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【特選!レジェンド校】

「炭鉱の町」奇跡の進撃 磐城(福島)

2018年6月12日 紙面から

 石炭から石油へ。エネルギー革命の時代に、閉山が決まった炭鉱の町から甲子園にやってきた高校球児がいた。「小さな大投手」と呼ばれた田村隆寿を擁した磐城(福島)は、1971年夏の第53回大会で準優勝。都市対抗大会に何度も出場した社会人チーム出身の指導者に厳しく鍛えられた公立進学校の躍進。いまだに福島では春夏を通じてただ一度の甲子園大会決勝進出となっている、あの夏を取材した。 (文中敬称略)

1971年決勝の試合後、田村隆寿主将を先頭に甲子園を行進する磐城ナイン(野球部OB会編・白球の賛歌より)

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決め球はシンカー

 全試合を1人で投げ抜き、1失点だけの準優勝投手は、ことし100回を迎える夏の大会でも磐城の田村隆寿しかいない。165センチ、65キロ。「小さな大投手」と評された田村は3試合を無失点に抑え、桐蔭学園(神奈川)との決勝に臨んだ。5月ごろから練習を始めたシンカーが落ちるようになったのが7月。面白いように打ち取れた。決勝もゼロを並べ、0−0で迎えた7回2死三塁。峰尾晃への勝負球は当然、シンカーだった。

 「ファウルの後、ニューボールになって、滑った。落ちた球を打たれたのなら悔いはないが、落ちない棒球でした」。田村は今も無念そうに話す。「もう1回やったら桐蔭には勝てますよ」という田村が、逆に「もう1回やったら負けるかもしれない」と言うのが、1−0で完封した初戦の日大一(東京)戦だ。

日大一戦勝算あり

 日大一は3年連続出場で、のちに東映に入団する左腕エースの保坂英二を擁し、打線も強力。だが、田村とは違い、前年夏の甲子園で磐城を率いてPL学園(大阪)と延長戦を戦った監督の須永憲史には勝算があった。

 OB会の準優勝記念誌で「相手の攻撃に対しては守り切れるという大きな自信は持っていました」と述懐。心配は、保坂を打てるかどうかだった。須永は日大一の練習試合に何度も足を運び、サインを解読した。今でいうID野球。それが2度の盗塁阻止につながり、精神的優位に立つと、宗像治の適時打で決勝点をもぎ取った。

甲子園のマウンドで力投する田村

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 昭和30年代に都市対抗大会の常連だった常磐炭鉱野球部は、地元の将来を担う人材を育成する地域の高校をバックアップ。指導者も派遣していた。1963年夏に磐城を初めて甲子園に導いた出沢政雄も、須永もそうだった。

スパルタで鍛える

 須永の指導はスパルタ。1年のときは40人ぐらいいた部員も、学年が進むとひと桁になる。平均身長が170センチに届かなかった選手はたくましく鍛えられた。指導者になってから東海大相模(神奈川)の原貢監督が指導する姿を見たとき、田村は「あの厳しさは、須永監督といい勝負かもしれない」と思ったという。

 快進撃は創作意欲も刺激した。水島新司さんの野球漫画「ドカベン」で、主人公・山田太郎らの明訓は1年夏の甲子園大会決勝で、フォークを武器にする緒方勉のいわき東と対戦する。モデルは磐城。炭鉱が閉山になり、野球が終わったら選手は離れ離れになるという設定だった。

閉山も悲壮感なし

 磐城も閉山が決まってからの甲子園だったが、悲壮感はなかったという。常磐炭鉱は常磐興産と社名を変え、常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)を開業、社員の受け皿とした。磐城の甲子園での快挙は、炭鉱の町の出直しを後押しした。

 田村は卒業後、日大の準硬式を経て、福島県郡山市に拠点を置く社会人のヨークベニマルでプレー。マウンドに立ちながら安積商(現帝京安積)の監督を務め、79年夏と82年夏に甲子園へ導いた。その後、常磐興産の社員となり、母校の監督に就任。85年夏の甲子園に出場した。88年11月からは聖光学院の監督となり、チームの礎をつくった。そのとき部長だったのが現監督の斎藤智也。福島の夏を昨年まで11連覇している。

地元へ熱いエール

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 91年12月に聖光学院の監督を辞めた田村は福島を離れ、野球とも離れた。しかし、東日本大震災で郷里が被災。再び福島と向き合い始めた。福島県高野連の理事長だった同級生の宗像を通じ、ささやかながらボールを贈り、教え子の木村保が率いる磐城にも顔を出すようになった。

