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水俣病問題への取り組みについて

水俣病問題は、当社が起こしました極めて残念な、不本意な事件であり、これにより認定患者の方々はもとより、地域社会に対しましても大変なご迷惑をおかけしており、衷心よりお詫び申し上げます。

当社は、これまで認定患者の方々に対しましては、1973年の協定により継続的に補償を実行しており、非認定者の方々(公的機関により水俣病患者ではないとされた方及び審査の結論が出ていない方)に対しましては、1996年の全面解決策による和解にて解決を図りました。しかし、その後2004年10月の関西訴訟最高裁判決の後、新たな訴訟や認定申請者が急増するなど水俣病紛争が再燃し、混迷の度を深めております。

2007年には、この紛争の解決を図るため、与党水俣病問題に関するプロジェクトチームによる新たな救済案(以下PT案と称します)が示され、本年3月に到り、「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法案」が衆議院に提出され、7月8日に国会で成立しました。

当社といたしましては、これまでも自らその責任を重く受け止め、被害者の方への補償と地域貢献を会社の最重要課題として取組んでまいりました。今後もこの方針は変わりません。

水俣病問題をご理解いただくために、これまで当社が、患者補償にいかに真剣に取組んで来たかについてのご説明をさせていただきます。

1.これまでの経緯について

1)補償協定の成立

現在の水俣病患者の方に対する補償は、1973年7月に、患者各派との間に締結された協定(派に属さない方とは個人契約)に基づいて行われてきたもので、これまでに2,269名の認定者の方々に対し、合計1,431億円(一人平均6,300万円)をお支払いしています(2009.3末現在)。

この補償協定の成立過程におきましては、大半の会派とは話し合いでの決着を図りましたが、一部の派との交渉は、多数の過激な支援者の座り込みのもとで、威圧的言動や行動により応諾を迫られ、一時は社長以下の会社代表が88時間にわたり監禁状態に置かれるなど、極めて苛烈なものとなり、さらには従業員が暴行を受けることもありました。

このような混乱した事態を憂慮された三木武夫衆院議員(当時環境庁長官)、沢田一精熊本県知事ほかのご仲介により、ようやく補償協定が成立しました。その内容は、表(1)のとおりとなっています。

補償協定の概要

2)県債方式による公的融資の開始

新たな補償協定の成立と、認定者の急増により、会社の支出は、年々莫大な額に上るところとなったため、1978年度に入る頃には、あらゆる資産(生産に直接係わらない、土地、社宅、有価証券等、有力子会社を含む)を売却し、金融機関からも特別支援を受けるなど、資金捻出のすべての手段を打ち尽した状況に陥りました。その後も、患者認定と補償金支払いは益々増大の一途で、当社の自助努力も限界となり、通常であれば倒産しかあり得ない状況となりました。そこで、当社があくまで責任を果たしていくため、最後の努力として政府支援を要請しました。

政府は、要請を受入れ、患者補償の遂行と水俣市を中心とする地域経済の維持を目的として、1978年6月、閣議了解により熊本県債発行を基軸とする公的融資を行うことが決定されました。

支援方針に基づき関係省庁間で決められた具体策により、補償金の支払いは可能となりましたが、他方で、総額約700億円(含金利)に上る水俣湾浚渫事業負担金注)1への手当はなく、設備投資資金の出処もありませんでした(後に主要子会社への政府系金融機関と民間金融機関による協調融資が認められました)。そのため、当社は、異例の資金対策も講じながら資金繰りをつけましたが、当然、財務内容は、惨澹たるものとなりました。

このようにして、当社は何とか補償責任を果たしてまいりました。会社が補償金以外も含め水俣病に関連し、支出した総額を表(2)に示します。

水俣病関連損失累計(2007.9.30現在、億円)

注)1 水俣湾浚渫事業負担金

熊本県が事業主体となり実施された公害防止、環境復元事業。1975年基本計画が策定され、水俣湾内の堆積汚泥中、水銀濃度25PPM以上の水域について、浚渫、埋立が行われた。最終的な総費用は、478億円(内チッソ負担約64%、304億円)。

3)1996年最終的全面的解決までの経緯

当社の財政状態は、1993年頃には、増え続ける県債の借入などにより、公的融資元利金を約定どおりに返済することは不可能となっていました。そのため、政府にお願いして、緊急措置を講じていただきましたが、新たな有利子の貸付により不足分を賄ったために、さらに負債は膨れあがっていきました。

この頃には、認定患者は、出尽くした状勢となり、残された会社の責任は、生存者に対する継続補償と公的融資の返済に絞られる筈でした。しかしながら、当社には、第三次訴訟という大きな問題が残されていました。

第三次訴訟は、棄却者等認定されない人によって提起された訴訟で、原告は、全国公害被害者・弁護団連絡会議(全国連)として組織され、その数は、2,000人に及び、さらに増勢が見込まれました。被告は、チッソのほか、国と熊本県、つまり、国と県の責任が争われた点でそれ以前の訴訟と異なる性格を有しました。同様の訴訟が、1995年には全国の三つの高裁と五つの地裁で係属していましたが、この中で審理が最も進んでいた福岡高裁において、裁判所の勧告に従い和解協議が行われており、関係者の注目を集めていました。原告側は、熱心に和解を求めていましたが、国の不参加(県は和解賛成)のため、結審後三年を費やしても進展がみられない状況でした。

