伝言 大久野島1927年〜1947年
写真5 技能者養成所第一期生卒業式

背景の石碑には、軍人勅諭が刻み込まれていた。戦後、忠海冠崎公園に移された。

これは、陸軍技能者養成所の卒業式の写真です。この中に、私も加わっていますが、一九四〇年(昭和一五年)、満一四歳で毒ガス工場の養成工として就職しました。あの集合写真は一枚しかないんですが、私が卒業式のときに写してもらった写真です。第一期生だったんですが、六〇名ほどが養成工として入ってきて、その年から一九四五年(昭和二〇年)年まで毎年、四〇名くらいの養成工がつぎからつぎから来たわけなんです。

さて、私がこういう風に語りながら思うことがあります。満一四歳、高等小学校を卒業するとき、大久野島で働いた人は、一〇〇人以上いました。地元の人もいたにもかかわらず、大久野島でどのようなことが行われているのか、何を製造しているのかということは全くと言っていいほどわかりませんでした。それは大久野島で、秘密で毒ガスをつくっている、それから、秘密漏洩したとき罰則の規則が非常にきびしかったからでしょう。工員もずっと話すでもなく、日時が経過していったのです。私がここに就職するときに、学校に斡旋すると同時に説明しに来た人によると、「日本は、化学工場が進歩してきたんだ。だから、日本はすべてに、化学を利用するものが多くなってくる。従って今大久野島では。化学兵器をつくっておる。」ということなんです。私が、昨日集まった小学生のみなさんに「あんたら毒ガスというのと、化学兵器とどっちが恐ろしいと思うか。」と聞いてみました。すると「それは毒ガスの方が恐ろしいよ。」と言います。私らも全くそういう考えでした。大久野島で、毒ガスをつくりょうるんじゃいうたら、たぶん来てなかったと思います。けれども、大久野島は化学兵器をつくっている、日本は、化学工場が進歩している、その化学を応用した兵器をつくっている、いうところに魅力を感じました。さらに、この化学兵器は、皇軍兵器といわれるもんだ。(皇軍兵器については、巻末資料「陸軍造兵廠技能者養成所教育綱領」第五」参照)いわゆる天皇陛下の兵器なんだ。こういうことを言われたことが、非常に胸を打ちました、「やろうで。大久野島で」という気持ちが育っていったことは確かです。それがこの陸軍養成所の卒業式の写真の中でうかがえるわけです。