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元日本テレビ・プロデューサーに秘められた矜持(1/3) トヨタカップを呼んだ男たち 第2回 坂田信久
2004年12月03日
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元日本テレビ・プロデューサーであり、元東京ヴェルディ1969社長の坂田信久氏【 photo by 宇都宮徹壱 】 |
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●●「誰がトヨタカップを呼んだのか」――広瀬一郎氏へのインタビューを終えた私は、その疑問がますます膨らんでいくのを感じていた。 すでに、2002年ワールドカップ招致をめぐるストーリーは、書籍にもなり、テレビでもドラマ化され、多くの人々の知るところとなっている。だが、1981年のトヨタカップ開催(=インターコンチネンタル日本開催)に関する経緯については、驚くほどに資料が少ないのが実情で、皆無と言ってもよい。やはり当事者たちに話を聞く以外に、ほかに方法はなさそうである。そんなわけで、普段は着慣れないスーツで身を固めて、インターコンチネンタル日本開催にかかわった当事者たちを訪ね歩く日々がスタートした。 さて、今回ご登場いただくのは、元日本テレビ・プロデューサーの坂田信久氏である。もっとも、サッカーファンには「元東京ヴェルディ1969社長」とご紹介する方が、しっくりくるかもしれない。現在は、テレビ界やクラブ経営の経験を若い世代に伝えるべく、国士舘大学大学院で教鞭を執られている坂田氏だが、日本テレビ在職中は全国高校サッカー選手権やジャパンカップ(のちのキリンカップ)といった優良コンテンツを立ち上げ、それまでプロ野球一辺倒だった日本テレビを一躍「サッカーの日テレ」に押し上げた功労者でもある。そんな伝説的なキャリアゆえに、当初は「おっかない人かな」と勝手に想像して、おっかなびっくりインタビュー取材に臨んだのだが、実際にお会いしてみると実に礼儀正しい、穏やかな口調のジェントルマンであった。 言うまでもなく日本テレビは、第1回大会から一貫してトヨタカップを放映し続けてきた実績を持つ。そして坂田氏は、テレビの世界から大会の黎明期を見つめ、大会実施に向けて奮闘していた。だが、当時は「日本サッカー冬の時代」真っただ中。その中にあって、「世界クラブ一決定戦」放映のアイデアは、どのような経緯で生まれたのだろうか。さっそく、坂田氏に当時を回想していただこう●●
(取材:11月2日 インタビュアー:宇都宮徹壱)
■「第3国でだったらやれるんじゃないか」
――今日はよろしくお願いいたします。トヨタカップのお話を伺う前に、まずは日本テレビとサッカーとのかかわりについて、お聞かせいただきたいのですが
「きっかけは2つあったんです。1969年に『讀賣サッカークラブ』が、将来のプロ化を目指して設立されます。そして70年から、将来のプロに選手を供給することを目的に、日本テレビが全国高校サッカー選手権のテレビ事業を始めます。いずれも僕がかかわったんですが、日本サッカー協会、当時は日本蹴球協会だったんですが、その時の会長だった野津謙さんが、讀賣新聞社会長の正力松太郎(※1)さんに、こういうお願いしたわけですよ。『日本はメキシコ五輪で銅メダルを取った。今度はワールドカップだ。そのためにはリーグのプロ化が必要。そこでプロ野球の巨人軍を持っている、讀賣グループが先鞭をつけてほしい。5年後くらいには、実業団のチームもプロ化するから』と。確かに、こちらが協会にたきつけたところはあると思うんですが、でも間違いなく野津さんからの依頼があって、讀賣サッカークラブは誕生しているんです」
