●盆栽 ぼんさい
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広義には草木を鉢に栽植すること,あるいは鉢に栽植した草木をいう。狭義には鉢・石の上などに草木を栽植し,鑑賞を目的に草木を配置・剪定整姿して,絵画的山水あるいは自然の山水を楽しむものである。【インドにおける樹木信仰】人類が草木に関して,なんらかの感情を懐くようになったのは,人類の発生とともに古い。盆栽に少なからず影響を与えたインドの菩提樹は,神の宿る樹木の一つとして,古くからバリ(供物)がささげられていた。ブッダは,このように樹木信仰の対象の一つであった菩提樹の下で成道した。ブッダが亡くなると,礼拝の対象として,菩提樹が信者たちの信仰に重要な位置を占めるようになっていった。菩提樹に対するインドの仏教徒の特殊な心情は,仏教の中国伝来によって中国にもたらされ,アニミズムの対象としての樹木観に重要な影響を及ぼした。
【中国の盆栽】中国における園芸技術の発達は,農業技術の発達と深いかかわりがある。秦の始皇帝の焚書坑儒のとき,「医薬・卜筮(ぼくぜい)・種樹」の書だけは焼かなかったというから,すでに秦代には樹木栽培の書が存在した。中国最古の“鉢植え”は,後漢(25~220)の『望都漢墓壁画』に描かれる“戒火花(べんけいそう)”である。火を戒める草として,長方形の架座の上に置かれた丸い花盆に植えてある。秦漢時代には街路樹・庭木の栽培・庭園が広くみられるようになり,鉢植えも始められていた。
やがて,三国時代(220~280)から六朝時代(222~589)にかけては,後漢から現れた林泉を楽しむ風が一般化した。これに深いかかわりをもつのが老荘思想に基づく清談である。東晋(317~420)から山水文学・山水画が発達し,積極的に草木を楽しむようになった。仏教も,東晋になって思想として具体的に影響を与えるようになった。南朝宋の謝霊運(385~433)は,山水を美的享楽の対象であるだけでなく,自己の哲学の検証の場として,また悟りにいたるための具体的場として位置づけている。菩提樹信仰も,東晋の僧法顕(337?~422?)の『法顕伝』によって詳細に中国に伝えられている。園芸技術についても,現存する中国最古の農業書である北魏,カシキョウ※注1※撰『斉民要術(せいみんようじゅつ)』10巻をみると,巻4に果樹,巻5に樹木の栽培法を記す。栽種・株分・接木・移植などを記し,当時の技術水準が窺われる。
唐代になると,園芸が盛んになり,今日の盆栽的なものが確認できる。牡丹・芍薬栽培の流行は周知のことであるが(唐,段成式撰『酉陽雑俎』巻3,牡丹),庭師を職業とする者も発生し,せむし男のカクタクダ※注2※が著名である(唐,柳宗元著『種樹カクタクダ※注2※伝』)。“盆栽”の中国における初見のものとして,『唐李賢墓壁画』のなかの鉢植えがあげられる。これは単なる鉢植えではなく,鉢の上に石をすえ,植物を配しているので,風景の表現を採用している。唐代で盆栽発達史上注目すべきことは,北魏の達磨を開祖とする禅宗が,南・北両派に分かれて発展し,中唐ごろから逸品水墨画・水墨画が始まったことである。文学でも白居易が松の枝葉の音を楽しむ詩をつくっている。これらは盆中に自然の美をつくり,楽しむ特有の文化の発生を促した。