 「(斎藤)智也に頑張ってもらいたいし、磐城が甲子園に出るのも見たい。ほかの学校も、もっと頑張ってほしい」と福島球界全体にエールを送る。

 66歳。もう一度、高校球児と夢を追いかけたいとは言わないが、一瞬だけ熱い思いを漏らした。「もしもやるなら、甲子園に出ていないところでやってみたい。唯一、夏の甲子園に行っていない会津地区の学校を連れていきたいね」。小さな大投手は目を輝かせた。

  (小原栄二)

 ▼田村隆寿(たむら・たかとし) 1952(昭和27)年6月3日生まれ、福島県いわき市出身の66歳。当時のいわき市では珍しくなかった1年の中学浪人を経て磐城に入学。2年だった70年夏の甲子園には捕手として出場し、PL学園に延長11回の末に1−2で初戦敗退。秋から投手に転向し、翌71年夏の甲子園で準優勝。日大準硬式、ヨークベニマルでも投手としてプレー。監督としても3度、甲子園に出場した。

 ▼磐城 1896年に福島県尋常中学校磐城分校として開校。改称を重ね、学制改革により1948年から磐城高。開校時から一貫して男子校だったが51年に男女共学。7年で男子校に戻るも、2001年に再び女子を受け入れた。ラグビー部、サッカー部も全国大会に出場。詩人の草野心平も一時、在学していた。 おもなOBは木枯し紋次郎役で有名な俳優の中村敦夫、お笑いタレントのゴー☆ジャス。

【プラスワン】伝統校の誇りを胸に福島県高校野球界を引っ張る磐城OB

「桜会」として活動

 母校の磐城だけでなく、安積商の監督としても甲子園に出場した田村。安積商OBで元巨人、元DeNA監督の中畑清にとって、年齢は自身が1歳下だが「母校を甲子園に連れていってくれた」という“同期生”だ。

 高校時代、田村と中畑は微妙にすれ違った。1970年夏。まだ1県1代表ではなく、宮城と福島で代表の座を争っていた。2年の田村が正捕手だった磐城は、決勝で同じ福島県勢の須賀川を3−0で破り甲子園出場。このときの須賀川を、監督として率いたのが磐城OBの助川隆一郎。中畑の入学を熱望していたがかなわず、「中畑がいれば勝てた…」と漏らしたという。

 福島県の高校野球界を引っ張ってきたという自負を持つ磐城は、伝統校にふさわしく多くの指導者を生んだ。準優勝メンバーでは県高野連理事長も務めた宗像治が福島北、先崎史雄が日大東北を率いて聖地に戻った。現在、磐城を率いる木村保は田村の磐城監督時代の教え子で、最近は着実に力をつけている。磐城野球部OBの指導者でつくる「桜会」という集まりがあり、現在は監督だけで福島県内に10人以上が活動するほか、部長や顧問も多数。夏の大会前には集まって健闘を誓い合っている。

【三池工】「野球の鬼」原貢が涙した初出場初V

福岡・大牟田市中が祝福したパレード

 炭坑の町・福岡県大牟田市から1965年夏の第47回大会に初出場し、優勝した三池工。校長室に飾ってある原貢元監督の博多人形は穏やかな表情だが、グラウンドでは野球の鬼だった。銚子商(千葉)との決勝で先制打を放った「8番・捕手」の穴見寛(70)が振り返る。「ユニホームを着たら目の色が変わった。怖かった。プレーだけでなく、グラブを土の上に置いたりしただけでも怒られた」

 今では許されない鉄拳制裁も日常だった。その鬼が、福岡大会を制したときに泣いた。「原さんの涙を初めて見ました。甲子園でも優勝する力はなかったと思いますが、オレが連れていくチームはベスト8の力があると言われて、話術に乗せられました」と穴見。初戦で優勝候補の高松商(香川)を破り、勢いに乗った。バントはやらない攻撃野球。そもそも、バント練習をしない。準決勝でスクイズを失敗すると、サインを出した原が選手に謝ったほどだ。

 石炭産業が衰退の道を進み、大牟田市は労働争議で揺れ、63年には死者458人を出した三井三池三川炭鉱炭じん爆発事故もあった。そんな町を、野球部の活躍が明るくした。「いがみあっていた親族が三池工の応援でひとつになって仲直りした、と後に聞いたときにはうれしかった」と話すのは、二塁手だった瀬口健(70)。深紅の優勝旗を持ち帰ったパレードを町中が祝福した。

(左)三池工の校長室に飾られている原貢元監督の博多人形(右)オープンカーに乗り沿道を埋め尽くしたファンに迎えられた三池工の原貢監督(三池工高野球部提供)

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(次回は7月10日掲載)

 

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