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「倉庫で戦力外を言い渡された」ホークスの“いぶし銀”が振り返る激動の現役時代

福岡ソフトバンクホークスといえば、若い野球ファンにとっては強豪という印象が強いだろう。しかし、1989年に福岡に移転しても、しばらくは南海ホークス時代から続く低迷期を抜け出せずにいた。常勝軍団への礎を築いたのが、王貞治監督が率いた時代(1995~2008年)で1999年と2000年には連覇を果たしている。その当時、いぶし銀のプレイスタイルでチームを支えていたのが湯上谷宏氏である。バットを置いて23年経つが、記憶は色褪せていない。現役時代に起こった印象的な出来事について振り返ってもらった。
湯上谷宏氏

湯上谷宏氏

当時の“南海”ホークスで印象的だったのは…

――1984年に南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)にドラフト2位で指名されました。ご自身が若手のころはどんなチームでしたか? 湯上谷宏(以下、湯上谷):佐々木誠や岸川勝也、加藤伸一など、のちに主力になる選手たちがしのぎを削っていた時代です。「これから強くなっていく」ような雰囲気が漂っていましたね。 ――刺激を受けた選手は? 湯上谷:経験豊富なトニー・バナザード(1988年入団)には、色々な部分を参考にさせてもらいました。 ――具体的にどんな部分ですか? 湯上谷:身体作りにおけるストイックな姿勢ですね。プロテインすら存在しないような時代でしたが、彼は元メジャーリーガーなだけあって、しっかりウエイトトレーニングに取り組み、一緒に食事に行っても鶏胸肉しか食べないんですよ。

有望株の入団でポジション争いが激化

――1990年代中盤から、小久保裕紀さんや井口資仁さんといった有望株が続々と入団。ポジション争いは激化しました。それでも、本職ではない外野も守りつつ、1997年には101試合に出場しています。 湯上谷:星稜高校2年の夏の大会時、ショートのレギュラーが胃腸炎で出られなくなってしまったんです。当然監督は「ショートできる部員」を探すわけですが、当時の私は投手だったんですけど率先して手を挙げ、代わりに出場機会を得ることができました。そのころから「試合に出るためには何でもやる」という信念を持っていたんです。 ――守備だけでなく、打率が3割を超えた年もありますね。 湯上谷:規定打席には達していませんけどね。でも実は、これは王さんから「打率が3割を超えたから、これ以上は試合に出ずにその数字をキープしたほうがいい」と言われていたからなんです。僕は出場をお願いしたんですが(笑)。
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日本一になったシーズンは出遅れていた
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