高校の文化祭でやった漫才がウケて大学でお笑いサークルに所属

――お笑いをやりたいと思ったきっかけは?

東ブクロ 大阪で生まれ育ったので、身近に吉本新喜劇やら漫才やらっていう文化がありましたからね。あと地元の高校にナイナイ(ナインティナイン)さんが行ってはって、よくラジオで地元の話をしてたんです。ああ、いいなあってそこらへんから意識しだしました。

――森田さんはちっちゃい頃からお笑いは好きだったんですか?

森田 そうですね。志村けんから入って、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)、『ごっつ(ダウンタウンのごっつええ感じ)』(フジテレビ系)なんかを熱心に見てました。

――高校時代、お笑い芸人になろうとは思わなかったんですか?

森田 小学生のときは思ってましたけど、だんだん大人になってそんなもんは、なられへんやろって思うじゃないですか。だから「何しよっかなー」っていう感じでしたね。

――学校で他の人より笑いにうるさいみたいな実感はありましたか?

森田 ありました。松本人志全盛期というか、ダウンタウンで育ってきてるんで、学生時代は「誰がおもろい」「誰がおもんない」ってとがった感じで見てました。だから、おもろい奴と遊びたいみたいなところはありましたね。

――東ブクロさんはいかがですか?

東ブクロ 中学・高校と僕ぐらいしかお笑い好きがいなかったんですよ。高校の文化祭で漫才をしたんですけど、友達に声をかけて、5人目ぐらいでやっとやってくれる奴が見つかって。頼み込んでOKをもらったんですけど、そいつも別にそんなキャラクターでもなかったんです。だからお笑いはずっとやりたかったけど、真面目な奴が多くて、お笑いの話をできる奴すらいなかったです。

森田 結局、偏差値が高いところやからな。

東ブクロ みんな音楽とかそっちの方に行くんですよね。僕は音楽を一切聴かずに、お笑いしか見てなかったんです。ただ、その文化祭でやった漫才はウケました。ネタはホンマに覚えてないですけど、学校のこととか、あとはアンパンマンがどうこう言うてた記憶があります。それで気持ちよくなって、そのまま大学行ってお笑いサークルに入ったんですよね。

――大学はどういう基準で選んだんですか?

東ブクロ 高校のときは一切勉強しなかったんで、どこも受からんって言われてたんですよ。関西だと「関関同立」「産近甲龍」って塾でもランク分けがあるんです。僕は産近甲龍コースすら危ないって言われてて、親には「一年浪人する」って言ってたんです。でも、とりあえず入試だけ受けたらええやん、ってことで、たまたま関関同立を4つぐらい受けたら、2つくらい受かって、ラッキーってことで同志社大学に行きました。

――大学に入る前からお笑いサークルについて調べていたんですか?

東ブクロ 入ってからでしたね。ネットで調べたら、まあまあ伝統あるとこがあるやんって。僕がいた時点で30〜40年続いていて、俳優の生瀬勝久さんもいらっしゃったんです。

――大学間でお笑いサークルの交流は活発でしたか?

東ブクロ 僕らの時代は閉鎖的な感じだったんで、早稲田の寄席演劇研究会と年2回ぐらい合同でやるぐらいで、あとはもう内々でした。同世代のやつに聞くと、大学お笑いサークル選手権みたいなものに出てたとかいうんですけど、僕らは自分らのとこだけでやってましたね。

――森田さんは高校卒業後は定職に就かなかったんですよね。

森田 バイトしてダラダラ過ごしてましたね。別に就職したいとかもなかったから、「バイトでええわ」って。まず俺は19歳で卒業してるんですけど、20歳までは「まあ、いけるか」って思うじゃないですか。20歳を超えたら、今度は「22歳までは行けるか」みたいな(笑)。それで22歳を超えたあたりから、ちょっと焦りだしましたね。そっから借金とか作るんで、それを返すためにバイトを掛け持ちしてました。

――長く続いたバイトは?

森田 パチンコ屋です。パチンコも好きだし、当時はパチンコが一番時給よかったし、居心地も良かったから、ずーっとやってました。

――東ブクロさんは大学でもお笑いに一番重点を置いていたんですか?

東ブクロ そうですね。そこでカズレーザー(メイプル超合金)とコンビを組んだりするんですけど、解散しちゃって。大学3年になった年に、同じ大学の同級生と松竹芸能に入ったんです。親には「たぶん忙しなるから1年休学させてくれ」と頼んだんですけど、一切仕事はなくて。解散したうえ、大学は5年行ってるんです。