こうした時、自民、社会、さきがけの三党連立の村山内閣が成立しました。そしてこの政情で、訴訟上の和解問題の解決に止まらず、水俣病に係わる紛争を将来に向かって全面的に解決しようという潮流が生まれました。その結実が同年6月のいわゆる「三党(合意)の解決案」です。その内容は、訴訟上の争点である四肢末梢優位の感覚障害注)2を有する人に対し、チッソが一時金260万円を、国、県が医療費(本人負担分)等を支給することを主とするものであり、その基本には紛争の最終的、全面的解決という方針があり、全当事者がこれを了解することが求められていました。対象者グループ及び熊本県は早くから受入れを表明、国も受入れに転じました。当社としましては、因果関係が立証されていない、しかも、どれ程多数に上るかわからない対象者に対する支払いを約束することは、本来できるものではないと考えていましたが、もし、この機会に水俣病補償の問題が本当に全面的に解決するならば、それは何よりも有難いことであり、この機を逸しては再びチャンスが訪れるかどうかわからないと考え、思い切ってこの解決案を受入れる決断をしました。

三党合意解決策の実施に当たっては、行政当局と一緒になって地域住民の皆様に呼びかけた結果、一時金対象者は10,305名(認定患者数の4.5倍)に上り、団体加算金と併せ、317億円を負担しました。こうして40年に亘った水俣病補償の長い道程も漸く結着したかに見えました。事実、その後数年は、新たな認定申請もなく、平穏に推移したのです。認定申請者及び未処分者の推移を下図に示します。

図(1)
認定申請と未処分者の推移

なお、このとき、当社が引続き補償責任を果たし、かつ、全面解決の一翼を担って行くためには、公的融資の返済条件の抜本的緩和が必要であることを訴えたところ、政府の理解を得ることができ、これがいわゆる「抜本策」となって実現し、2000年より現在の公的債務の返済ルールがスタートしました。
現在の公的負債残高は表(3)のとおりです。

公的負債残高(’07.9末現在、億円)

注)2 四肢末端優位の感覚障害

四肢末梢、つまり両手首、両足首より先端(手袋靴下型)に強く現れるしびれなどの感覚障害。水俣病にも典型的に見られる症状の一つ

2.最高裁判決後の状況と「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」の成立

(1)経緯

1995年の与党三党合意に基づく紛争の解決がはかられたものの、水俣病に係る被害の救済問題は、この時、唯一残っていた関西訴訟の最高裁判決(2004年10月)の後に再燃し、多くの方が救済を求め、新たな訴訟が提起されているなど、またもや社会問題として混迷しております。この状況を収拾するために、2007年に与党PTから新たな解決案が示されました。

当社は、水俣病関連債務により、大幅な債務超過という現状に鑑み、将来水俣病補償の完遂と公的債務の返済という責務を果たしながら、さらに与党PT案を受入れるためには、かねてから自民党水俣問題小委員会で議論されていた当社の分社化が必要不可欠だということを訴えました。

2008年12月に到り、ようやく与党PTの理解が得られ、対象者への一時金支給や療養費及び療養手当の給付などの救済措置と分社化を同時に条文化した法律によって解決しようという方向性が示されました。2009年3月には、水俣病問題の「最終的包括的解決」を図るため、与党議員により衆議院に法案が提出されました。その後、自民、公明、民主の3党による与野党協議が重ねられ、一部修正の上、7月3日に衆議院、同月8日に参議院にて法案が可決され、同月15日に「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」が施行されました。

(2)チッソの分社化の必要性

現在、当社は、水俣病損失のために大幅な債務超過となっており、公的支援によって、やっと経営が維持されている状態ですが、事業自体は年間の連結利益も約200億円に上り、事業に供する純資産(資産と負債の差額)も約500億円となっております。この事業部分をチッソ100%所有の子会社として独立させれば、このような実力が、決算上、常に明らかにされ、現状に比し、信用が格段に向上し、取引の活性化や人材確保が計られます。

さらに、将来、この子会社株式を上場(売却)し、事業会社を独立させることによって、その時の事業価値に見合った代金を入手することになれば、この資金をもって、患者の皆様への将来に亘る継続補償を積立て、今回の紛争解決に必要な一時金を拠出し、さらに、公的融資の早期返済を行うことが可能となります。また、このように事業会社として独立し、これまでの問題を解決することは、社内のモラールも一段と高まることにつながります。

水俣病問題が複雑化し、当社も世代交代を繰り返している現状を鑑みれば、分社化により早期に責任を果たしうること、かつまた、会社の再建を図りうることは、当社にとって極めて意義深いことに止まらず、先に述べたように、患者の皆様や、今回の対象者の方々にも有益であると同時に、水俣製造所の拡充によって、地元経済にも好影響が齎(もたら)されると考えております。

分社化の概念図(事業形態の見直し)
分社化の概念図(事業形態の見直し)

(3)水俣地域との関係

当社がこれまでに関係先から受けたご支援は、「補償の完遂と地域経済・社会の安定に資する」という責務を果たすためのものと認識しております。

水俣は、当社にとって発祥の地であるばかりではなく、熊本、宮崎、鹿児島の各県内に所有する13ヶ所の水力発電所から得られる電力は、コストの面はもちろん、クリーンエネルギーとして貴重な財産となっております。さらに、水俣製造所は、主力の液晶製造工場として重要な拠点であり、今後の事業拡大の要と位置づけております。

人の面では、チッソグループ約4,000名の従業員の内、およそ1/3が水俣地域に勤務しており、二世代、三世代の従業員も少なくありません。かつ、こういった背景から良好な労使関係が形成されております。また、採用も地元を中心に行っており、従業員の家族を含めた地域との深い繋がりは、当社の事業が発展し続ける限り継続します。

今後とも地元に貢献していくために、当社は、社員一同、一層、社業に邁進してまいります。

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