2008年9月2日
                             小林由紀

 

1.オウムと出会う

 私は、24歳の頃には「どこかの寺に出家して尼さんになりたい」と思っていました。それは、不毛の恋愛に疲れたことが大きく、本気で魂の救いを求め、また、地球の平和と人々の心の平安のために生きて行きたいと思いました。

 お付き合いしていた男性とは、遠距離になり、電話ではまだ話していましたが、もはやそれが苦痛になり、もう他の人と付き合う気力もなく、とにかく疲れ切って、結婚や普通の人生を歩むこと自体、もう自分には不可能に思えました。やけに自分が汚れているように思い、「もう私は普通の人生は送れない、これから一体どう生きて行ったらいいのだろう...。」と、生きる目的もなく、未来に対する希望も見出せなくなっていたのです。

 「自分の汚れを清めたい、尼さんになりたい」とは思いましたが、どこの寺が出家を受け入れてくれるかがわからず、ちょうど書店で見つけたオウム真理教の冊子を見て、あまりにも自分の理想と同じことが書いてあったので電撃的ショックが走り、運命的なものを感じて、身体が震えました。「ああ私はもう現世とはお別れだな」とその場で出家を決意することになります。

 出家を決意はしましたが、家族に対する執着があったり、食べ物の制限に耐えられないと思ったのですぐには入信せず、5ヵ月後に入信ということになりました。88年の4月のことでした。


2.信徒時代~出家まで

 入信して3日目に、麻原と面談する機会がありました。はじめて間近で見る麻原は、なにか普通ではない雰囲気をかもし出し、目を見るとその中にスーッと吸い込まれて行くような感じでした。もともと私は催眠術にかかりやすかったのですが、そんな感じで、もう何もかも見透かされている、というよりも、すべてわかってくれて、自分の汚れもすべて許してくれているんだー、というように、その独特の空間に吸収されたかのような感じがして、それを心地よいものに感じたのです。

 それは、私の中の「そのような麻原であってほしい」という願望が作り出した感覚であり、支配下に入ったことを心地よいと感じてしまったのでしょう。実際は優しく見えて恐ろしい支配なのですが、その時は気づくことができませんでした。

 その時に「周りの影響を受けやすいね」「あなたは解脱できるだろうね」「出家できるように思念しなさい」と言われて、私はいきなり舞い上がってしまいました。解脱といえば、人間を超えて聖者になることです。その頃の私にとっては、ほとんど神になるのと同じだと思えました。

 「そうか、私は解脱できるんだ!やっぱり私は特別な人間だったのか!」解脱といえば、汚れのない神になることなので、そう思えば思うほど、意識が高揚し、使命感でいっぱいになるのでした。そして、地球の未来を憂えた女神であるかのような気分になっていました。

 しかしその時の意識の高揚は、かつて無いほどにプライドが充足されたからであり、使命感というのも、客観的にはひどく妄想的で、前記の詩の世界をもっと増幅し、確定させたようなものした。そして、その心の働きはオウム真理教に対する確信となり、その後も長く続いていくことになりました。

 その後オウムで教えられた修行をおこなっていくと、身体が熱くなったり、背骨がグーッと伸びたり、体表になにかサーッと流れるようなものを感じたりと、不思議な感覚がどんどん起こってきました。また身体がどんどん健康になっていき、仕事を3つ掛け持って休みがない状態でも疲れなくなっていました。

 こういった体験は、当然ある程度きちんとヨーガの修行をすれば、オウム真理教ではなくても、普通に起こるようなものであり、なにも麻原やオウムが特別である、と言うわけではないのですが、その頃はオウムしか知らなかったために、オウムは特別だと思ってしまっていました。

 さて、この頃私の中にあった言葉は、なぜか、海援隊の「母に捧げるバラード」の中の、「人間働いて、働いて、働き抜いて、もう遊びたいとか、休みたいとか、一度でも思うたら、はよう死ね。それが人間ぞ、それが男ぞ。」というセリフでした。「修行者たるもの、解脱のためには休んだらいかん、一瞬でも気を抜いたらいかん」と、自分を鼓舞し、休みを作らないようにしていました。

 そんな中、神秘的な夢を見ることが多くなり、内容はオウムに関することがほとんどになりました。たまに金縛りに遭っても恐怖が出なくなり、魂が身体から抜け出すような感覚になったりもしました。そういった神秘体験を重ねるにつれ、私のオウムに対する確信は深まっていくのでした。

 しかし、実際は、極限的に肉体を追い詰めていれば、「ランナーズハイ」のように、変成意識の体験が起こって来るのは当たり前なのです。ですから、このような体験が、麻原・オウム真理教の絶対性を証明するものでは全くなかったのです。

 人間というものは、なにかに強く惹かれたり、強く信じ込んだ状態では、恋愛と同じで、何もかもそれ一色になってしまうものではないかと思います。そして、その背景には、何からの強い苦しみ・渇望があって、それを解消したり、満たしてくれるがために、強く惹かれ、信じるのだと思います。

 この頃は、神秘的な体験をしたからと言って心が安定するわけでもなく、単に自分が特別であるという優越感に浸っていただけなので、客観的には、そんなに価値を見出す必要はなかったものだったのでしょうが、その頃の私にとってオウムの世界は、自分の価値が一気に高まるという意味で、どうにも魅力的な世界であったのです。

 その頃のスタッフや大師と呼ばれる人から「あなたが今まで現世で生きにくかったのは、前世から修行者だったからですね。きっとステージが高かったから、現世が合わなかったんでしょうね。」などと言われ、今までのコンプレックスが一瞬にして優越感に変わったことも大きかったと思います。

 「なるほど、普通の人はステージが低くてわからないことを、私はわかっていたんだ、現世はけがれているから、もともときれいだった私は生きづらかったんだ。」と、際限なく自分を優れた者として肯定することができたのです。まったくバカなことでした。