宋代では,唐以来の禅宗が仏教の主流となり,絵画でも水墨画が職業画家だけでなく,士大夫・文人のあいだで描かれるようになり盆中の小宇宙を楽しむ風が普及していった。一方北宋時代詩文のなかに,多くの鉢植の草木が登場するようになる。樹木盆栽では秦觀(1049~1101)が『盆梅』で〈花円瓷(えんじ)に発(さ)きて妙神に入る静に観る意思一団の真……〉と詠じた(『梅花百詠』)。宋代の園芸の隆盛は,多くの園芸書で理解できる。梅については宋伯仁撰『梅花喜神譜2巻』・范成大撰『梅譜1巻』・張功甫撰『梅品1巻』,菊については劉蒙撰『菊譜1巻』・范成大撰『菊譜1巻』・史正志撰『菊譜1巻』,蘭については王貴学撰『王氏蘭譜1巻』・趙時庚撰『金ショウ※注3※蘭譜1巻』などがあり,そのほかに海棠・芍薬・牡丹などについても書籍が書かれている。また,宋代では賄賂(まいない)として,花木・奇石が利用された。当時の士大夫にとって,強い関心の対象物になっていたのである。南宋の盆栽の様子を伝えるものとして,呂勝己の“盆中梅”を詠じた詩がある(『渭川居士詞・江城子』)。また,蘇州地方(平江府崑山県)では,崑山石をこの地方の人々が愛し,この石に小木を栽植していた(南宋,杜綰(とわん)撰『雲林石譜・崑山石』)。
元代になると,盆栽にあたるものを“些子景”というようになった(清,劉廷鑾(らん)撰『五石瓠・盆景』)。ようやく,中国において,固有の名称が与えられたのである。五山禅林の高僧中峰明本(1263~1323)の『盆梅』の詩でも,〈月団の香雪(梅の名)翠盆(すいぼん)の中 小技能く偸む造化の功……〉とあり,剪定整姿が行われた梅を表現している。今日現存の植木鉢は,宋代からのものが台北の故宮博物院等に蔵されているが,韓国の新安の海底から発見されたものは注目に値する。青磁の六角花盆・丸型花盆があり,とくに丸型のものが多数みられる。元代には東シナ海を中心に,多くの植木鉢が貿易品として流通していた。これらが小型であることは,実用的植木鉢として利用されたことを示す。一方,元末には文人画の様式も完成し,文人文化の様式化が進んだ。
明代になると,盆栽が江南を中心に“盆景”という名で流行する。蘇州のこととして,〈虎丘の人,善く盆中において奇花・異卉・盤松・古梅を植え,これを几案の間に置く。清雅愛すべし。これを盆景という。〉(明,オウゴウ※注4※)等撰『姑蘇志巻13・風俗』)とする。明,高濂撰『遵生八牋』によると,几案(つくえ)の上に置けるものが,最も好ましいという(巻3,盆花)。同書によると盆景が南京・蘇州・淞江・杭州・福建の浦城の五カ所で流行していた(巻7,高子盆景説)。今日なお中国では“盆景”の名称を使用するので,江南で流行したのが,中国の盆栽の主流を形成していったと推察する。一方,ほかの草花栽培趣味も明末から清初にかけて空前の発達をみた。明,張岱撰『陶庵夢憶』には,草花栽培に狂う金乳生の話や(巻1,金乳生草花),大量の菊を小屋のなかで栽培している張氏の話を記す(巻6,菊海)。
清代でも,筆記・詩集のなかに“盆景”の語が多くみえる。『五石瓠・盆景』には〈今人はボンオウ※注5※に樹石をまじうるをもって玩となす。長きものは,屈してこれを短くし,大なるものは,削りてこれを約くす。あるいは膚寸にして果実を結び,あるいは咫尺(しせき)にして蟲魚を蓄う。概して盆景と称す。云々〉とあり,明代から称呼される“盆景”の特徴を良く表現している。一方,明代以降すべて『五石瓠』でいう“盆景”が完全に支配したのではなく,植木鉢に樹木のみを植えて楽しむ趣味も併在し,いくつかの流派に分かれていった。中国で“盆栽”の語は,明末の王世懋(おうせいぼう)撰『学圃雑疏3巻』・清初のチンコウシ※注6※撰『秘伝花鏡6巻』などにみえる。“盆栽す(鉢植えす)”と読むが,これは単なる“鉢植え”を含みつつも,とくに『秘伝花鏡巻2・種盆取景法』にみられるように,今日いう“盆栽”も意識した“鉢植え”について述べられている。
