古代エジプトの歴史 2007年4月15日 西 村 洋 子 12. 第13王朝(紀元前1,773〜1,650年頃) 年 表
※ 第13王朝前半の諸王の名前を年表に示しましたが、すべての王名を列挙しているわけではありません。第13王朝後半にデルタにアジア人の独立王朝、第14王朝が存在します。第16王朝については、テーベの王朝であるとする説とデルタのヒクソス王朝(第15王朝)の属国とする説があります。中王国は第13王朝イイ・メルネフェルラー王の治世をもって終わりと見なされます。中王国崩壊後も第13王朝はしばらく続きますが、いつまで続いたのかは不明です。1,650年頃という年代は中王国の終わりを示し、第13王朝の終わりを示すのではありません。 概 観 第13王朝は3つの主要な時期に分けられます。最初の時期は一年未満の短期間の治世が多数続くことによって特徴づけられます。これらの王たちの後よく証明された王たちのグループが続きます。彼らの内の何人かは長く統治しました。個人のものでも王のものでも多数の記念碑がこの時代に年代づけられます。第13王朝中頃の何人かの王たちは古王国の偉大な王たちよりもよく知られています。おそらく50〜80年間このような時期が続いた後、あまり証明されていない多数の王たちが続きます。彼らは全員上エジプト南部からしか知られておらず、国の統一が失われた印象を残します。この頃北部では東部デルタに定住するアジア人たちが現れます。彼らの支配者達、すなわち第14王朝はある時点でイチーターウィの王たちから独立したように思われます。この出来事の正確な年代は不明ですが、北部と南部で証明される最後のエジプト王はイイ・メルネフェルラー王です。彼の治世中あるいはそのすぐ後に国の統一は崩壊したように思われます。少なくとも彼の後継者達はもはや北部では証明されません。 王都はおそらくまだイチーターウィでした。知られている王墓はすべてメンフィス〜ダハシュール地域で発見されてきました。しかし、元の場所で発見されたのはほんのわずかな王の記念碑だけです。ホル・アウイブラー王墓、アメニ・ケマーウ王のピラミッドとヘンジェル王のピラミッドは最も重要な例です。王の記念碑と結び付けられるほんのわずかな個人の記念碑があります。大部分がネフェルヘテプ1世・ハーセヘムラーとソベクヘテプ4世・ハーネフェルラーの時代に年代づけられる少数の岩壁碑文と、王名に言及する個人の碑文が少しあります。王たちの名前は比較的よく知られていますが、それでもなお政治史を書き記すのは不可能です。考古学上の記録を王名と結びつけるのも困難です。対照的に第13王朝に年代づけられる多数の個人の記念碑、特に石碑と彫像があります。芸術制作は少なくとも王朝初期にはよく証明されています。土器、スカラベ、葬祭用備品、その他の発展は、中王国の終わりにはよく知られていますが、これらの発展を特定の治世と関連づけることは困難で、年代学の枠組みの中にそれらを置くことも同様に困難です。 第12王朝は政治的に非常に安定した時代でした。一つの家系が約200年間国全体を統治しました。対照的に、第13王朝は短期間しか統治しない多数の王が続きます。彼らの内ほんの数名しか家族の絆がなかったように思われます。そのような多数の王が存在した理由について今のところ納得できる説明はありません。一般に第13王朝初期の王たちはまだ第二カタラクトまでのヌビアを含む国全体を統治したと言えます。少なくとも第13王朝初期には地域の支配者達の証拠はありません。末期になってからパレスティナからやってきた人々が東部デルタの周縁部を乗っ取った暗示があります。国の統一はこの時点で崩壊したに違いなく、中王国の終わりと第二中間期の始まりをはっきりと示します。第13王朝の多数の王が軍事的簒奪者(さんだつしゃ)だったと仮定されてきました。しかしこの証拠はほとんどありません。また時々仮定されるように、第13王朝のどの王も外国出身だったというしるしもほとんどありません。ヘンジェル王だけが異国の響きがある名前を持ちますが、彼は特に史料でよく証明され、史料の中では完全なエジプト人として現れます。彼の妻はエジプト名を持ち、彼はピラミッドの中に埋葬されました。それにもかかわらず、王権が変化したしるしがあります。