 麻原が、福岡支部に説法に来て、「九州から20人の成就者を出す」という話があった時は、「絶対私はその中に入るぞ、いや、入るはずだ。」と思いました。また、「オウムではUFOを作っている」という噂を聞いて、「やはりそうか、みんな修行で超能力者になって行くから、最先端の技術をどんどん取り入れて開発しているんだ。」と思ったりして、だんだんと、超幻想の世界へ入っていきました。ほんとうにバカとしか言いようがありません。そして、こちらの方が本当の世界で、今までの現世の世界は幻影だったのだという感覚になっていきました。

 11月頃になると、支部のスタッフが、信徒に強く出家を勧めるようになりました。これはシッシャ狩りと言われていました。私にも声がかかり、「グルが出家しろとおっしゃっているから」ということで、私は「グルの意思ならば何をおいてもそうしなければ」と思い、すぐに仕事を辞める手続きをして出家の準備にかかりました。

 また、あるシッシャの人から「小林さん、グルが目をつけてたよ。」と言われ、「ああやはり私は特別なんだ」と、完全に心はオウムの中へ中へと入り込み、舞い上がっていました。

 お付き合いしていた男性と、出家を機に離れることができたことは、むしろ自由になれたと思いました。もう、一人の人に束縛されるのではなく、しがらみを離れ、地球の女神になるのだと、意識はこの世から離れて行きました。

 出家となると「グルから指名されたんだ!いよいよ直弟子になるんだ、地球の救済のために一生をささげるぞ、必死で修行をして、きっと大きな活動をするぞ!」と、さらに高揚した意識状態になりました。もう親にも反対を言わせないくらいに自信満々で、「私は仏教の修行に入って、世の中を良くするために働くから」ということで納得してもらいました。

 しかし、もう一生家族と会えないかもしれないというので、家族に執着していた私は心の中では相当の葛藤があり、つらかったのですが、その部分については、「本当の親孝行とは、解脱して功徳の果報を返してあげることなのだ、世の中の役に立つ救済者になることなのだ。」とか、「もう今までの人生は捨てて生まれ変わろう、どうせハルマゲドンが起こって地球は大変なことになるのだから、もう死んだと思えばいいから。」といったように、妄想的な世界観を持ち出して、自分の心に整理をつけていったのです。

 しかし、その背景としては、私の中に、様々な欲求不満のある今までの人生をいったん終わりにし、その中で堕落したような平凡な日常を脱したいという思いが強かったように思います。これは、一般に、「リセット願望」と呼ばれている状態だと思います。


3.出家~95年の教団の活動において

◆1989年

 1988年の大晦日、福岡支部から大型バスに乗って富士に向かい、私は出家しました。バスの中には、出家する人と、年末年始のセミナーに参加する人とがいました。この時の私は、英雄になって戦争に出陣するような気分でした。

 というのは、出家したら厳しい修行が待っていて、それこそ眠る時間もないと聞いていたからです。それでも、私は人間を超えるため、どんなに修行がつらくてもそれに耐えるのだ、神になって地球を救済するために命を賭けるのだと覚悟を決めていました。

 富士の道場はセミナー参加の信徒でいっぱいで、出家の私は3階部分で立位礼拝という修行をひたすら行うことになりました。一日のうち16時間の間、身体を動かし続け、眠る時間もあまりない修行なのですが、その時はもう、崖から飛び降りたような気持ちでやっていました。「どうせいつか死ぬのだし、今死ぬような苦しみを味わう方が、あとで楽になる。」と言い聞かせて続けました。

 その修行は2週間で終わりになり、私はAMI(音楽班・アストラル・ミュージック・インスティテュート)に配属になりました。音楽班は私を入れて4人で、わりと厳しくない部署でしたが、死んだつもりで出家した私は、ほとんど私語はしゃべらず、また、ほとんど寝ないようにして、ひたすら言われたことを淡々と行うようにしていました。

 居眠りすることもあったのですが、それを人に見つかるのを恐れ、ピシッと目を覚まして働き続けました。肉体は仮の世であると思い、身体はどうなっても良いと思っていました。苦しいのですが、それも解脱のためだし、後戻りすることもできないので、ひたすら「絶対自由、絶対幸福、絶対歓喜」であるという解脱を目指すしかない、と自分を鼓舞していました。

 富士の道場の近くには店もなく、教団から与えられるオウム食という食事しか食べることができなかったり、5時間以上寝てはいけないなどの決まりがあり、相当な環境の変化でしたが、「解脱したら煩悩がなくなって苦しくなくなるんだ。」と言い聞かせて、ひたすら功徳と修行しかない、と燃えていました。

 1日に6時間は立位礼拝という修行を行い、あまり寝ないので常に潜在意識に入った状態で、目の焦点も合わなくなっていました。その頃は、そういった雰囲気のシッシャがたくさんいました。

 89年のはじめの頃は、シッシャ狩りということで、毎日のように新人が富士に到着し、どんどんと出家者の人数が増えていきました。その頃は、ロータスヴィレッジ構想というのがあり、私は、このようにオウムに集まる人が増えて、そのロータスヴィレッジが早くできればいいなあと夢見ていました。

 音楽班の部屋は、富士の道場の隣に建てられた、サティアンビルという建物の2階にありました。このサティアンビルの4階に麻原が住んでいて、時々音楽班の部屋に、マントラなどの録音をしに来たりしていました。麻原の子供たちもよく部屋に遊びに来ていて、音楽の授業をしていた頃もありました。

 音楽のワークは、一週間に一曲、オウムが東京でやっていたお弁当屋さんのBGMを作ることでした。その後、麻原が作曲した「未来へ」という曲を編曲し、それはシッシャに配られました。よく厨房で「未来へ」がかかっていて、「進め弟子たちよ、悪魔をつぶせ」などという歌詞が頭に残りました。

