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更新日:2012年12月26日

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三次市の紹介

広島県史跡 高杉城跡(毛利ゆかりの城)

高杉城跡

 高杉城は、備後二の宮として知波夜比古(ちはやひこ)を祀った宮でもあります。場所は、三次市の市街地から5kmのところにあり、この城は、 馬洗川と美波羅川流域一帯に勢力をもっていた和智氏の同族で江田氏の居城「旗返山城」(はたがえしやまじょう)の支城でもありました。
 出雲・尼子方勢力についていた城主祝氏は、1553年7月毛利方に攻め落とされ、この時毛利は、六百余の首を討首したといわれています。
 この戦いで神社本殿を焼失しますが、毛利元就は神の力を恐れ、本殿を再建しました。この時の毛利元就自筆の棟札が本殿に残っています。
 又、この戦で尼子方は、出雲地方の勢力の縮小となり、 戦の落武者によって始められたという「鵜飼」が夏の夜の風物詩として三次の観光となっています。

交通機関

中国自動車道
三次ICから車で約5分
JR三次駅から車で約10分

千人塚(毛利・尼子の古戦場)

千人塚

 戦国時代、大内・毛利に領土を蚕食されはじめた尼子勢は、尼子晴久の指揮のもと、将兵7千を率いて備後の布野へ進軍、大内陣営にあった三次比叡尾山城主(三次市畠敷町)三吉広隆を攻めようとしました。
 これをきいた毛利元就は、 福原貞俊と児玉就忠の両将に千余騎を率いて救援に赴かせ、そして1544(天文13)年7月28日、布野村下布野一帯で両軍は刃を交えました。
 この時、毛利軍は濃い霧に阻まれ二度にわたる 敗北を喫したため、三吉広隆は、翌日わずか五百の将兵で勝利に油断していた尼子軍を奇襲し撃退しました。
 天文年間には、毛利・尼子の攻防が久しく続きましたが、 古文書ではこの合戦を「府野くずれ」と記録されこれを契機に尼子軍の敗退が始まったとされています。
 「千人塚」は、合戦で討ち死にした両軍の勇士が埋葬されているといわれ、現在は布野福祉公園内の小高い丘にある史跡公園として、静かなたたずまいを見せています。

交通機関

中国自動車道「三次IC」から
国道54号線を北上、25分で現地

   毛利元就が活躍した時代、 吉舎の地を治めた和智一族は、広島県北一帯に勢力をもち、毛利元就の有力な協力者として広く活躍しました。 古くから伝わる吉舎町の文化の基は、その当時つくられたともいわれています。
 毛利元就と尼子経久が中国地方の覇権を巡る攻防の最中、 尼子勢が和智氏の居城南天山城を攻めた時、尼子の武将尼子貞久の乗った馬が三本の脚を負傷しながらも残った一本脚で、町内の敷地までたどり着きその場でついに力つき、 貞久ともどもついに落命したという悲話を伝える「敷地一本堂(しきぢいっぽんどう)」。
 元就の逆恨みによって抹殺されたといわれる「和智誠春(まさはる)の墓」など歴史とロマンのふるさと、人情あふれる住みやすい町です。

関連史跡等詳細情報

名称 分野
高杉城跡 たかすぎじょうあと  史跡・遺跡
熊野神社 くまのじんじゃ  神社・仏閣
比熊山 ひぐまやま  史跡・遺跡
岩屋寺 いわやじ  神社・仏閣
吉舎歴史民俗資料館 きされきしみんぞくしりょうかん  資料館