第13王朝のよく知られた王たちの内の数名は自分の記念碑で王族でない両親の名前を記しています。第12王朝の王の娘達は決して王族でない人々とは結婚しませんでした。第13王朝には王の娘が官僚と結婚したかもしれない多数の証拠があります。官僚の一族内で数名の女性たちは「王の姉妹」と呼ばれます。少なくとも二人の王妃が重要な官僚の一族に属したことを示されます。これらの一族は一族の女性の一人を「王の妻」にすることができたと仮定されてきました。しかし、一族の男性の一人が王になったと論じることも可能です。少なくとも第13王朝の数名の王たちは明らかに国の行政エリートと関連がありました。このようなことは第12王朝にはまったく証明されません。しかし同様な状況は古王国には見られます。当時「王の息子」たちが国家行政で高い地位を占め、「王の娘」たちが官僚と結婚させられたことは、まったく「普通」でした。古王国との比較は王と官僚達との関係が衰退あるいは弱い王権のしるしと見なされないことを示します。 安定期(第二期)の王たち 約15年の不安定期(第一期)の後、国中の記念碑からよく知られる多数の王たちが第13王朝に現れます。彼らの内の数名は約10年間統治しました。エジプトは再び安定したように思われます。セヘムラーフーターウィ・アメンエムハト・ソベクヘテプ2世は多数の記念碑で証明されます。ソベクヘテプ2世はナイル川の水位の記録から知られます。そこにはセヘムラーフーターウィとしか記されていません。記録の一つは治世4年に言及しています。メダムードでソベクヘテプ2世はモント神殿にセド祭の門を増築しました。デル・エル・バハリのメンチュヘテプ2世葬祭神殿でも軒縁を造りました。しかし、ソベクヘテプ2世の治世の最も重要な文書はブーラク・パピルス18(テーベの王宮における行政記録)であるように思われます。しかし、王名がまったく失われているので、パピルスが記された時代の王がソベクヘテプ2世だったかは不確かです。当時王都はまだイチーターウィだったに違いありませんが、王は時々テーベにも住んだように思われます。ソベクヘテプ2世の場合、メダムードでの建設作業の時にテーベを訪れたのかもしれません。確かにメダムードへの旅が文書で言及され、そこで知られている王の建設活動とうまく一致します。パピルスは廷臣たちの名前を列挙しています。その頂点に宰相アンフーがいました。アンフーの下に位階称号「王の印章保管者」や「耕地の長官」「主席家令」「軍隊長」「王の文書の書記」のような異なる官職称号を持つ官僚達がいます。最後に「支配者の乗組員たちの将校」のような称号を持つ官僚達の大グループがあります。その他の言及されている人々は「王の息子」たちと「王の姉妹」たちです。特別歴史的に重要なのは、王の妻イイへの言及です。というのは、彼女は高官の一族のメンバーとして現在ヴュルツブルクにある個人の石碑にも現れるからです。同じ一族に宰相アンフーも属します。それゆえ王の家族は明らかに少なくとも一つの官僚の一族と密接に関係づけられました。しかし、官僚の一族が自分達のメンバーの一人を王位に就けることができたと見ることもできます。宰相アンフーの場合は常にこの時代のしっかりした行政の例と見なされてきました。彼は次の治世でも証明されるからです。アンフーは一緒のキング・メーカーと見なされてきました。しかし、これは推測に過ぎず、その時代の行政が宰相アンフーや国庫長セネブスーマイのような多数の高官達とともに安定していたとだけは確かに言えます。アンフーとセネブスーマイは王たちよりも長く在職したように思われ、驚くべき記念碑の数々から知られています。 ソベクヘテプ2世に続いて、ヘンジェル・ウセルカーラー王が即位します。彼は主に南サッカーラのピラミッド複合体から知られます。それは完成したように思われます。少なくともそのピラミディオンが発見されました。ヘンジェルという名前はアビュドス出土の二つの関連する石碑の一方(Louvre C12)にも記されています。それには王がセンウセレト1世によって建設されたアビュドス神殿で改修工事をしたことが述べられています。もう一方の石碑では宰相アンフーが言及されています。改修工事の年代は正確には知られていません。