 その頃は毎日サティアンビルの3階で夜礼と説法があり、基本的な仏教の話に混じって、すでにヴァジラヤーナ的な話も始まっていました。

 釈迦牟尼が前世で、同じ船に乗った悪徳宝石商が他の乗組員を殺そうと計画しているのを知り、その宝石商を殺してポアしたという話があった時、その頃の大師に「自分だったらどうするか」という問答があったのですが、一番弟子の石井久子さんが「ポアしてあげる」と言ったのが印象的で、「そうか、それがみんなのためだし、悪徳商人もそれで悪業を積まないから救済されるんだな」と思いました。

 3月のはじめ、「滅亡の日」という本の袋詰をほとんど丸一日行うというワークがありました。ずっと立ちっぱなしで、そのうち15分だけ横になって休む時間が与えられました。故村井秀夫氏が指揮を取って「さあ、頑張るぞ!」と声を掛けていたことを覚えています。

 オウムでは「極限で頑張ると成就が早い」と言われていたし、この「滅亡の日」という本は、ちょっと見てみるとかなりすごい預言が書いてあるようだし、何か特別な意味を持つような気がして、極限状態の中で、肉体の感覚も麻痺したようになり、なにか特別な空間にいるような感覚になっていました。「成就をしたら、神秘的な力が身について、魔法のように人を救済できるんだ、早く解脱したい。」と、その一心で、潜在意識に深く入って神秘的な世界に没入しようとしていました。

 その頃ちょっと驚いたことがありました。ある男性シッシャが、1日に十時間以上も寝ていたことがあり、その罰として独房に入れられ、出て来た時には手にミミズ状に膨れ上がったあざができていたのです。

 1日5時間以上寝た超過分の時間を、手足を縛られて蓮華座で、トイレにも行けず垂れ流し状態でずっと真っ暗な独房に入れられたというのです。そこで私は、「決まりを破ったら大変なことになるな」と、怖くなりました。でも、「決まりさえ守れば良いのだと、私はきちんと決まりを守って頑張ろう」、と思いました。

 春になった頃のある日、麻原の体調がすぐれないということで、サティアンビルに住んでいる出家者はできるだけビルから外へ出されました。音楽班は、富士の道場の前方にパーテーションを立てて、その中に楽器を並べてワークをし、寝泊りしていました。この頃すでにサティアンビルでヴァジラヤーナ活動が行われていたと聞いたのは、2000年以降のことでした。

 その頃富士の道場では30~40人くらいが寝ていたと思いますが、夜の1時や2時には誰も寝に来ず、3時くらいになってやっとポツポツと毛布を持ってやって来ました。そのうち朝6時に起きて掃除をするようにという通達があり、3時間程度の睡眠で、みんなまじめに6時に起きて掃除をしていました。風呂に入ると徳が減ると言われていて、シャワーは週に2回、風呂にお湯を張るのも、週に2回になっていました。

 麻原のシッシャに対する対応ですが、夏の初め頃、例えばこんなことがありました。第1サティアンの玄関の警備というのを交代で行なっていたのですが、玄関の踊り場に「サニー」という名前のネコがいました。サニーちゃんは半畳くらいの檻に入れられ、みんなのマスコットでした。

 麻原はよく、三女を伴って運動のため富士の道場の裏を歩きに行ったりしていたのですが、ある時麻原が玄関から帰って来た時に、サニーが「ニャーニャー」とやけに鳴いたのです。麻原は、「おおー、サニー、元気かー!」と声をかけ、「頑張れよー!」と言い、私は「ネコに対しても愛があるんだなあー」と単純に思いました。

 でも次の瞬間「ん?今警備をしているのは誰だ?」と麻原が言ったので、「小林です」と私が答えると、「おおー小林さんかー、元気かー、頑張れよー!」と言ったので、「ネコも人間もみんな同じ弟子として見てるのかなあー」と思いつつも、声をかけられただけで嬉しく、たったそれだけのことなのに、「グルっていうのは神だからすべての生きものに平等に愛を持っているんだなあー」と、どうしようもなく思ってしまっていました。

 これは非常におかしなことなのですが、自分を大切にしてもらいたいという欲求にとらわれていたせいか、そういった、ちょっとした気遣いや、声を掛けられる、ということだけで、私の中での麻原の神格化は深まって行ったのでした。


◆選挙活動

 7月、麻原が選挙に出るという話がありました。私は単純に、「それは素晴らしい!麻原が政治に加わったら地球は平和になるだろう!これで地球の未来は明るくなる!」と、嬉しくなり、なんの疑いも不安もなく、大賛成しました。

 この選挙の話し合いの時、マイトレーヤ正大師こと上祐氏が、はじめ反対していたことはよく覚えていますが、「慎重なのはわかるけど、なぜグルを信じられないんだろう、グルは神だから何でもできるのに。やればできるに決まっているのに。」と、単純に不思議に思っていました。その当時の私は、それほどまでに妄想的になっていたのでした。

 その頃こんなことがありました。東京から富士に向かう麻原の車に、音楽班のメンバーが同乗することになったのです。車の中で麻原に「小林さんは誰か好きな人はいるのか」と聞かれ、少し気になっていた人がいたので「○○さんとか...」と答えると、「そうかあ?おかしいなあ、普通担当の大師が好きになるはずなんだけどなあ、フッフッフッ。○○は魔境だぞ、魔境が好きになるということはおまえも魔境ということだ。」と言われ、「そうなのかな全然タイプじゃないのにな、担当の大師が好きになるものなのかな。魔境はいやだな。」と思いました。

 しかしそれから1年くらい経った頃から、だんだんとその大師が気になるようになり、愛着して数年間苦しむことになりました。このことに対して私は「グルはあの時すでに見抜いていたんだ、私が愛着するとわかって大師の近くに置いて、私の煩悩を抜き取ろうとしてくれたんだ。すごいなあ、やっぱり私をわかってくれて、導いてくれているんだなあ。」と、いいように解釈して喜んでいました。でも実際近くにいて、自分の面倒を見てくれる人がいたら、私のようなタイプは依存、愛着するのが当然であったろうと思いますが、当時の私は、こんなことも麻原の神格化に結びつけていったのです。