【朝鮮の盆栽】朝鮮の盆栽は,庭園と同様,中国の影響によって始まったと思われる。李氏朝鮮(1392~1410)時代の姜希顔撰『菁川養花小録1巻』,これを発展させたユウク※注7※撰『林泉十六志113巻』のゲイエンシ※注8※や晩学志の項などによって,朝鮮の盆栽事情が窺える。徐氏は1764~1845年の人である。姜氏の本によると,老松・万年松・梅花・日本躑躅花(つつじ)・石菖蒲・怪石(水石)・種盆内花樹法・取花卉法などについて説いている。
【日本の盆栽】日本では奈良時代に典薬寮が置かれ,すでに中国から薬草栽培技術を学んでいた。また『万葉集』のなかにも,植物栽培を伝える多くの歌が認められる。
平安時代には,日本人のなかに〈草木などは,心生(お)ひに生ひたるは,拙(つた)なきものなり。人近(じか)にて,朝夕撫(な)でつくろひたるなん,姿,有様,なさけ侍(はべ)る〉(『宇津保物語』)とあり,人工を加えた樹木が観賞の価値があるという発想が生まれた。日本における庭園技術は,すでに推古時代(592~628)に百済人路子工(みちこのたくみ)によって伝えられたが,平安時代には庭樹の移植法・剪定法が形式を整えてきていた(森蘊著『平安時代庭園の研究』)。台の上に植物を配置する疑似庭園の“すはま台”も流行し,酒宴の席などで楽しまれた。この“すはま台”は,盆景的要素をもつものとして看過できない。藤原道綱の母撰『かげろう日記』には,長櫃(ながびつ)に植物を植えることが行われたことを伝える。盆器植えの記録としては,〈河内国志紀郡志紀郷の百姓志紀松,宅中に生ずる所の橘の樹を取る。其れ高さ僅に二寸餘にして花発(さ)く者なり。土器に殖えてこれを進む〉(『続日本後紀』巻8)とあるのが最も古い。自然の樹木美画法(大和絵山水画)も唐代までの山水画の水準まで,平安時代末までに到達しており,どのようなものが樹木の美であるか,しだいに日本人のなかに定着していった。
鎌倉時代になると,菅原道真の建議により遣唐使が停止(894)され,唐代までの文化の消化発酵期を過していた日本も,ようやくこの状況から脱する。鎌倉時代の中国文化導入に活躍したのは禅僧たちである。臨済宗の開祖栄西は1168年(仁安3,南宋,孝宗時代)に入宋し,1191年(建久2)7月帰国した。彼が南宋時代の抹茶法を日本に将来した。曹洞宗の開祖道元は,1227年(安貞1)(南宋末)に帰国した。南宋の禅僧も1246年に蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)が,1279年には無学祖元(むがくそけん)が来日した。こうして,ぞくぞくと南宋・元の文化が日本へ将来された。彼らは禅式庭園を伝えるとともに,南宋から元時代の盆栽趣味ももたらし,禅林で楽しまれ出したと推察する。鎌倉時代末の1330~31年ごろ成立した吉田兼好著『徒然草』第154段は日野資朝(すけとも,1290~1332)の盆栽について記す。〈(前略)この間植木を好みて,異様に曲折あるを求めて目を喜ばしめつるは,かのかたはを愛するなりけりと,興なく覚えければ,鉢に植ける木ども皆掘りすてられにける。云々〉とあり,剪定整姿による鉢植えを趣味としたことを伝える。また,鎌倉時代中ごろ以降に製作された絵巻物にも描かれるようになる。[1]平安末の僧で歌人でもあった西行(1118~90)の生涯を描いた『西行物語絵巻』(鎌倉時代中ごろ完成),[2]時宗の開祖一遍(1239~89)の生涯を描いた『一遍上人絵伝』(1299年完成),[3]春日明神の霊験奇瑞の数々を描いた『春日権現験記絵巻』(1309年春日社に納む),[4]浄土宗の開祖法然(1133~1212)の生涯を描く『法然上人絵伝』(1307年製作開始)などがある。[1]~[3]までがすべて石付盆栽で,[1],[3]が長櫃植え(ながびつうえ)で,[2]が鉢植えである。[4]が鉢植えの単幹。様式からみて,[1]~[3]までが平安時代以来の盆栽の形式で,『徒然草』の記事や[4]が禅宗を通して中国の影響を受けて以降の形式であろう。
