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かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史

日本人初の世界的なオペラ歌手として活動した
三浦環20年間の最盛期をたどってみた

坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]
【第61回】 2014年10月3日
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 政太郎は「時事新報」(1927年4月20日付)に「新ヴィタミンDの不思議――紫外線と共通の作用をする/春日郊外散歩のよい訳もこれで判る」と題された記事を執筆している。彼の研究はビタミンCからD、Eに広がっていたことがわかる。「医学博士三浦政太郎」と署名されているので、1927年より前に博士号を取得していた。

 政太郎は博士号を取得する約束を果たしたが環は帰国できず、各国で「蝶々夫人」に出演し続けていた。オペラの契約は順次2年以上先まで決まっていくので、なかなか自由になれなかったこともあるし、グローバルな芸術家になった環は、ヒノキ舞台から去れなかったのだろう。

 ようやく1929年にハワイで仕事が入り、帰国できるチャンスがやってくる。ところが、政太郎は腹膜炎が悪化し、46歳の若さで急死してしまう。腹膜炎の原因は不明。急報をハワイで受けた環は、帰国を断念し、米国本土へもどってオペラ出演を続けたのだそうだ。

 欧州からシベリア鉄道で一時帰国したのは1932年7月28日、49歳になっていた。政太郎の墓参、国内演奏旅行を行ない、また欧州へもどる。

 1935年、パレルモ(イタリア)で「蝶々夫人」2000回目の主演をつとめる。これを機に海外の演奏活動をやめ、11月に帰国する。この計画は1932年には決めていたはずだ。20年間で2000回の「蝶々夫人」を主演したとすると、1年間で100回だ。オケを縮小した抜粋上演を含んでいたと思うが、月間10回を10カ月とすると、驚異的ではあるが、不可能な数字ではない。

 帰国の翌1936(昭和11)年6月26日と27日、歌舞伎座で「蝶々夫人」日本初演に出演した。全幕スコアどおり、イタリア語による上演だった。その後もオペラやリサイタル出演、日本蓄音器商会(日本コロムビア)へのレコーディングなど、多忙を極めるが、第2次大戦も激化する。1944年3月には山中湖へ疎開する。ちなみに、古賀政男は河口湖へ疎開していた。

病床から昏睡直前まで舞台と録音に出かけた

 東京と山中湖を往復していた1945年8月15日、終戦を迎える。12月1日と7日、日比谷公会堂でシューベルトの「冬の旅」全24曲の独唱会を4回開く。疎開中に環が日本語訳した歌詞による演奏会だった。

「冬の旅」はほとんど男声(バリトンかバス)で歌われる。女性では1990年代にクリスタ・ルートヴィヒ(メゾ・ソプラノ、1928-)とブリギッテ・ファスベンダー(アルト、1939-)が録音しているが、1940年代に三浦環が歌っていたとは!

 自伝のライター吉本明光によると、1ヵ月後の1946年1月9日に会ったとき、ひどく痩せていて驚いたという。3月には環のマネージャーから「一人では歩けない」と連絡があった。膀胱がんだった。3月21日、日比谷公会堂で独唱会に出演。医師が付き添った。舞台にはマネージャーに背負われて登場した。

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坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]

1954年生まれ。78年早稲田大学政治経済学部卒業後、ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」編集長などを経て現職。著書に『複雑系の選択』『めちゃくちゃわかるよ!経済学』(ダイヤモンド社)『浦安図書館を支える人びと』(日本図書館協会)など。


かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史

日本のポピュラー音楽の誕生をレコード産業の創始と同時だと考えると、1910年代にさかのぼる。この連載では、日本の音楽史100年を、たった20年の間に多様なポピュラー音楽の稜線を駆け抜けた本田美奈子さんの音楽家人生を軸にしてたどっていく。

「かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史」

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