 また、時々麻原から、「どうだ最近性欲は」などと電話がかかって来て、そのたびに、私は、「普通は人には言えないようなことまで感知してわかってくれるのだ」、と思って、麻原に絶対の信頼を置くようになっていきましたが、しかしこれは、それほどたいしたことではなく、一定の洞察力を持っていれば、その人にどんな欲求があるかはわかることでしょう。

 また、このように、いきなり深い部分に切り込む話し方をすると、その人を信頼してしまうという心理学的なテクニックもあるそうで、麻原は、自分をカリスマに見せる術に非常に長けていた、ということもいえるのではないか、と思います。

 話を戻しますが、その後89年7月から音楽班は選挙の宣伝のために東京でコンサートを行うことになり、杉並区のマンションに引っ越しました。その時の選挙区であった中野、杉並、渋谷のホールで麻原が啓示を受けたといわれる曲を演奏するコンサートを合計40回くらい行いました。

 これには時々麻原も参加して話をすることもあり、導きなどに使っていたようですが、大体はお客さんは少なく、選挙活動を行っているシッシャが観客席で居眠りしているのが目に付いたことを覚えています。

 この間に音楽班では、選挙の宣伝のための歌「彰晃マーチ」を作り、麻原の住んでいるマンションで歌を録音しました。そして、ほかにも応援歌と、パフォーマンス用の歌を作り、街頭の宣伝カーでシッシャが歌ったり踊ったりしたのです。コンサートをやっている頃は楽しい毎日でした。

 ただ、私はさらにボーッと潜在意識に突っ込んだ状態が続き、音楽を作る集中力だけはあったのですが、状況判断力がなく電話で話すこともできないような状態になっていて、ほとんどしゃべらず黙っていました。

 コンサートでもボーッとしていたので実際に弾くことはできず、弾きまねをしていたのですが、音楽に合わせて身体を動かすこともなく、見ていたシッシャから、「ロボットみたいだね」と言われたことがありました。その状態で、楽器を運んだりケーブルを巻いたり、言われたことをひたすらこなすことだけをやっていました。自分のエゴを滅するためだと思って、なるべく感情を抑えたりものを考えないようにし、文字通りロボットになろうとしていたような気がします。

 すでにこの頃は坂本弁護士事件が起こっていたわけですが、教団が「サンデー毎日の狂気」などの本を作って宗教弾圧であることを訴えていたので、私は「世の中の人は煩悩が強くなっているから真理が広がるのを嫌がって、弾圧をして来るのだなあ、かわいそうだなあ、早く成就して救わなければ!」と、教団を疑うことを知らずに、妄想的な使命感を増幅していったのでした。


◆ラージャヨーガの成就

 11月と12月に、成就者を出すということでたくさんのシッシャが富士に呼ばれ、一日中立位礼拝をするという修行が始まりました。私は12月組で、3~4日連続で、寝ることも休むこともなく立位礼拝を行いました。その場は異様な熱気で、時々麻原が、前にある祭壇の上で太鼓を鳴らしなから「修行よ進め」と歌っていました。

 ラージャヨーガの成就規定は、赤、青、白の3つの色が見えることだったのですが、私はずっと青と白だけでなかなか赤が見えなかったのです。赤はラジャス(動的)なエネルギーということで、私はボーッとしているので見えないのだと思い、さらに激しく行うことにしました。苦しいのですが、成就をしたら苦しくなくなるのだと信じ、半ば狂ったようにやろうとしていました。投地をして頭を床につける時に、頭をぶつけるようにしたり、スピードを上げたりして、最後の方で赤だけになり、「赤が見えました」と言うと、「はい成就!」ということになりました。

 「成就」ということにはなりましたが、確かにラージャヨーガの特徴である「意志の強さ」は身についたようでしたが、精神的には、さらになにか特殊な、変な状態になりました。

 変に落ち着きがあり、感情がなくて心は安定しているのですが、現実に対する適応能力がなく、世の中が過去に見え、渋谷などに買い物に行っても、ビルはセピア色の廃墟のように感じ、道行く人々は、病気か、もしくはすでに死んでいるように見え、「自分は未来からこの景色を見ているんだ」という感覚でした。こういうのを離人症というのかもしれません。

 世の中と自分が完全に切り離されて、一人の世界に没入している感じで、そこで「私は人間でなくなったのかな、情は薄くなったようだし多分少しは神に近くなったのだろう。」と思いましたが、「なにか変な感覚だな、やはりラージャヨーガでは弱い、クンダリニーヨーガを成就しなければ救済の力は発揮できない!」と、また頑張ろうと思うのでした。

 そして何を頑張るのかというと、グルの意思を行うことで成就は与えられるから、ひたすら身を捨てて麻原から言われたことを行い、奉仕しようというものでした。


◆1990年、選挙惨敗からヴァジラヤーナ路線へ

 翌年1月頃コンサートは終了し、その後通称「バッタ」と言われた、駅前でガネーシャという象のぬいぐるみの帽子を被ってひたすら「麻原彰晃です!よろしくお願いします!」と言いながらお辞儀をし続ける、というワークになりました。私の担当は中野駅で、朝の6時から夜の12時までの18時間、休憩なしで続けました。この間は食事も取らず、トイレに行っても休まずすぐに戻って来るという気合の入れようでした。

 というのは、この頃の私は、もう死んだつもりなのだから、限界で奉仕を続け、教祖が選挙で当選するようそれだけを祈って、身体が疲れ果てようがどうなっても何ともない、というような意識状態になっていたのです。

 「お前らキ〇ガイか!」と罵倒されたりもしましたが、その時は、地球を救いたい一心で、麻原を政治に送り込むためにはどんな恥ずかしいこともやるんだ、という気持ちでした。今思うと、あまりにも社会に対して不信感を持ちすぎ、自分たちだけが真実を知っている、という異常な高慢と妄想的高揚感に陥っていたと思います。文字通り狂っていたと思うし、この異常な高揚感のために後々脳の働きに何らかの異常が出たのではないかと今では思っています。