通常王の治世に年代づけられていますが、先代のソベクヘテプ2世の治世の出来事である可能性もあります。ピラミッド複合体で発見されたいくつかのグラフィーティーからは王が少なくとも4年間統治したことが知られています。王名が非エジプト的な響きを持つためさまざまな仮説が立てられてきました。それはセム系の言語の「イノシシ」を意味する単語に由来し、そのため王はエジプトの王座を奪ったアジア人の将軍だったと仮定されてきました。しかし、その証拠はありません。王の妻はエジプト名セネブ・・・という名前を持ちます。名前の残りの部分は残っていません。 ヘンジェル王の後継者はメルメシャと呼ばれる王です。メルメシャは「将軍」を意味する称号ですが、個人名でも知られています。タニスで王の二体の巨像(JE37466, JE37467)が発見されています。この王名もまた軍人がエジプトの王座を奪ったと推測させましたが、それを支持する証拠はありません。次の王インテフ・セヘテプカーラーは彫像からのみ知られています。トゥーリン・キャノンに記されているその次のセト王は同時代史料からは証明されていません。王宮内の軍事政変という考えはローマ帝国史の影響を強く受けています。ローマ帝国では軍人たちが新しい皇帝を任命するのに重要でした。しかし、エジプト社会は明らかに軍人達の手中にはありませんでした。 ソベクヘテプ3世・セヘムラースワジュターウィは比較的たくさんの記念碑から知られています。王はメダムード、トード、エルキャブで建設事業をし、セーヘル島に祭壇を建立しました。王の家族は無数の碑文で言及されています。王の父は「神の父、メンチュヘテプ」でした。「神の父」は王族でない王の父を表します。王の母はイウヘトイブーです。王の家族もいくつかの記念碑(Louvre C8、Wien 64、アルマント〜ナグ・ハマディの道路沿いの石碑、本来センウセレト3世がセーヘル島の守護神に捧げた祭壇のレリーフ)から知られています。王には二人の妻、セネブヘナスとネニがいました。ネニは二人の王女イウヘトイブーとデデトアヌケトを産みました。イウヘトイブーの名前はカルトゥーシュが囲まれており、特別な寵愛と地位を獲得したに違いありません。これはアメンエムハト3世の娘ネフェループタハに次いで二例目です。王の妻達はこの特権を後になってから獲得しました。王はたった3年間しか統治しませんでした。王は家族とのつながりを記した多数のスカラベ型印章を発行した王達のグループの最初の王でした。王の両親の名前を記したスカラベ型印章の発行は驚くべき革新です。彼以前の王たちは稀にしか両親の名前を記しませんでした。王の革新は高官達にも波及し、彼らはしばしば多数のスカラベ型印章を持ちました。国庫長セネブスーマイは王の治世中も在職していましたが、今までに30以上の彼のスカラベ型印章が知られています。ブルックリン・パピルス35.1446の裏面には、王の治世1〜2年の日付けであるテーベの家庭のアジア人奴隷のリストが記されています。 次の王ネフェルヘテプ1世・ハーセヘムラーは、トゥーリン・キャノンによれば、11年統治しました。王の記念碑はエジプト中で発見され、繁栄した治世の証拠であると思われます。王の父は「神の父」ハーアンフエフ、祖父は「町の兵士」ネヒー、祖母はセネブティシです。「町の兵士」は軍事称号であるように思われます。この称号はこの時代の記念碑にしばしば現れ、相当地位のある将校が持っています。つまり一般兵士を指すのではありません。王の父の名前は多数の王のスカラベ型印章、王の記念碑、トゥーリン・キャノンに記されています。王の母はケミです。王の妻はセネブセンで、「王の息子」ハーアンフエフと「王の娘」ケミの母です。王の弟で次の王であるソベクヘテプ4世・ハーネフェルラーはテーベで生まれたことが知られています。それゆえ王の一族がテーベ出身だったと仮定してもよいでしょう。王の治世の最も異例の碑文の一つはアビュドスで発見された治世2年の石碑です。そこにはオシリス神像制作に関するキングズノーベルが記されています。ビブロスのレリーフからは王の前に立つ「ビブロスの市長」ヤンティンが描写されています。この時代の官僚達もビブロスとの安定した関係を証明します。