南北朝時代から室町時代には,鎌倉時代に伝来した禅宗が発展し,五山禅林(京都:天龍・相国・建仁・東福・万寿の五寺,鎌倉:建長・円覚・寿福・浄智・浄明の五寺)を中心に五山文学が隆盛をみた。五山文学を通して,禅僧の中国から将来した盆栽趣味が窺える。作庭で著名な臨済宗の夢窓疎石(1275~1351)の法嗣である龍湫周沢(りゅうしゅうしゅうたく,1308~88)は,鉢に植えた松・梅などを愛好した。彼の盆松の詩によると〈一樹培従す一器の中 千年の翠色(すいしょく)影(かげ)重重 誰か知らん坏土の乾坤闊(ひろ)きことを 尺寸の間に祝融[峯]あり〉(『随得集』)とある。盆中に宇宙を強く連想する,禅僧独特の盆栽観の存在を確認できる。禅僧たちの盆栽観は,禅宗の普及とともに武士階級を中心に浸透していった。室町時代には将軍足利義満の時代に北山文化が,義政の時代に東山文化が形成され,日本の伝統文化の大成者,若しくは開祖が多数輩出した。佗び茶(わびちゃ)の村田珠光(じゅこう)・立花の池坊専慶・水墨画の雪舟,などである。とくに東山文化は,古来の風雅の精神に禅の精神を加えて,簡素で幽玄の境地を重んずるのを特色とするが,盆栽においても,平安時代以来のものに,さらに禅の精神が加味され,盆中の小宇宙を楽しむようになっていった。足利義政(1436~90)は,当代の代表的趣味者であった。『蔭凉軒日録(おんりょうけんにちろく)』の1463年(寛正4)5月10日の条によると,諸寺院から盆栽を献上させている。つまり,〈曹源院の盆山。石は美濃石。樹は柏森(真柏)二株〉〈梅津長福寺の盆山二個。石は愛宕岩。樹は一個は五葉,一個は柏森〉〈南禅寺栖真院の盆山。石は美濃石,樹は柏森一株,躑躅(つつじ)一株〉などである。石付盆栽が,“盆山”と称呼されていたことがわかる。禅林では,“盆松”・“盆梅”などと盆栽を表現するのが一般的であった。能や狂言でも盆栽をテーマとしたものがみられる。『鉢木』『富士松』『盆山』などで,盆栽が“鉢木(はちのき)”とも呼称されていた。一方,“盆栽”の語が禅僧の文中で使用され出す。夢窓疎石の法嗣,古剣妙快(こけんみょうかい)撰『了幻集・詩序』に〈盆栽木犀(もくせい)持而来〉とあるが,名詞としては充分定着していなかった。
安土桃山時代の盆栽事情を伝えるイエズス会刊(1603)の“VOCABVLARIO DA LINGOA DE IAPAM com a declaracao em Portugues(土井忠生等訳『邦訳日葡辞典』)”によると〈Bonsan ボンサン(盆山)日本人が,緑色の苔をつけたり,何か小さな木を植えつけたりして,水面に浮かぶ小さな岩のような格好につくる,ある種の石や自然木の材〉とあり,前代以来の“盆山(石付盆栽)”が多くみられたことがわかる。“盆松(松の盆栽)”については,1602年(慶長7)に臨済宗派の東福寺(京都五山の一つ)の住持月溪聖澄が書いた『盆松詩并引』がある。これによると,本能寺に諱を日守(坊は定蔵)という僧が,五鬣松(ごりょうしょう)を愛培していた。この松は日守の父が,最初地上に植えていたものを盆中に移し,松の勢力をおさえ,幹や枝に模様をとり,龍が屈蟠したように整姿したものであった。名松として当時評判で,多くの人々がこの松をみに来ていた。僧呂・武士階級に広まった盆栽趣味は,禅宗の全国波及とともに地方へも及び,また庶民の台頭に伴い彼らのあいだにも普及していった。