 夜の12時にバッタが終わると、食事を取り、さらにポスター貼りに出かけて、寝るのは3時ごろでした。しかも、男女混合でタタミ1畳に2人くらいの満員状態で雑魚寝していました。それでも、つらいと思うのは煩悩であり帰依がないということになるので、「私はつらくない、こんなに極限でもグルの意思を実践しているなんて帰依があるんだ、私は普通の人間ではないのだ。前世からステージが高かったはずだから、早く解脱して救済の力を身につけるぞ!」と言い聞かせ、常に自分に気合を入れて頑張るようにしていました。

 その頃の日記を見ると、「死ぬ直前までやる」と書いてありました。このように、地球に対する危機感と、妄想的優越感から、無理に高揚感を高めて働き続けるのですが、これでは交感神経と副交感神経のバランスを崩してしまうことは明らかです。

 というのは、今現在、神経のバランスがなかなか整わなくて苦労しているので、その原因にもなったのではないかと思われるからです。プライドによって限度を超えて働き続けると、燃え尽きて抜け殻になってしまうのだと思います。

 その後「宅訪」といって、選挙区の各家庭を回ったり街頭で署名を集めるワークになりました。これも、休まずに一生懸命行って、かなり多くの人数を集めましたが、もともと口下手の私は、一人の人をめがけて走り寄り、ひたすら勢いでぶつかり、その熱心さで署名をもらうという感じでした。

 選挙は、ご存知のとおり惨敗することになるのですが、そこでまた開票で不正があったという話があり、私は「そうだそうだ、やっぱり社会は真理を弾圧してるんだ!」と、被害妄想を膨らませてしまいました。

 その頃の説法で「これからどういう作戦で救済をやって行くか」という話になったことがあり、あるシッシャが「AEI(歌や踊りでパフォーマンスを行う班)のイメージアップ作戦」という意見を出したことがあったのですが、麻原は、「○○くん、わたしはそういうことは考えていない。。」と、ドスの効いたような声で言ったのをよく覚えています。

 それから、「マハーヤーナではもはや地球は救済できない、ヴァジラヤーナで行く」ということになっていったのです。

 私は、「そうか、世の中はどんどんけがれていっている、早くしないと間に合わない、愛する人たちを救うんだ、みんなが悪魔に取り込まれてしまう、早くクンダリニーヨーガの成就をしてもっと救済しなければ!」と、妄想的救済欲求は膨らんで行くのでした。まったく単純なアニメ的思考です。

 90年3月、音楽班はAEIとして、メンバーが増え、全国の道場で行われる麻原の説法会「ポアの集い」の宣伝として、街頭で宣伝カーの上で歌ったり踊ったりすることになります。たくさんの人に麻原の話を聞いてもらい、救われてほしいと思っていたので、私も一生懸命司会をしたりしました。
 
 その頃はまだ、感情もなくロボットのようではありましたが、しゃべる訓練をしなければ救済はできないと思い、苦手なことこそ喜んでやるのが奉仕だ、と気合を入れてやっていました。

 その頃「ヴァジラヤーナのザンゲ」という修行があったのですが、私は音楽班として、その間、一日の半分は新しい曲を編曲するワークが入りました。12時間は富士の2階道場で修行、12時間は1階の部屋で音楽でした。AEIのメンバーでワイワイと楽しく編曲したことを覚えています。その時できた曲が、「マハーヤーナ」「ヴァジラヤーナ」「タントラヤーナ」「黎明」など、麻原が作曲した曲でした。

 実は、「タントラヤーナ」の曲の歌詞には、もう一番歌詞があったことをあとで知らされました。でも、その歌詞はあまりにも反社会的であったために、カットされたということでした。それはこういうものでした。

 「法律つぶして進もうよ、法律超えて行こうよ、そして真理の到達点に、早く早く着こうよ」

 これを歌っていたら、オウムの中ではみんな、いとも簡単に洗脳されて法律を破ろうとしたり、さらに大変なことになっていたのではないかと思います。本当にカットされて良かったと思います。

 また、その頃シッシャの間でこんなショッキングな話が出たことがあります。「もし、グルから親を殺せと言われたらどうする?」そういう話が、麻原と大師の間でなされていたという噂があったのです。

 私はその時かなり衝撃を受け、「自分にはとてもそんなことできない」と思いましたが、あとでいろいろ考え、「でもグルはその魂にとって何が一番幸福なのかが全部わかっているわけだから、もしも親が今死んで転生することが幸福なのだとグルが言うのなら、転生させることが親孝行なんだろうな。」「やっぱり一番苦しまない方法で、しかも自分がやったことがわからないようにするのがいいんだろうな。」などと考えて、オウム真理教の世界を盲信する中で、自分を無理やり納得させていました。

 今これを思い出すのはとても苦痛ですが、その時はそのように考えたりしていたのです。本当に、この頃は麻原のことを、「人の状態を完全に見抜き、その人にとって一番幸福な道を知っている、全面的に信頼できて生命さえ預けられる神のような存在である」と思い込んでしまっていた、ということです。

 ここまで完全絶対に信じてしまうというのはどういうことかと考えてみたのですが、どうも、①神秘的な体験を過大評価したこと、②それと同時に、今までなかなか人に理解してもらえなかった、自分の霊的な部分を初めてわかってくれた(認めてくれた)と思いこんだこと、③しかも、今まで自分が劣っていると思っていた部分を、修行が進んでいるゆえのプロセスとして逆に肯定されて、ある意味褒められたこと、というようなことが続くうちに、なにかの思考回路が短絡的に答えを出し、「私が実は優れた人物であるということを見抜いてくれた」と考え、それをもって、麻原の神通力が完璧だと思い込んでしまったのではないか、と思うのです。実に都合の良い勝手な理論なのですが、これが愚かな人間の単純な思考回路なのだろうと思います。