例えば、アビュドスで発見された石碑(BM428、国庫長セネビの石碑)には「ビブロスの部屋の管理人」ソベクヘルヘブが、現在ダブリンにある石碑(Dublin UC 1360)にも同じ称号を持つセネブティフィが現れます。ダブリンの石碑には「オアシスの生産地の長官」も現れるので、エジプトがオアシスに居留地を築くほど繁栄していたことを確認できます。ヌビアもまだ完全なエジプトの支配下にあったように思われます。ブーヘンの未盗掘の墓(K8墓)からはネフェルヘテプ1世の黄金のホルス名メンメルートが記された装身具の一部が発見されました。ミルギッサでは王名のある印章刻印が発見されました。セーヘル島では王名、王の家族、王に仕える高官達に言及した一連の岩壁碑文が知られています。 ネフェルヘテプ1世の後継者は、トゥーリン・キャノンによれば、サーハトホルですが、彼の記念碑は見つかっておらず、王としてエジプトを統治しませんでした。その次の王は、ネフェルヘテプ1世の兄弟、ソベクヘテプ4世・ハーネフェルラーです。治世年数はトゥーリン・キャノンでは失われていますが、ワーディー・ハンマーマートに王とその家族に言及した治世9年の石碑があるので、王は兄弟のネフェルヘテプ1世と同じくらい統治したと思われます。王の妻はチャンで、彼女の子供達にアメンヘテプと王女ネベトイウネトがいます。他に母親が不明の子供達、ソベクヘテプ・ミウ、ソベクヘテプ・ジャジャ、ハーアンフエフ・イイヒェルネフェレトがいます。王もまた多数の記念碑から知られています。本来メンフィスに建立された王名のある三体の巨像がタニスで発見されています。王名の記された石材はアビュドスのオシリス神殿とカルナックで発見されました。ワーディー・ハンマーマート(No.87)とワーディー・エル・フーディー(No.23-25)には遠征隊の碑文がいくつか残されています。カルナックで発見された石碑(Cairo JE51911)は神殿への寄進を報告しています。カルナック出土の宰相イイメルーの彫像では「運河開通」と「幾百万年の家」が言及されています。しかし、「幾百万年の家」と呼ばれる神殿がどこにあったのかは知られていません。とにかく、王がアビュドスとカルナックで建設事業をしたことを示しています。初期のユダヤ人歴史家アルタパヌスは、マネトーンの著作から情報を得ましたが、モーセの出エジプトが王の治世に起こったと信じました。アルタパヌスの著作では、王はケネフレス(=ハーネフェルラー)と呼ばれており、王はヌビアに対して戦争をし、王の治世にデルタの一部がアジア人たちに奪われたと述べています。この時代に年代づけられる国庫長代理イビアの石碑(CG20086)は、王がそれを開くためにイビアをヌビアに派遣したと述べられています。 アルタパヌスの記述について。セム系の名前を持つ人々は中王国にはよく証明されています。第13王朝の始まりには南パレスティナからやってきたアジア人たちがデルタ東部に定住し始めました。すでに初期からテル・エル・ダバのような場所は主にアジア人によって居住されてきました。彼らはまだエジプトの支配下にあったという証拠があります。しかし、第13王朝のある時点で彼らは独立を宣言したように思われます。アルタパヌスによれば、それはソベクヘテプ4世の時代に起こりました。しかし、考古学史料にも同時代の文字史料にもその証拠はありません。東部デルタの新王朝の本質は不明です。 ネフェルヘテプ1世とソベクヘテプ4世の治世は明らかに第13王朝の頂点を示します。国は第13王朝初期には、特に行政に関してうまく機能していたように思われます。工房はセヘムカーラー・アメンエムハト5世のエレファンティネで発見された彫像やダハシュールで発見されたホル王のほぼ等身大の木像のような、最高品質の彫刻を制作しました。王の記念碑の数が驚くほど多いだけではなく、この時代の年代づけられる個人の記念碑の数も中王国の他のどの時期よりも多いです。「テーベの伝令官」ソベクエムサフの等身大の彫像(Wien ÄS 5051&5081)、宰相アンフーの父の彫像(CG42034)、宰相イイメルー・ネフェルカーラーの彫像(Louvre A125)はこの時代にほぼ年代づけられるエジプト彫刻の傑作です。もっと驚くべきはこの時代の石碑の制作です。