人工衛星の出現  

 一九五七年十月四日の土曜日、職員親睦団体企画のハゼ釣り会で、朝早くから東京湾に出かけていた。その帰り道の品川駅で、「ソ連人工衛星打ち上げ」という大きな活字の表題が、夕刊紙上に出ているのを見て驚いた。スプートニク一号の誕生であった。
 そもそも、国際地球観測年(IGY)の期間中に、アメリカとソ連が人工衛星を打ち上げるという報道があり、準備が進んでいた。アメリカでは、スミソニアン天文台のホイップル博士が人工衛星の光学追跡の責任者で、世界の十二カ所に、ベーカー・ナンという、特別なカメラを設置し、人工衛星の軌道を精度よく決定しようとしていた。
 スプートニク打ち上げ後に我々がしたのは、いつになったらスプートニクが日本で見えるようになるかを、知る仕事であった。そもそも、人工衛星を見た人はいなかったので、どう見えるかも分からなかった。そのうちに、日本の観測班からも、観測の情報が電報で入ってきた。
 実は、その年の春、母から病院についてきてくれと言われた。医者に会ったら、ガンと宣告され、すぐに手術に合意した。母の手術はうまくいき、二ヶ月ほどで退院したが、秋になって再発し、また入院した。そこで、仕事の合間に毎日病院に顔を出していた。
 そのころから、雑誌などへの原稿の依頼もあり、多忙な日々が続いたが、懐具合は多少よくなった。ある日、母のベッドの横に座り、財布を開けて、「こんなにお札があるから、病院の払いなど楽なもんだ」と自慢したら、母は安心した顔をした。しかし、その翌年の三月、母は五十五歳で亡くなった。

スミソニアン天文台

 一九五八年の夏、国際地球観測年の会議と国際天文学連合(IAU)の総会とが、相次いでモスクワで開かれた。アメリカのホイップル博士 が、会議に出席する途中、日本に寄るという知らせがあった。
 首都ワシントンに、有名なスミソニアン博物館がある が、それに付属の天文台があり、長いこと台長を務めていたアボットさんが、一九五六年に引退された。ハーバード大学教授のホイップルさん が、教授のままその天文台の台長職を兼任で継がれた。そして、天文台の本拠をハーバード天文台に移された。
 ホイップルさんは、彗星や流星の研究者で、彼の車には、「COMET」という文字だけのプレートが付いている。彼は流星の写真観測のため に、特殊な望遠鏡を開発した。それを改良して人工衛星を観測することを試み、ベーカーさんに光学設計を依頼し、視野が三十度もある超広角で、口径比が一という明るい光学系が開発された。それに、速く動く人工衛星を追えるように、ナンさんが設計した架台を付けて、ベーカー・ナン・カメラができた。これを十二個作り、日本など世界中に配置して、人工衛星を光学的に追うという計画の責任者が、ホイップルさんであった。
 その計画では、人工衛星をベーカー・ナン・カメラで撮影し、そのフィルム上で、衛星の位置を測定する。また、それを基にして軌道を決め、軌道の変化からいろいろなデータを求めようとしていた。
 そのために研究者を集めていたが、軌道計算関係の仕事は、計算機の専門家にさせるつもりであった。しかし、それでは限界のあることが分かり、天体力学の専門家を捜しだした。ところが、アメリカでは古典的な学問である天体力学の専門家が少なく、萩原先生のいる日本で誰か探そうと考え、東京天文台にやって来たのである。
 そこで、私がホイップルさんに会ったのだが、英語の会話はほとんど成立しなかっ た。それでも、スミソニアン天文台に来るようにという手紙をもらった。
 渡米の前、結婚をし、妻はお金を貯めてから呼び寄せることにした。妻は永井美音という名前で、父親は電通の役員であった。永井家は広島県の出で、竹原市に、祖父までが住んでいた家がまだ残っている。母親は、島根県の森脇家の出である。
 アメリカから飛行機の一等切符を送ってきた。外貨を用立てるすべを知らなかった が、アメリカから帰国したばかりの先輩から、雑誌の購読料を払ってくれと三十ドルを預かったので、それを懐中にして、一九五八年十月下旬に日本をたった。当時はまだプロペラ機で、羽田を夕方にたち、翌朝給油のためにウエーキ島に寄り、夕方ハワイに着いた。そして夜中にハワイを出発し、次の朝サンフランシスコに到着した。  サンフランシスコで飛行機を乗り換える時、手荷物も計量すると言われ、超過料金を五ドルも払わされた。当時は、荷物の制限が厳しかったのである。そして、ボストンの空港に着いたのは、夜中過ぎであった。そこで、言われたとおり、タクシーで市中に出てヒルトンホテルに泊まった。翌日にケンブリッジの天文台にたどり着いたら、もういくらも金が残っていなかった。
 天文台の台長はホイップルさんだが、人工衛星関係の責任者は、オハイオ州立大学の教授から移ってきたハイネックさんで、ヘナイズという、後に宇宙飛行士になった人 が、ベーカー・ナン・カメラの面倒を見ていた。
 そのほか、計算・解析という部署があり、私はその部署に入った。そこに、アルゼンチンから来たザドナイスキーという人がおり、オハイオ州立大学で測地学で学位をとったばかりの、ベイスというギリシャ人がいた。あとは、天体物理の分野で学位をとっ た、計算機が堪能な人たちだった。

(つづく)