江戸時代になると,にわかに庶民へ普及していたことを示す史料が豊富になる。当代初期に描かれた『舟遊観楓図屏風』『祇園祭礼図』・住吉具慶(1631~1705)筆『洛中洛外絵巻』などに,町人の盆栽趣味が示されている。全国に植木市が開かれ,江戸では日本橋茅場町から坂木町のあたりをさす俗称になるほどであった。琉球(沖縄県)の朝市でも,切花・植木の類が出されて,全国に園芸趣味が及んでいたのである。とくに三都(江戸・大坂・京都)の人々にとっては,“寸土寸金”の地に住み,自然から遠ざけられていくと,庭木・鉢物などの趣味は広まっていった。専業の植木屋も生まれたが,江戸に17世紀後半ツツジを広めた染井(駒込)の百姓猪(伊)兵衛の業績は大きい。後世この染井を中心に花卉・植木・盆栽の生産センターが発達していった。園芸の盛行振りは元禄時代までの水野元勝著『花壇綱目』(1681),貝原益軒著『花譜』(1694),伊兵衛三之亟著『花壇地錦抄』(1695)・『草花絵前集』(1699),山村遊園著『紫陽三月記(ボタンの書)』(1691),晩英軒著『刊誤牡丹鑑』(1698),杉岡宗閑著『牡丹道知辺』(1699)等の刊行で窺える。江戸時代にはツツジ・カエデ・キク・アサガオ・オモト・マツバランなどが流行したが,享保のころ斑入(ふいり)が流行するなど,奇樹異草に沸いた。江戸の園芸業者のなかには,松の盆栽を畑で促成栽培し,ワラで枝などを色々と屈曲させて趣をつけ,さらに鉢にあげて古色をつけ売り出す者もいた。この整姿法によるものが,“蛸作り”と呼ばれる伝統技法である。
一方,園芸技術の発達,水墨画の普及,禅宗の地方波及などが進行したが,新たに宋学(朱子学)を中心とする儒学が広く学ばれ,漢学が普及し,禅宗の一派黄檗宗の僧などによって伝えられた文人画(南画)を武士・町人などが描くようになった。こうした漢学・文人画を好む人々,つまり文人たちによって,18世紀になると盛んに“盆栽”の語が多用されるようになる(鳥山芝軒著『芝軒吟稿』・赤松蘭室著『蘭室先生詩文集』・大典顕常著『小雲棲稿』など)。この文人は,余技として漢詩文・絵画・墨書・陶芸・水石などに親しみ,さらに煎茶・華道を好んだ人々であった。彼らは盆栽を居室などに置き,また茶席を飾るのに盆栽を利用した。部屋の中に置くことが多く,当時の技術で大樹を連想しやすい,さらに絵画に描かれているような,小型で細幹のものがとくに好まれた(今村了庵著『煎茶図式・草』1865)。これが明治時代になると“文人盆栽”と呼称され主流となっていく。
もう一つの流れは,やはり中国の影響を受けつつ,“箱庭”的要素を多分に含む“占景盤”あるいは“鉢山”と称されるものである。墨江武禅著『占景盤2巻』(1808)によると,自然の景趣を樹木・石などを使って平鉢・摺鉢(すりばち)等に表現したものである。〈天保四年(1833)六月,この節諸所に鉢山の会あり。珍らし。さてこの鉢山といへるは平たき鉢の中に岩,小石,苔などを以て山水の形を作り,小さき人形,堂塔或ひは民家,松,柳,梅など焼物の手遊びを並べ,風景よく仕組しものなり。さて鉢山と云ふ事の起りは,大坂の富家,諸国に名だだる景地を何卒目前に見たきとて,始めて作り出せし物なりとぞ云々〉(小田切春江著『名陽見聞図会・二の下』)とあり,大坂におこり名古屋地方まで流行は及んだ。