 これは虚栄心を満たす以外の何ものでもないのですが、うまく一定の「神秘体験」などと結びついていたりして、その当時の私は、バランスの取れた思考ができず、一度、麻原、オウムを正しいと思ったら、それを疑うことを知りませんでした。

 このように、今まで自分に対して心の深い部分に入って来る人がおらず、誰も理解してくれない(認めてくれない)と思っていたところに、理解者(認めてくれる人)が現れると、人は、いとも簡単にその人を信頼してしまう(過大評価してしまう)、ということは、誰にでもあることなのでしょうか。

 特にコンプレックスの強い人に見られる傾向なのかもしれません。というのは、これらの極端な心の働きの中には、強い自己愛があり、自己愛を満たしてくれる人を愛する、信じる、ということがあると考えられるからです。


◆石垣島セミナー

 この頃は、大師と呼ばれるクンダリニーヨーガの成就者が、上九というところへ行って、泥にまみれて変な匂いをさせて帰って来ることが何度かあったので、何をしているのだろうと思っていました。そのうちに、「オースチン彗星が来るので石垣島に避難する」という話がありました。

 私は、「いよいよ天変地異か、やはり人間の悪業が満ちてきたのだろうか」と、悲しくなり、知り合いに電話をかけて誘えという指示が出たので、親にも電話をかけました。必死で訴えたことを覚えていますが、なかなかわかってもらえず、もう救えないのか、と、胸が痛みました。

 今思うと、家族は「私が頭がおかしくなってしまった」と思ったことでしょう。あの危機感は何だったんだろう、と考えると、すべて麻原の言うことを信じて、強迫神経症のようになっていたのではないかと思います。なにかの条件がうまく結びついて、教団全体に、病気の集団が形成されていたのだなと思います。

 石垣島では、選挙カーで「ヴァジラヤーナ」などの歌のカラオケを流し、私は以前より少し意識がハッキリして来ていたのもあって、悲壮感と使命感とともに、サバイバル的な要素を少し楽しんでもいました。

 大師方が忙しく走り回り、指示を飛ばして、何かが差し迫っているという危機感にあふれ、みんな「これから世界はどうなるのだろう」という不安の中、「オウムにいれば大丈夫」という漠然とした安心感と仲間意識を深めていました。今振り返ると石垣島の一般の人から見たら変な集団だっただろうなと思います。実際、ありもしないことに必死になっていたのですから。

 しばらく石垣島で過ごすか、一生富士には帰らないのかと思っていたわりには、数日で石垣島セミナーは終わり富士に帰ることになりました。聞いた話では、「グルがコーザルのデータをいじってオースチン彗星の軌道を変えたらしい」ということでした。

 コーザルのデータというと、宇宙のすべての事象をつかさどっているデータと言われていました。私は、「そうか、グルは神だから、宇宙のすべてを瞑想によって自由自在にコントロールできるんだ、天変地異だって起こせるし、止めることもできるんだ、それは人間の悪業次第なのだな。」と思って納得したのです。

 それを考えると、なぜ選挙の時投票箱を不正にいじられたとしても、コーザルのデータを変えて操作できなかったのかということになるのですが、とにかくその頃は、グルが絶対の判断で動いていると思っていたので、「きっと当選が目的ではなくて、人間が悪業を積むかどうかテストしたのだろう」といった妄想的な思考によって、そういった合理的な疑問を全て抑圧していたのです。

 その後、富士の道場の近くの清流精舎というところが新しく出家した人の修行場になっていましたが、ビニールに覆われ、シェルターという感じのドアが取り付けられていました。まだオースチン彗星の影響が残っているからだと聞き、何の疑いも持っていませんでした。

 この石垣島セミナーの真実(教団の生物兵器の噴霧実験のため石垣島に避難したこと)を2000年以降に知った時、なんという馬鹿げたことをやろうとしていたんだろうと思いました。

 もし90年の時点でその真実を知ったとしたら、自分は一体どう思っただろうと考えると、やはり理解に苦しんだかもしれません。でも、もしも麻原に説得されたら、「そうか、世界はもう、そこまでけがれているんだ、神の罰が下っても致し方ないことなんだな。」と思ったかもしれません。

 ある時、私は麻原にこう言ったことがあります。「私、尊師が怖いんです。夜摩天(閻魔大王)みたいな気がして...」すると、麻原は、「そうだな、私は夜摩天的要素があるからな。」と答えました。

 それを聞いて私は「やはりそうか、悪業は積まないようにしよう、悪業がなければ裁きを受けることもないだろうから、尊師の言うとおりにしよう。」と、帰依を深める気持ちをさらに強めようと思いました。

 もともと私は「自分は悪人である、悪業がたくさんある。」と思っていたので、死後、閻魔大王に裁かれて地獄に落とされるのは怖かったのですが、閻魔大王の裁きの時に弁護士として現れるのがグルだという話もあって、「とにかく尊師は私の生死さえもコントロールし、一番いいようにしてくれる、でも、悪業を積んだらそのカルマを落とすこともするかもしれない。それは怖いけど、それが最高の愛なのだから結局は一番苦しまずにすむんだ。とにかく尊師の言うとおりにするのが一番いいんだ。」と、思い込もうとしていました。

 こういった妄想的なまでの「恐怖」というのも、オウムによりのめり込んで行って、それから抜けることができなくなる一因になっていたと思います。


◆クンダリニーヨーガ成就と言われて

 7月の1日、クンダリニーヨーガの成就者を出すということで、いよいよ私も修行に入ることになりました。ほとんど横になったり眠る時間はない修行で、1日に12時間連続で激しい行法を行い、あとは瞑想などで座りっぱなしの修行でした。蓮華座という座法で座り、私は足が痛くてたまらなかったのですが、痛みは地獄のカルマと言われていたので、ひたすら耐えてカルマを落とそうと座り続けました。周りのみんなも、かなり気合を入れていました。