中王国の石碑のハイプロポーションは正確に第13王朝の中頃に年代づけられます。多くの官僚達がアビュドスの小礼拝堂内に建立されたいくつかの石碑に登場します。これらの記念碑の質は変化します。それらの多くはかなり粗雑なものです。あるものは見事に彫刻されています。石碑はこの時代に年代づけられる多数の個人を不滅にします。それらには長い碑文はあまり見られませんが、いくつかの石碑はオシリス神やミン神への長い祈りを記されています。 トゥーリン・キャノンでは次の王はソベクヘテプ5世・ハーヘテプラーです。この王についてはそれ以上確かなことは何も知られていません。王がソベクヘテプ4世・ハーネフェルラーの息子だったというのは推測に過ぎません。トゥーリン・キャノンによれば、王は4年と8カ月統治し、次のイビア・ワフイブラー王は10年、イイ・メルネフェルラー王は23年統治しました。これらの王達の記念碑は多くありません。彼らは主に多数の印章から知られます。イビア・ワフイブラー王はテーベの地方官僚の一族の石碑に登場し、イイ・メルネフェルラー王はカルナック出土の扉のまぐさとデルタで発見されたピラミディオンで証明されます。イイ・メルネフェルラー王のピラミッドはデルタに建設されたと仮定されてきましたが、ピラミディオンが後世メンフィス地域からデルタに移動させられたことはありそうです。イイ・メルネフェルラー王は上エジプトと下エジプトの両方で確かに証明される第13王朝最後の王です。後の王たちは全員上エジプトで発見されたものに登場します。イビア・ワフイブラー王とイイ・メルネフェルラー王の長い治世の間には、ソベクヘテプ4世の時代ほど多数の個人の遺物は証明されていません。すべての証拠は国の統一が終わったことを暗示します。王国は貧しくなり、高官達は今や主に多数のスカラベ型印章から知られます。これらの王たちに年代づけられる少数の記念碑はソベクヘテプ4世後急激に衰退したという印象を与えます。デルタの王たちはエジプト北部の一部を奪ったように思われます。この時点で第二中間期が始まり、もはや中王国の歴史の一部ではありません。エジプトの王たちはまだ上エジプトでよく証明されますが、彼らはわずかな記念碑しか残さず、しかも最低の品質です。このようにして、中王国は闇の中に消え去ります。 中王国の王の宮廷 古王国からはファラオの役割に関する明白な発言はほとんど残っていませんが、中王国には『メリカラー王のための教訓』『アメンエムハト1世の教訓』『センウセレト3世讃歌』のような王権の本質の解明に役立ついくつかのテクストがあります。いくつかの個人の記録も洞察を与えてくれます。アビュドス出土のセヘテプイブラーの石碑(CG20538)には、人々にとって王がどれほど重要であるかを述べる長い詩が記されています。 『シヌヘ物語』は第12王朝の宮廷生活の詳細を提供してくれます。しかし、王家の社会階層と日々の食事の割当量に関する最も意味深い証拠を提供してくれるのは第13王朝のブーラク・パピルス18です。それは王家と宮殿の従属者たちの相対的重要性を示しています。このパピルスはまた、宮殿から遠く離れた一時滞在も含めて、さまざまな人々の移動の流れも示します。宮殿本体に関しては、三つの区域に分けられていたことを示します。まず王家とその個人的な召使い達、および選ばれた子供達の居住区、カープがあります。そこで王が費用を負担して子供達を教育しました。それから宴会が催される列柱室の謁見室、ワーヒーがあります。最後に宮廷の事務が行われるヒェンティーがありました。これらの三つの区域はシェナーとして知られる区域内にありました。そこでは食料が宮殿の従属者達に手渡されました。宰相と高官達はヒェンティーを占め、召使い達の居場所はシェナーに限られました。カープの長官は宮殿の内側と外側の両方で活動できる唯一の官僚だったように思われます。ブーラク・パピルス18の情報がなければ、中王国の宮殿組織に関する私達の知識はテル・バスタの第12王朝の宮殿とテル・エル・ダバの第13王朝初期の宮殿の建築平面図以上に広がらなかったでしょう。 中王国の宗教と葬祭慣習 中王国の宗教で最も重要な発展は、その時までにすべての墓地で偉大な神になっていたオシリス神の礼拝に関係しました。