会報 11号 大久野島 毒物製造處理の記録 その1
帝國人絹忠海作業所    
毒瓦斯製造施設處理ノ記録

目次

1 序       言

2 作業ノ経過並ニ概要

    附 賠償施設関係

3 作 業 ノ 組 織

4 関  係  書 類

   イ 毒瓦斯製造施設處理ニ關スル報告状

   ロ 作 業 指 令 書

   ハ 作 業 完 了 證 明 書

5  記  録  寫 眞     36葉

6  設    計   図

ここで紹介する文献「大久野島 毒物製造施設處理の記録(旧東京第二陸軍造兵廠忠海製造所) 帝國人絹忠海作業所」は、1946年11月21日から、1947年5月27日まで、毒物製造施設の処理を行った帝国人絹株式会社が、広島県に提出した報告書である。

この書類は、持出厳禁扱いで、広島県、原爆被爆対策課に保管されていたが、2002年、広島県立文書館に寄贈され、一般公開された。その内容は、「帝人の歩み 第五巻 灰燼P216〜P212」と重複する部分も多いが、報告書作成後、約60年経過し、印刷も不鮮明になっているため、毒ガス島歴史研究所の会員で、読み合わせ、不鮮明な部分を推測し、会報に掲載することにした。大久野島の戦後史の記録の一つとして活用してもらえれば、幸いである。

大久野島の毒ガス処理は、第一次作業、有毒兵器の処理作業と第二次作業、毒物製造施設の処理作業に分け、実施された。第一次作業では、まず、広島県内に保管されていた毒ガス弾を大久野島まで、運搬。次に、大久野島に貯蔵されていた毒ガスを抜き取り、きい剤ときい弾は、LST814、LST128、新屯丸に積み込み、高知沖で海洋投棄された。また、あか筒は、島内防空壕に埋設処理された。1946年5月8日から1946年11月30日まで行われた第一次作業の報告書は、英連邦占領軍(BCOF)によって書かれ、米公文書館とオーストラリア戦争記念館に保管されている。毒ガス兵器廃棄報告「BCOF、Occupation Zone Japan “ Disposal Report Chemical Munitions:Operation Lewisite”1946」。また、作業中の写真(1946.8.30撮影42枚 1946.10.3撮影36枚)忠海補給廠の写真(1946.10.3撮影3枚)は、オーストラリア戦争記念館のHPで公開されている。毒ガス島歴史研究所会報第6号にも、末国春夫さんの「大久野島の戦後処理の証言」がある。

第二次作業は、1946年11月21日から、1947年5月27日まで行われた。イペリット工室、ルイサイト工室内の製造装置内に残る毒物に蒸汽を吹き込み、大気中に放出し、工室内を火焔放射機で焼却、その後、毒ガス製造装置を解体、除毒後、大久野島周辺の水深15メートル以上の海に投棄した。また、工場地帯全域が焼却及び晒粉で除毒された。この作業の報告書は、英連邦占領軍のものはなく、ここで紹介した帝國人絹忠海作業所による報告書が唯一である。ただし、前記オーストラリア戦争記念館のHPに1947年3月20日、仏式イペリット工室内を火焔放射機で焼却する様子などの写真12枚がある。

会報に掲載したのは、この文献の中で、「1.序言 2.作業の経過並ニ概要 3.作業ノ組織」と、「5.記録写真」の一部である。記録写真は、既に公開されているものも多く、会報では未公開の写真を中心に掲載した。戦後、毒ガス兵器廃棄の写真が公開された経緯は、「これが毒ガス工場だ 広島県大久野島 当時の写真見つかる」(1971.3.28 中国新聞)と「悪夢まだ消えぬ 緑の島」(1972.5.31朝日新聞)に詳しい。当時、BCOFから、毒物製造施設処理の写真を譲り受けた埜口喜一さん(写真家・竹原市忠海町)が、それを焼き増し、「昭和の初めから大久野島で守衛として勤め終戦後、米軍管理下になってからも残務整理で勤務した」倉橋忠雄さん(竹原市福田町)に譲り、20数年保管。1971年、倉橋さんが、資料収集を呼びかけていた竹原市職労に寄付をきっかけに、明るみにでた。戦前の毒ガス工場時代の写真は数枚しかなく、戦後処理当時のルイサイト工室などの写真は、毒ガス製造の歴史を物語る証拠として、度々使用されている。「4.関係書類 イ毒瓦斯製造施設處理ニ関スル報告状 ロ 作業司令書 ハ 作業完了証明書」は英文で書かれている。イは、処理方針について書かれた文書で、BCOFの毒ガス兵器廃棄報告書の§3毒ガス工場の撤去準備に同一のものがある。ハは、この記録の中に含まれている。また、「6.設計図」は、きい一号乙化成機器配置平面図、きい二号化成機器配置平面図、きい一号甲化成機器配置平面図、きい一号蒸留装置平面図の4図である。