4.三浦環像〜旧自由亭
●『ある晴れた日に』が聴こえてくる?●

旧リンガー住宅の前を通り順路に戻ると、港側である左手の木々に覆われた場所に、日本で最初に造られたアスファルト道路が残されている。
これはグラバーとその妻ツルの息子、倉場富三郎が造成させたと言われている。
今ではすっかりひび割れて、時代の流れを感じさせる。



明治の初期、フレデリック・リンガーが庭内につくった日本最初のテニスコートの場所がこの辺り。

ここではグラバーの息子・富三郎や他の外商たちの2世がテニスを楽しんでいたのだとか。

多くのベンチが設置された空間でひと休みはいかが?
この洋館風売店では、グラバー、ウォーカー、出島という3種の長崎地ビールを販売している(生、ビン各500円)。



オペラ「マダム・バタフライ」の舞台となった長崎。
ゆかりの地としてヒロイン蝶々夫人を何度も演じ、この悲恋物語を世界的に有名にした日本人オペラ歌手・三浦環の記念像が建てられている。
港の見える丘で帰らぬ人、ピンカートンを待ち続けた蝶々夫人。
幼子を傍らに指差す先には、現在と同じように碧い長崎港が広がっていたに違いない。



有名な『ある晴れた日に』の作曲家であるジャコモ・プッチーニの大理石像もある。

三浦環像周辺では毎年行なわれていた「世界マダムバタフライコンテスト」の優勝者が様々な木々を植樹しているのにも注目。
また、旧自由亭の傍らにはギリシャ系アメリカ人の世紀のプリマドンナ、マリア・カラスが第1回のコンテストが行なわれた昭和48年に来崎した際に植樹したオリーブの木がある。
オリーブは古代ギリシアの女神アテナイの木で、美と平和の象徴。
何千年も生きる聖樹なのだとか。
長崎とオペラは「マダム・バタフライ」を通して深いつながりを持っている。

プッチーニ像の奥にある池でこんな笑える光景を目にした。
ここは「カメの池」
意外にも多くのカメがス〜イスイ泳いでいて、子どもたちに人気のポイントだ。



さて、このカメの池横の建物が、旧自由亭

側には「西洋料理発祥の地」の碑があるが、自由亭は長崎の草野丈吉が日本で初めて開いた西洋料理店で、現在は全体の4分の1程が移築保存されている。
日本での西洋料理の歴史は16世紀中頃のポルトガル船の来航に始まり、味と技は鎖国時代唯一の開港地であったオランダ屋敷(出島)から伝わったのだとか。
草野丈吉は出島でボーイとして修行。
はじめに開業した「良林亭」(後に自遊亭から自由亭と改称)では、一人前の料理代は三朱(しゅ)(現代で約1万3000円程度)、電話もない時代なのに完全予約制の定員6名だったのだとか。
店は大いに繁盛し、彼は明治2年(1869)、日増しに増える外国人要人の接待のため、大阪に日本初の西洋料理店とホテルを兼ねた官営「自由亭ホテル」を建築。
丈吉はホテル経営者でもあった。

明治11年(1878)に建築されたこの自由亭へも、長崎を訪問したアメリカ合衆国大統領グラント将軍をはじめとする各国のVIPたちが訪れた。

当時の彼のメニューには「カーァヒイ(コーヒー)、ビーフテキ(ビフテキ)、カアレイ(カレー)、ゼリターツ(ゼリータルト)」などと記されている。

現在では喫茶室として利用され、明るい窓からは長崎港を眺めることができ、落ち着いた時間を過ごすことができる。

おすすめは、写真のカステラセット700円(カステラのみ300円)、自由亭オリジナル紅茶500円。
グラバーにちなみ、キリンクラシックラガービールも楽しめる。


パーソナルCheck!●『蝶々夫人』のモデルはグラバー夫人ツル?

アメリカ海軍士官ピンカートンと日本人女性蝶々さんの悲劇を描いた歌劇「マダム・バタフライ」のモデルが、グラバー夫人のツルさんだったのでは? という話がまことしやかに広まり論争を招いた時期があった。
ツルさんは接客のときにいつも蝶の紋の着物を身に付けていたため、なんでも外国人から「お蝶さん」と言われていたとかいないとか。
南山手近く、浪の平の大平寺にあるツルさんの墓石には蝶の紋が刻んであるということもこのツル=蝶々夫人論争に拍車をかけた。

反論者はグラバー夫人のツルさんに蝶々夫人のような悲劇性はない!というもの。



ツルさんの経歴と蝶々さんが重なる部分はないが、ただ舞台が港を望む長崎の丘という部分で、グラバー園は、現在「蝶々夫人ゆかりの地」となっている。


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【1.入口〜旧三菱第2ドックハウス
【2.歴史の泉〜祈りの泉

【3.旧リンガー住宅〜旧スチイル記念学校】
【4.三浦環像〜旧自由亭】
【5.旧グラバー住宅〜長崎伝統芸能館】


||[周辺地区地図]||