礼拝の増大の理由の一つは中王国の支配者達によって、特に第12王朝のアビュドスで、惜しみなく与えられた保護でした。これはセンウセレト3世の治世に頂点に達しました。センウセレト3世のアビュドスの「セノタフ」は中王国でそこに建てられた最初の王の記念碑でした。第13王朝のウガーエフ王の時代に発布された勅令は、後にネフェルヘテプ1世によって奪われましたが、アビュドスの祭礼の道に墓を建てることを禁じます。ソベクヘテプ3世はまたそこに王家の数人のメンバーのために石碑を建てました。ネフェルヘテプ1世は治世2年にオシリス神の神秘劇に参加するためにアビュドスへ行き、この出来事を記念する石碑を建てました。王の権力を正当化するという点からオシリス神とアビュドスの権威を仮定すれば、第13王朝の支配者達のアビュドスへの関心は彼らが王族出身ではなかったことによるのかもしれません。しかし同じことは第12王朝の支配者達には言えません。オシリス神の増大する影響力はある程度アビュドスの積極的な振興といわゆるオシリス神の神秘劇に由来したに違いありません。この儀式のいくらかの詳細は、センウセレト3世の治世中に毎年の祭礼の主催者イイヒェルネフェレトによってアビュドスに建てられた石碑(Berlin 1204)で述べられています。 オシリス神礼拝の発展は、時々「来世の民主化」と述べられ、かつての王の葬祭上の特権が一般の人々に拡大される文化現象に伴われます。特にアビュドスの多数の石碑はオシリス神の儀式に参加する人々にとってますます普通になっていったことを示します。彼らはこのようにしてかつて王に限られていた祝福を受け取りました。この発展の結果として、住民全体の葬祭信仰と儀式が変化し始めました。最古のそのような変化の一つが王族でない人物の棺をコフィン・テクストで装飾する習慣でした。それは王のピラミッド・テクストからの抜粋と第一中間期に登場した新しい葬祭上の呪文を組み合わせたものです。しかし、主に長い宗教テクストを書き記すには適さないミイラ型棺の導入のような、さらなる葬祭上の変化の結果として、第12王朝中頃にこれらのテクストの使用は突然終わりました。 中王国のもう一つの宗教上の発展は、(王だけではなく)すべての人間がバー、霊力を持つという観念でした。このことの最も喚起する証拠は文学テクスト『生活に疲れた者とその「バー」との対話』です。それは自殺に関する世界最古の討論、強力な哲学的論文に違いありません。また「個人の信仰心」への目立った強調がありました。それは王や神官を通じてよりも直接個人的に神に近づくことであり、新王国の間ますます人気が増大した宗教概念です。中王国からの石碑は故人の信仰心を強調し、これから「否定告白」の概念が生じました。それは故人が犯さなかったと主張する非行の儀式上のリストです。石碑自体は、特に最高の守護の象徴、ウジャトの眼で装飾された石碑が、人気のある記念碑になりました。しかし、その他の記章(例えば、シェン・リング、有翼日輪)も、王の石碑に見られるもののように、この時代に現れました。 第11・12王朝の王の葬祭複合体は、王たちが自分の宗教信仰を反映するのに最も適切な建築形態を求めたので、設計上かなりの変化を経験しました。土木技師たちと建築師達は高度な熟練に達し、石工たちは古王国の高度な技術をかなり超えました。これらの技術は王の葬祭複合体だけではなく、もっと大きくてもっと巧みに建設された神殿の建設に使用されました。私達はこの時代に王のピラミッドの複雑な内部の工学技術と建築における構造上の実験を見つけます。例えば、デル・エル・バハリのメンチュヘテプ2世のテラス型遊歩廊、テーベの「トート神の丘」のメンチュヘテプ3世のピュロンと三重の礼拝堂、ラフーンのピラミッドにおけるセンウセレト2世の地下回廊です。かつて古王国の葬祭複合体にのみ見られたレリーフ彫刻は今や王のためと同様神のために中王国の神殿の壁を装飾しました。カルナックの広大な神殿複合体が創始され、ファイユームのかつて堂々とした神殿群と灌漑体制が建設されたのもこの時代でした。 実験は第11王朝以降州長官たちの墓にも見られるようになります。それらは州長官達の世界観、狩猟・漁労、レスリングの試合への関心、アジア人たちの異国情緒の世界への魅惑を示します。