 毎日体験を報告し、11日間で成就と言われたのですが、「あれ、今から修行だと思っていたのに。」と、もの足りない感じでした。身体が衰弱しているような感じで、頭はスッキリしていたのですが心はあまり変わっていないように思えました。成就したら性格が変わると思っていたのに、ヤル気や勢いはついたものの、根本的性格は変わっていないように思えました。

 でも、人と話すと、なにか自分の方が心が広がっているようで、人の心がわかるような気がしました。また、パワーは強くなったのですが、周りの影響をものすごく受けるようになりました。

 それで、「クンダリニーヨーガっていうのはこういうものなんだ、かえって生きにくくなったけれど、救済者っていうのはそういうものなんだろう、まだまだ先は長いんだ。」と思いつつ、一般の人に対しては「私は地球上でまだ何十人しかいないクンダリニーヨーガの成就者だ。私は神に近づいたのだから、哀れな衆生を救ってあげなければ。」という傲慢な意識を増長させて行くことになりました。

 この頃の自分にとっての修行とはどういうことだったかと思い返すと、社会を煩悩的だと否定するところから単純な思考になり、ひたすら「気合」だけでやっていたように思います。今書いていても、「気合を入れていた」としか書けない部分がたくさんあるのです。頭で考える部分はグルに任せ、自分はその指示を気合を入れて行なうのみ、というのが帰依の形であり、その頃の修行だったのだなと、あらためて考えさせられました。

 その後、クンダリニーヨーガを成就した人は次はマハームドラーを目指し、これからはマハームドラー以上の人だけを「成就者」とみなすという話もあって、私もサティアンビルに移って修行したりしたのですが、なかなかマハームドラーまで行けそうな人がいないので、その話はナシになり、マハームドラーの修行も打ち切りになったと記憶しています。

 その後、私は阿蘇の「シャンバラ精舎」に移り、半月ほど修行しました。その間に、映画を作るという話があり、誰を出演させるかということでオーディションがありました。私もその場でライトを当てたりしていたのですが、わりと容姿の良い女性十数人に、いろいろな演技をさせて主役を選んでいました。映画の題名は、仮に「麻原彰晃物語」だったと思います。私は、どんな映画ができるのかなと楽しみに思っていました。

 そのうちに、しばらく閉めていた全国の道場を、また開けるということで、私は金沢支部に行きました。厳しい修行をしていたので、身体的にはひょろひょろで以前より弱くなったような気がしましたが、心は軽くなっていたので、なんとか気力でやっていました。支部ではなにか自分が浮いているような感じで、身体が思うように動かなかったり食べても消化できない状態でした。

 この頃の日記から少し引用します。「世の中は堕落し切っている。ほんとうにひどい。どうしようもない。情報源が低いからみんな低くなる。どうにかしなければならない。そしてそれができるのは私たちしかいない。」なんと傲慢なのだろうと思いますが、この頃は傲慢という言葉の意味もよくわかっていませんでした。

 金沢支部に行って10日目の深夜、修行の指導をしていて途中で眠くなりうとうととしていた時のことです。麻原から電話があり、「どうだ、頑張っているか」と聞かれました。私が「はい、自分なりに精一杯やっています」と言うと、「寝てばっかりいて何が精一杯だ!もっと必死でやれ!」というようなことを言われました。

 それを聞いた私は、麻原が神通力で私の状態を見抜いたのだと思い込んで、「寝ていたのを見られていたんだ!変化身で見に来たに違いない!怖いなあ、しっかりやらなきゃ。」と、びっくりして、「よし!もう死ぬ気でやろう!」と思いました。

 ところが、翌日いきなり「富士に戻って来い」という指示が来ました。このときも、私は、「尊師は、私の心が変わったことがわかったんだ。そして、やっぱり私のことを心配してくれて、富士に呼んだんだ!」と勝手に解釈して、勝手に喜んでいました。

 こうして結局、体調が悪いまま10日間で富士に戻ることになったのですが、富士に着いてみると、映画の主題歌作りのワークが待っていました。しかし、映画の話はいつの間にか消え、曲には「賛歌」という題名がつけられました。

 この頃麻原が音楽班の部屋に来て「お前は師としての自覚がないな」と言われました。それで、指導者としてあまり自信がなかった私は「よし、自覚を持って、みんなを指導して行こう。」と、「そうだ、地球のためにみんなを引っ張らなきゃ、無理にでも自分を鼓舞して頑張らなきゃ!」と思いました。

 この後、「師というのは信徒さんにとっては神だから、威厳を持たなければ」とか、、「成就者として見られる限りは、神のようにあって、強い態度でいなければ」と、考えるようになりました。だんだん体調も良くなり、視野が広がって周りが良く見えるようになって心も安定して来たのもあり、態度が大きくなって行きました。

 確かにクンダリニーヨーガ的な修行をすると、エネルギーが強くなって気が大きくなるとは思います。でも、精神的成長があったかというと、そうではなく、霊的には不思議な体験をするのですが、それによって、どんどん自分が偉くなったように思ってしまうという、虚栄心は増大して行ったような気がします。

 その後AEIは、サマナの中から楽器経験者を集めて10月頃には東京や熊本で宗教弾圧反対のパレードを行ったり、野外ステージで歌ったり、ということをしていました。これは100人近くの大人数だったのですが、私はやたらと頭が働くようになっていて、練習の合宿などでもバンバンと指示を飛ばしてみんなを率いるようになっていました。

 サマナが「ハイ、ハイ」と言うことを聞くので、自分が偉くてサマナはボーッと何も考えていないように見えました。いろんなことに気が付いてしまうために、サマナを見張っているような感覚もあり、「みんなしっかりと修行させなきゃ」と、厳しく管理していました。これを、修行が進んで霊的に進化したからだと思っていましたが、実際は一般の会社でも、仕事に慣れたり経験を積むと、自信もつき指導もできるようになるし、完全な上意下達のオウムの中ではサマナは上の指示を待っているのが当然だったのです。

