政太郎は「時事新報」(1927年4月20日付)に「新ヴィタミンDの不思議――紫外線と共通の作用をする/春日郊外散歩のよい訳もこれで判る」と題された記事を執筆している。彼の研究はビタミンCからD、Eに広がっていたことがわかる。「医学博士三浦政太郎」と署名されているので、1927年より前に博士号を取得していた。
政太郎は博士号を取得する約束を果たしたが環は帰国できず、各国で「蝶々夫人」に出演し続けていた。オペラの契約は順次2年以上先まで決まっていくので、なかなか自由になれなかったこともあるし、グローバルな芸術家になった環は、ヒノキ舞台から去れなかったのだろう。
ようやく1929年にハワイで仕事が入り、帰国できるチャンスがやってくる。ところが、政太郎は腹膜炎が悪化し、46歳の若さで急死してしまう。腹膜炎の原因は不明。急報をハワイで受けた環は、帰国を断念し、米国本土へもどってオペラ出演を続けたのだそうだ。
欧州からシベリア鉄道で一時帰国したのは1932年7月28日、49歳になっていた。政太郎の墓参、国内演奏旅行を行ない、また欧州へもどる。
1935年、パレルモ(イタリア)で「蝶々夫人」2000回目の主演をつとめる。これを機に海外の演奏活動をやめ、11月に帰国する。この計画は1932年には決めていたはずだ。20年間で2000回の「蝶々夫人」を主演したとすると、1年間で100回だ。オケを縮小した抜粋上演を含んでいたと思うが、月間10回を10カ月とすると、驚異的ではあるが、不可能な数字ではない。
帰国の翌1936(昭和11)年6月26日と27日、歌舞伎座で「蝶々夫人」日本初演に出演した。全幕スコアどおり、イタリア語による上演だった。その後もオペラやリサイタル出演、日本蓄音器商会(日本コロムビア)へのレコーディングなど、多忙を極めるが、第2次大戦も激化する。1944年3月には山中湖へ疎開する。ちなみに、古賀政男は河口湖へ疎開していた。
病床から昏睡直前まで舞台と録音に出かけた
東京と山中湖を往復していた1945年8月15日、終戦を迎える。12月1日と7日、日比谷公会堂でシューベルトの「冬の旅」全24曲の独唱会を4回開く。疎開中に環が日本語訳した歌詞による演奏会だった。
「冬の旅」はほとんど男声(バリトンかバス)で歌われる。女性では1990年代にクリスタ・ルートヴィヒ(メゾ・ソプラノ、1928-)とブリギッテ・ファスベンダー(アルト、1939-)が録音しているが、1940年代に三浦環が歌っていたとは!
自伝のライター吉本明光によると、1ヵ月後の1946年1月9日に会ったとき、ひどく痩せていて驚いたという。3月には環のマネージャーから「一人では歩けない」と連絡があった。膀胱がんだった。3月21日、日比谷公会堂で独唱会に出演。医師が付き添った。舞台にはマネージャーに背負われて登場した。