業で、1967年のエイプリルフールの日の夜7時から録音を始め、翌朝6時には終わっていた。 26. 愛こそはすべてジョージ:アルバム『サージェント・ペパー』は1967年6月にリリースされ世界中で評判を呼んだが、休む間もなく我々はとてつもない任務を与えられることになった。全世界同時中継のテレビ番組に、ビートルズがイギリス代表で出演することになったのだ。まさに寝耳に水の話で、イベントが行なわれた週は、私にとって一生忘れられないものとなった。ジョンの「愛こそはすべて」を考えてはいたものの、アレンジやプロデュースなど通常の仕事も抱えていた。番組の一週間前、父が病院に運ばれた。私は毎日父を見舞い、父も日に日に回復しているように見えた。そんなわけで私はイタリアにいる妹に電話して、休暇を取る必要はないと伝えた。だが火曜の早朝、いつものように花束を持って病院に入ろうとしたら看護婦に呼び止められ、私を脇に寄せると父が夜明け前に亡くなったと告げた。私はショックで呆然とした。おそらく「愛こそはすべて」の仕事が頼みの綱だったのだろう。私は自分を叱咤激励しながら、やらなければならないことに打ち込み、それが私にとって救いだった。実際のテレビ中継になると、スタジオだけでなくコントロール・ルームの我々にもTVカメラが向けられた。オンエア数秒前になって、私は外に止めてあるBBCの中継車にいるTVディレクターから、スタジオにいるクルーとつながらなくなったので指令を中継してもらえないかとの緊急コールが入った。私はあまりのくだらなさに大笑いした。もしぶざまなことにでもなったら、2億人の前で恥をかいたも同じことなのだ。それは一つの時代の終わりを告げ、今、我々のショウの終わりを告げている。まるまる一周したというわけだ。 |