 11月からは、AEIはいったん解散し、私は子供の出家者のために、阿蘇で子供班の音楽の授業をしたりしました。阿蘇は広大な土地で、大きなプレハブが立ち並び、たくさんの出家者がいて、その頃の私は、「オウムも大きくなったものだなあ、救われる人が増えて良かったなあ。」と、単純に喜んでいました。


◆1991年「尊師と集う会」「死と転生」「インド巡礼ツアー」

 91年1月からは、毎月一回、「尊師と集う会」という、成就者の集まりが行なわれていました。その中での会話では、誰が早くマハームドラーを成就するか、とか、帰依とは何かという深い話とか、普段の説法では出て来ないような内容がたくさんあり、その頃の成就者の意識付けをして行くものでした。

 その中での、ある師と麻原との問答で思い出したものがあります。それは、「悪魔とは何か」という麻原の質問に、ある師が答えた時のことです。その師は「煩悩です」と答えました。すると、麻原は「違う!現実だ!」と、怖い顔をして答えました。

 私は「現実が悪魔である、とはどういうことだろう...」と考え、「やはり現実というのは、死んだら消えてしまうものであるし、否定しなければならないんだ、オウムの真理だけが真実なんだ、ということかな...」と理解していました。その後も、現実に対する否定は私のなかで大きくなって行きました。

 1月末には私も富士に移動し、3月から「死と転生」という大きな音楽イベントを行うということで、音楽を専門に習ったメンバーを集めて準備を始めることになりました。これは、踊りや大道具、小道具も含めたかなり大掛かりなイベントだったので大変でしたが、「これを見た人が少しでも救われるように頑張ろう。」と思い、極限で行なっていました。そして、周りのサマナにも、そのように指導していました。

 このような大きな音楽イベントは、その後「創世記」を含め、この時期12月までに10回以上行なわれました。「大説法祭」というイベントもあり、そのために演奏班という部署もでき、音楽活動は忙しくなって行きました。

 その頃、潜水艦やヘリコプターなどを作って、機関紙に発表していましたが、すぐに壊れたり、あまり性能は良くなさそうでした。私は、「そういえば一体UFOはいつできるんだろうなあ」と、まだまだ期待して待っていて、麻原がUFOの中から説法している、という夢まで見て、楽しみにしていました。

 オウムには、私が思っていたほどの超能力者はいないのかもしれないなと思いつつ、いや、実は隠された研究機関があるのだ、などと、どこまでも超幻想を信じようとしていました。

 また、その頃こんなことがありました。富士宮の町を車で走っている時、乗っていた一人が「ああ、この町もオウムのものになるんだなあ。」と言い、私は、「たしかに、これからオウムが真理の国を作るのだからそうなるんだな。」と思えて、「そうですねえ。」と答えたのです。その時の心の中を思い返してみると、悲壮感の中に、確かに野望のような意識がありました。

 8月頃には、宇宙戦艦ヤマトのような服を着て、原宿で歌ったり踊ったりのパフォーマンスをしてオウム出版の本の宣伝をしたりと、能天気なこともしていました。浅草のサンバカーニバルに出て踊ったりしたこともありました。

 9月頃、富士の第1サティアンビル2階の、もとの音楽班の部屋に移ったのですが、何か部屋がやけに黒っぽく薄汚れた感じになっていたのが印象に残っています。あとで聞いた話では、その前に第一サティアンでは塩素系毒ガスの研究が行なわれていたということでした。どうりで、第1サティアン全体が黒っぽくすすけたようになっていました。

 この頃はまだ、第1サティアン1階の倉庫ではなにかバーナーで燃やす音がしたり、時々変な匂いがしていて、1階から「すいませーん、変な匂いしたでしょうー」とか言いながら、そういえば、広報技術と言われた当時の科学班の人が2階を見に来たりしていたことを覚えています。

 でも、ここにまた音楽班が居住することになったということは、研究はしていたものの、毒性がなかったのでしょう。私は能天気なことに、「何の研究だろうなあー、次はなにができるのかなあー。」としか思っていなかったのです。

 11月にはインドツアーが行なわれました。思い起こせば、その時たくさんの信徒さんといっしょにインド巡礼を行ないながら、私は、「オウムは、世界で唯一正しい宗教だ、これから世界の宗教になるんだ」と信じてひとかけらの疑いも持っていませんでした。

 この時は母も信徒で、いっしょに行ったのですが、石垣の時にはさすがに変だと思ったかもしれませんが、インドツアー自体は健全に見えたのか、来てくれたので、救済されて嬉しいなあと単純に思っていました。

 私は普段は富士にいましたが、こういったツアーの時は、信徒さんと接する機会があり、信徒さんの中には、「あ、あの、「死と転生」(教団の音楽イベント)に出ていた人でしょう?」とか、私と会えて嬉しいと言う人が多くいました。

 そんな時には「そうか、私は有名なんだな」と、ちょっと気分が良くなったりして、そういう所でも、「私は一般の凡夫とは違う、偉大な神の弟子として活躍しているんだ。多くの人に支持されているんだ。」と、自分の地位を確立させ、自信と確信を深めて行くのでした。

 この頃の私は、心も明るく、毎日が楽しく生き生きとしていましたが、それは今となっては虚像です。集団幻想の中で生きていた夢のようなものでした。閉ざされたひとつの国の価値観の中での幻影です。

 その頃は自分が幸福になったと思っていたし、修行に確信と自信があったので、「みんながオウムに入って真理を実践して幸福になったらいいなあ、世界が平和になったらいいなあ。」と単純に思っていましたが、自分が楽しかった裏では、ヴァジラヤーナ活動があったわけだし、その世界は大きなからくりの中での作られた虚構であったのです。

 その中では、私はノイローゼになることはありませんでした。自分の価値観が肯定される世界だったからです。私の地位は確立され、周りの人はみな慕ってくれていました。私にとっては満たされた世界だったのです。

 しかしそれは、どこかで誰かが苦しむという構図の中での、極端にバランスを欠いた、不安定な安定だったのだと今では思います。