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話題の『新幹線大爆破』オリジナル版は興行失敗していた? 日本発パニック映画誕生の裏側

■警察と国鉄に嫌われた意欲作

 

 映画『新幹線大爆破』は、昭和50(1975)に公開されたパニック映画である。日本での興行は失敗に終わったが、海外で大ヒットした。その後、次第に日本発パニック映画の金字塔として評価が上がり、4月23日からはNetflixで新しい令和版が配信開始となった。

 

 この映画が公開されたのはオイルショックの2年後である。テレビに押された映画界は全盛期を過ぎ、製作した東映はこの困難な時期を、ヤクザ映画と実録路線で乗り切っていた。しかし、それだけではもはや限界に来て次のテーマを探していたのだった。

 

 社長の岡田は当時、強烈な個性と多彩な発想、抜群の行動力で業界全体を牽引する「日本映画界のドン」だった。そして、ハリウッドでパニック映画がヒットするのを見て、日本でもこれをやろうと企画部にハッパをかけたのである。

 

 それに応えて一人の企画部員が出してきたのが、何かあったら止まるという新幹線の安全神話を逆手に取ったアイディアだったのだ。岡田はそれが気に入った。新幹線は日本にしかないものだし、「これなら世間をあっと言わせることができる」「海外にも輸出できる」と意気込んだ。

 

 まだ全共闘運動の残り火がくすぶっている時期である。残党が過激化し連続企業爆破事件が起きていて、政治的に微妙な時期だった。こういう時に爆破事件を描こうと考えたのだから当然、警察は不快感を表明した。安全を売り物にしていた国鉄も、製作に強く反対した。

 

 それ以前の任侠路線や実録物にも、警察は嫌悪感を示していた。任侠路線は鶴田浩二主演の『博徒シリーズ』や、高倉健主演の『日本侠客伝』『網走番外地』、藤純子の『緋牡丹博打』などの人気シリーズを、実録物は菅原文太主演の『仁義なき戦い』といった大ヒットシリーズを生み出していた。

 

 これらの作品は警察はもちろん、映画関係者や社会からも批判されていた。しかし岡田は強引に押し切った。このような東映の「反骨精神」は、前身の一つとなった東横映画に、満洲映画協会のOBが集結していたことも関係しているかもしれない。

 

 満洲で地獄を見てきた満映のOBたちは、撮影所の裏に板張りの家を建てて暮らしながら、新興の東映を支えた。権威や権力に媚びない文化は、今も長寿ドラマ『相棒』の中に漂っている。

 

 『新幹線大爆破』は、東京発博多行きの新幹線「ひかり」109号に爆弾を仕掛けたという電話が、国鉄本社にかかってきたところから始まる。その爆弾は速度が時速80キロを下回ると爆発するという、意表を突くものだった。犯人の要求は500万ドルで、引き換えに爆弾の解除法を教えるという。

 

 かくして国鉄本社は警察と連絡を取りつつ、運転士に指示を出しつづける。時速80キロを下回らないように運行しつつ、博多に無事到着するまでに犯人を探し出さなければならない。

 

 犯人グループは3人だった。中心者の沖田哲男は倒産した町工場の元社長。その元社員で、沖縄から集団就職してきた大城浩、それに全共闘の元活動家で逮捕歴がある古賀勝である。いずれも時代に翻弄され、大きな力によって潰された人間だ。しかし、誰も傷つけない方法を選んだ3人の、渾身の反案は挫折する。

 

 撮影は実写と特撮を組み合わせたものだった。様々な方面から批判が出て「製作不可能」とまで言われた中、マスコミから注目され、現場の意気は上がったという。東京駅の全景は隠し撮りで、ニュース映像などを参考に本物そっくりの模型を作るなど、あの手この手で製作した。

 

 高倉健は東映の任侠映画を支えた人気者だった。それが、倒産に追い込まれた町工場の元社長という冴えない役柄を引き受けたことで、新境地を切り拓く。生真面目で寡黙な、日本の男の一つの理想像を作り上げるきっかけになったのである。

 

 古賀たち3人は新幹線に爆弾を仕掛けた凶悪犯なのだが、観客は映画を観ているうち、次第に彼らの境遇に思いを致すようになる。そこに昭和50年代という時代の影があり、単なるパニック映画以上の娯楽作品に仕上がった。日本を代表するアニメ作家の一人・押井守は、「戦後日本に喧嘩を売った最後の映画」と評している。

 

 しかし、そこまでの熱量で東映と俳優たちが作り上げた『新幹線大爆破』は、興行的には失敗だった。何しろ公開前の状況が悪かった。警察も国鉄も反対していた上に、公開2日前まで編集をしていて、マスコミや評論家向けの試写会ができず、まともな予告編も作れなかったのである。

 

 東京ではそこそこの入りだったが、そのほかの都市ではさっぱりだった。当時としては破格の制作費をかけたにもかかわらず、赤字になってしまったのだ。

 

 だが海外では好評だった。公開後にアメリカのジャーナリストを対象に開いた上映会では好評で、著名な情報誌『バラエティ』にも高く評価された。その後、各国から注文が入り、日本映画の興行記録を塗り替えたのである。

 

 やがて日本でも徐々に評価が上がり、昭和を代表するパニック映画の傑作とみなされるようになった。当時、新幹線は世界初の超高速鉄道であり日本の誇りだった。それを爆破するという発想が、社会に受け入れられなかったという説もある。

 

 岡田が率いる東映は各方面の反対を押し切り、敢えてそういう設定にした。そして世界的ヒット作『タワーイング・インフェルノ』にぶつける形で、公開したのである。この「活動屋の心意気こ」そ、今の日本映画界に最も必要なものではないだろうか。

イメージ/写真AC

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川西玲子かわにしれいこ

1954年、東京生まれ。(公社)日本犬保存会会員。専門学校や大学で講師を務めた後、現在は東アジア近代史をメインに執筆活動を行う。主な著書に『歴史を知ればもっとおもしろい韓国映画』、『映画が語る昭和史』(ともにランダムハウス)、『戦時下の日本犬』(蒼天出版)、『戦前外地の高校野球 台湾・朝鮮・満州に花開いた球児たちの夢』(彩流社)など。Amazonに著者ページあり。

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