明治時代に盆栽は長足の進歩をみる。各地で発達した盆栽文化の交流がおこり,外来の園芸技術も導入されたことによる。幕末から茶会が流行し,その盛会振りは大変なものであった。田能村直入編『青湾茶会図録』(1863)には〈煎茶人の参加一千二百,一般の参加者数千人〉と記している。こうした文人・富裕階級による茶会には,多くの盆栽が飾られ,茶会のための盆栽需要が高まっていた。こうした需要に支えられて,すでに1858年(安政5)ごろ酒造家の剣菱家で盆栽の管理を任せられていた使用人某が,“草楽園”を大阪の地に創業した。つづいて“清花亭(三樹園)”も開園し,1866年(慶応2)に両園による,盆栽陳列会が初めて開かれている。明治になると,政府の要人・華族・大商人などの需要に支えられて,東京にも盆栽商が生まれ,“文人盆栽”が盆栽の主流を形成し,“盆栽”の語が定着した。盆栽商は“盆栽”の語を使用して商った。1877年(明治10)以降になると,東京では中小企業主や商店主らの熱心な趣味家も現れ,香樹園・苔香園・彩花園・芝花園などを中心に工夫改善に努め,趣味家が業者を引きずる形で,盆栽の資質の向上・陳列の工夫が進められた。盆栽の整姿・理論化に特筆すべきは,すでに江戸時代舶載された清,王概等編著『芥(かい)子園画伝』,華道の影響と,江戸時代末期ごろ,通称“淀亀”が大坂で始めた“針金掛け(針金をまいての整姿)”である。
江戸時代末期以来の“画”に準拠した整姿も,明治の中ごろから〈従来存する一・二の画譜図録は所謂文人的にして,雅趣は即ち之ありと雖も,未だ真を写し得たりと云ふ可からず〉(木曽庄七著『盆栽瓶華・聚楽会図録』(1903))とあるように批判を受け,“自然美盆栽”が登場してくる。盆栽を芸術とみる考えは,明治中ごろに発生していた(田口松旭著『美術盆栽図3巻』1892)。盆栽は“自然美盆栽”が優れており“芸術”であるとしたのが,大日本盆栽奨励会機関誌「盆栽」(1921~67)である。当雑誌の発行に盡力した中心人物が小林憲雄(1889~1972)で,生涯をかけた彼の啓発により,大正末から,現今のような“盆栽”の概念が世上に定着した。
【現代の盆栽】イエズス会士が15世紀末には,日本の“盆栽”をみて記録し,とくに情代・江戸時代に欧米人の東アジア地域への来往が増加すると,欧米への紹介が多くなった。こうして,現在“盆栽”の語は BONSAI としてエンサイクロペディア=ブリタニカにも登載され,国際的に通用する。中国・朝鮮半島地域はいうまでもなく,イギリス・フランス・ドイツ・アメリカ合衆国・オーストラリア・ブラジル・インド・フィリピンなど世界各地でつくられる。とくにアメリカ合衆国に趣味家が多い。日本では(社)日本盆栽協会主催「国風盆栽展」(1934年開始)・毎日新聞社主催「日本盆栽作風展」(1976年開始)が代表的なもので,その他全国各地で盆栽展が催されている。各地に盆栽教室も開設され,普及に貢献している。
【種類】盆栽を大ききさによって分類するとつぎの4種。[1]大盆栽 樹高66cmを超える大型盆栽。[2]中盆栽 樹高54cmを基準とし,その前後12cmを超えないもの。盆栽の妙味が十分発揮される。[3]小盆栽 樹高15~39cm程度。一般大衆に最も好まれている。[4]小品盆栽(豆盆栽・ミニ盆栽)樹高5~12cm程度。このほか,樹形などによる分類・素材による分類などがある。
【文化史的意義】“盆栽”文化は,東アジアとくに照葉樹林帯を中心に発生・発展し,世界的に普及をみた。その背景には,仏教・道教があり,とくに禅宗が重要な役割を担った。絵画では山水画・水墨画などが盆栽に自然美のモデルを提供した。こうした東アジア文化圏の文化の凝縮の一つが盆栽である。一方,盆栽は人々が自然から遠ざけられるのに比例して,発展してきた。今後世界各国の自然・自然美観によって多様な“盆栽”がつくられ,世界の人々の人生の好伴侶として,なぐさめの源泉となるであろう。
〔参考文献〕岩佐亮二『盆栽文化史』1976,八坂書房
丸島秀夫『日本盆栽盆石史考』1982,講談社
池井望『盆栽の社会学』1978,世界思想社
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