自由と天皇のあいだで

『憲法対論』の宮台真司


初出:『週刊読書人』、1月31日号

『憲法対論』(奥平康弘+宮台真司著、平凡社新書)について


本書は、ほぼ一世代離れた憲法学者と社会学者が、「時事的な諸問題の具体性と、憲法的な諸原則の抽象性を直行させる」べく行われた語り下ろしの対談である。情報管理行政の強化、ナショナリズム的な風潮の再浮上、9・11以降の安全保障論、メディア・リテラシーの必要性、皇室典範の改正問題など、ここ数年の日本社会を賑わせた政治的・社会的問題が俯瞰的に取り上げられる。通奏低音として流れているのは、リベラルな理念の擁護、「自由」の擁護だ。論壇の空転が叫ばれて久しいが、そのなかで本書は、確固たる視座を提供してくれる良書と言える。

とはいえ問題もないではない。実はこの本は、対論と呼ぶにはあまりに発言量がアンバランスな書物である。たとえば四七ページある第一章で、奥平氏はわずか二〇〇行弱(一二ページ相当)しか発言していない。本書の奥平氏は、憲法体験を語る最終章を除き、おおむね聴き役に回っている。したがって、書評としてはいささか不適切になるが、以下では、本書で明確になった宮台氏の立場に論点を絞り、検討を加えてみたい。

まず最初に確認したいのは、宮台氏がここ数年で活動の舞台を大きく変えているということである。彼について、援助交際やサブカルチャーなど、若者の風俗を中心に扱う社会学者という印象をもっている読者がいるとすれば、それはすでに過去のものだ。現在の宮台氏はむしろ、天皇論や国家論、教育論を扱う硬派の論客として、また、通信傍受法や個人情報保護法案、ポルノ規制強化などへの反対運動で活躍するアクティヴィストとして知られている。広範な話題が取り上げられている本書は、実は、その新たな立場を知るうえでも適切な書物である。

ではそれはどういうものだろうか。本書を一読すると、現在の宮台氏には二つの軸があることが分かる。ひとつは、日本国内の「近代化」「市民社会化」の必要性をあらためて訴える、近代主義者=リベラリストの軸である。宮台氏の考えでは、日本では(よく言われるように)市民社会の理念がいまだ根付いていない。ワールドカップで国旗を振って大騒ぎをしても、それは「ガス抜き」として機能するだけで、ナショナリズムにすら繋がらない。

このような状況認識のもとで、宮台氏は、昨今の風潮を安易にナショナリズムの台頭として捉える左翼の錯誤を指摘しつつ、同時にその風潮に便乗する右翼の愚かさも鋭く批判する。ナショナリズムが良いとか悪いとか、そんな本質論は論壇のお遊びにすぎない。いま具体的に問題となっているのは、官僚や政治家を含め、この国の市民が、自らの生活を支えるシステムにまったく関心を抱いていないように見えること、つまりは、日本人全体が「民度の低い」「田吾作」でしかなく、そのせいで制度全体がボロボロと崩壊し始めていることである。私たちはその崩壊を止めねばならない。それゆえ彼は、「民度」を上げるため市民派の啓蒙主義者として振る舞いつつも、現在のシステムを守るためエリート教育の必要性を主張する。そして、近代的な市民社会の育成に努めず、大衆を管理下に置こうとするメディア規制や道徳主義的政策に強く反対する。

以上の主張はきわめて明確である。またそれは、いまのように硬派の論客として登場するまえ、一九九〇年代半ばに援交少女やストリート系の少年やセックスワーカーたちを対象に行っていた活動とも整合性が取れている。書評者はこの立場を支持するし、同じように感じる読者は多いだろう。

しかし現在の宮台氏にはもうひとつの軸がある。それは、小室直樹と廣松渉の弟子を自認することで強調されるような天皇主義者=亜細亜主義者の軸である。この軸は数年前から部分的に示されていたが、本書ほど明確に言及されたものは、書籍としては初めてだろう。したがって、読者のなかには、天皇への「個人的尊崇」を口にする宮台氏の姿を見て戸惑うひとも多いかもしれない。しかもこれは単純な右傾化ではない。事実、彼は、本書の亜細亜主義とほぼ同じ主旨の講演を、昨年のブント主催の大会で行っている。天皇と亜細亜への回帰には、右とか左とかは関係ない。ではこの天皇主義=亜細亜主義の軸と、前述した近代主義者=リベラリストの軸はどのように交差しているのか。ここにこそ宮台氏を理解するうえで最大の躓きの石がある。

その繋がりは本書だけでは見えてこない。そこで参考になるのが、昨年末文庫で出版された評論集の『援交から天皇へ』である。この書物は実は、二〇〇〇年の単行本時には『援交から革命へ』と題されていた。宮台氏は一切説明を加えていないが、このタイトルの変更には深い意味があると考えるべきである。というのも、一九九〇年代後半の宮台氏の仕事において、「革命」という言葉は、きわめて大きな含意をもっていたからだ。当時の彼は、援交少女の「田吾作」的な生き方(お祭り体質)が性別や世代を越えて増殖し、戦後民主主義の諸制度を食いつぶしていくことを「まったり革命」と呼んでいた。それは田吾作社会の自壊現象であり、そのあとでこそ近代主義=リベラリズムが可能になるはずだった。

ところが昨年の宮台氏は、その「革命」を「天皇」に置き換えてしまった。これはもはや、彼が田吾作に何も期待していないことを意味する。田吾作はいくら増えても革命に繋がらない。そこで彼は、天皇制を、日本社会が必要とし続けた前近代的な動員装置と捉え返したうえで、その「田吾作による天皇利用」を停止すること、すなわち、田吾作が田吾作のまま生きていけるヌルい社会に終止符を打つことに戦略を切り替えた。宮台氏の天皇尊崇はそのための口実である。

彼自身は明言しないかもしれないが、宮台氏は、天皇制を終わらせ、天皇から国民を、また国民から天皇を解放し、日本という国にもういちど近代を再導入するためにこそ、天皇に個人的尊崇を抱く必要があると考えている。それは天皇主義であって天皇主義ではない。紙面の都合上説明することができないが、彼の亜細亜主義への接近も同じ構造を抱えている。宮台氏は、いま、天皇主義を内破するためにこそ天皇主義を徹底させ、亜細亜主義を内破するためにこそ亜細亜主義を徹底させるべきだと考える、きわめてアイロニカルな戦略を採り始めているのだ。その天皇主義は、確かにリベラリズムと繋がっているが、しかし捻れているのである。

宮台氏の立場には二つの軸がある。近代主義=リベラリストの軸と天皇主義=亜細亜主義の軸だ。それは左の軸と右の軸という対立ではない。それはむしろ、言語行為論でいう「コンスタティブ」と「パフォーマティブ」の、つまりはベタなリベラリズムとアイロニカルなリベラリズムの対立として捉えるべきだろう。援交少女とサブカルチャー批評に明け暮れた一九九〇年代が遠くなりつつあるいま、宮台氏は、ふたたび絶望的な希望を信じ続けるベタなリベラリストに戻るのか、希望あふれる絶望を語る/騙るアイロニストの道を邁進するのか、重要な岐路に立たされている。『憲法対論』の対話は、その動揺と困惑を、いままでになく克明に伝えている。

2003.4.13公開




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