広くて贅沢に装飾された岩窟墓は通常列柱廊に特徴付けられ、州長官達の墓自体は下方の丘の斜面に散らばる彼らの廷臣達の墓よりも上にありました。州長官達の棺は、特にデル・エル・ベルシャのものは、今まで残ってきたものの中で最も見事な芸術作品を伴っています。多数の例でそれらは無事に来世に達するための一連の指示である「二つの道の書」の最古のコピーで装飾されています。しかし、州長官職が重要性を減少させた時、地方の墓地の性格が変化しました。もっと小さな墓の規模と数が増加し、墓の地位の中でそれほど目立ってランクづけけされませんでした。他方王都では、事情はかなり異なりました。官僚達の墓は彼らの家族の共同墓地よりも王の共同墓地に置かれ、マスタバ墓が個人の墓のより好まれた様式になり、アビュドスに記念碑を準備することは万人にとって強制的になりました。 中王国までにミイラ化はもっともっと広まりましたが、効果的ではありませんでした。内臓摘出はもっと普通になりましたが、遺体の保存はひどく、残りの肉体は、覆い包む屍衣がしばしば贅沢であるという事実にもかかわらず、滅多に残っていません。ミイラはしばしば美しく彩色されたカートナージュ・マスクを着けられました。遺体は主要な方位と墓壁に記されたテクストの両方に向けられて、四角い棺の中に横向きに置かれました。 葬祭慣習におけるさらに重要な変化はシャブティの導入でした。シャブティという単語は時々ウシャブティともシャワブティとも綴られ、「棒」「答える者」あるいはおそらく両方を意味するかもしれません。シャブティはさまざまな材料(ロウ、粘土、陶器、ファイアンス、木、石)から作られ、オシリス神のために働かなければならない時、魔術的な代理人として活動することになっていました。メンチュヘテプ2世の時代に年代づけられる最古の例は、しばしばそれ自体に何の葬祭用の決まり文句も書かれていない小さな裸の像の形を取りました。他のものはミイラ型でした。これらの小像は明らかに、わずかな中王国の棺の内側に現れたコフィン・テクストの呪文472を思い出させる三次元の道具でした。しかし、第12王朝末までにテクストはシャブティ自体に書かれ始めました。シャブティの役割は、個人が王のために働くことを強制された労役のシステムかあるいは一般の人々が地域の水路の維持のために行わなければならなかった労働と結び付けられるかもしれないと考えられます。人間の労働者たちのように、後のシャブティは作業に取りかかる際に持つ鍬と種の袋を持ちました。 中王国の文化的業績 中王国は芸術、建築、宗教が新たな頂点に達した時代でしたが、とりわけ筆記に自信を持った時代でした。それはセンウセレト3世時代の官僚機構の拡大に大いに原因を帰せられる社会の「中流階級」と書記たちの増加によって促進されました。多くの異なる文学形態が栄え、古代のエジプト人たち自身がそれを文学の「古典」時代と見なしたように思われます。「シヌヘ物語」(その人気は残存する多数のコピーによって示されます)、「難破水夫の物語」、ウエストカー・パピルスの空想的なエピソードはすべて中王国に創作されました。「ハーピ神への讃歌」「職業風刺(ドゥワヒェティの教訓)」「生活に疲れた者と彼のバーとの対話」のような宗教的哲学的作品は非常に人気がありました。さらに、報告書、書簡、会計簿を含むさまざまな公文書が残っています。これらは当時の全体像を完成させるのに役立つだけではなく、文字の読み書きが古王国よりももっと広がったことを示します。 中王国の指導者達の指揮下で、エジプトはヌビア、アジア、エーゲ海からなるより広い世界に眼を開き、原料、製品、アイデアの交換から利益を得ました。中王国はすばらしい考案、大きな展望、巨大プロジェクトの時代でしたが、日常の使用と装飾用の小物の製作においても細部まで念入りで繊細な注意を注ぎました。このより人間的な尺度は個々の人間が宇宙においてもっと重要になったという意味において存在します。シヌヘも難破水夫も古王国の物語では主人公ではあり得ませんでした。しかし、これらの個人はより大きな人間性の時代だった中王国の文学にうまく収まっています。 |
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