(※1)正力松太郎:元讀賣新聞社長、衆議院議員、初代プロ野球コミッショナー。1885年生まれ。警察官僚から転じて、読売新聞を買取り社長に就任。同社を朝日、毎日と並ぶ大新聞に育て上げ、戦後は日本初の民放テレビ局である日本テレビを設立。その間、讀賣巨人軍の前身である大日本東京野球倶楽部を設立、自らも柔道の段位を持つなど、スポーツへの造詣が深い経営者であった。69年に死去。享年84歳。
――そうだったんですか。あの讀賣クラブが、協会の要請から誕生したという話は、恥ずかしながら今日初めて知りました
「もうひとつ、こういう背景もありました。68年、メキシコ五輪の年に放送衛星が打ち上げられて、海外のビッグイベントが日本のテレビでも衛星中継されるようになったんです。で、80年くらいに、私の上司でもう亡くなられた後藤達彦(当時スポーツ教養局長)という方――この人はプロ野球中継を始めたり、ビートルズを呼んだり、つまりテレビ創世記の名プロデューサーなんですけど、その後藤さんが私に『おい、坂田。日本から世界に発信できるものを考えろ』と言われたのが、その頃なんですよ。
そこで、いろいろとリサーチしているうちに、当時讀賣新聞の運動部の記者だった牛木素吉郎さんから、インターコンチネンタルカップの話を聞いたんです。『この大会は、南米で審判が観客から拳銃で撃たれて、欧州のチームが南米には行きたがらなくなって中断している』――つまりサッカーってそれほどすごいものなんだよ、という話があったんですよ。79年くらいの話ですかね。 そんなわけで僕は、後藤さんに話をしました。日本から海外に発信できるものをいろいろ探していたんだけど、これはどうでしょう、と。当事国で試合をするから欧州のチームが行きたがらなくなって中断しているけれど、第3国でだったらやれるんじゃないか。これは本物の大会だから世界から注目されるんじゃないか、という話をしました」
■「これはどのくらい可能性があるんだ?」「可能性はありますよ」
――とはいえ、当時はまだ日本サッカーの「冬の時代」でしたよね?
「讀賣クラブの話に戻りますけど、日本のサッカーはその後、なかなかプロ化しなかったんですね。もちろん、サッカーが世界中の人々をとりこにすることは知っていたわけですが、やっぱり日本のサッカーのレベルは低い。そのころは、すでに当時の東京12チャンネル(現テレビ東京)で『ダイヤモンドサッカー』(※2)が始まっていたんですが、やっぱり本物が見られるようにしたいということで、高校選手権でもお世話になっていた電通にお願いして『ジャパンカップ』を始めたんです。 この大会がキリンカップの前身になるわけですが、当時の日本サッカー協会は海外との交渉能力がなくて、結果として日本が遠征などでお世話になったアジアの国々に恩返しするような形でしかチームを呼べなかった。『これが世界のサッカー!』というような形にはならなかったんです。そういった背景が、当時はありました」
(※2)ダイヤモンドサッカー:1968年、当時の東京12チャンネルで「三菱ダイヤモンドサッカー」として放映開始。以来20年間、イングランド、ドイツをはじめ世界レベルのサッカーを伝えた。当時のサッカー少年のバイブル的な番組。
――そこからいよいよトヨタカップに話が進むわけですね
「そうです。そこで後藤さんが親しくしていたジャック・K坂崎さんに『これはどのくらい可能性があるんだ?』と、可能性を計るように指示したんです。そのころ、ジャックさんはウエスト・ナリー(※3)にいて、当時のFIFA(国際サッカー連盟)のマーケティングはウエスト・ナリー社が委託されていましたからね。そこで彼が探ってくれました。僕が後藤さんからジャックさんを紹介されたのも、その時期です。で、彼はFIFAやUEFA(欧州サッカー連盟)やCONMEBOL(南米サッカー連盟)にリサーチをかけてくれて、『可能性はありますよ』と。当然、バジェットは大きいけど日本でならできますよ、という報告がありました」
(※3)ウエスト・ナリー:英国国営放送BBCのキャスターであったピーター・ウエストと、広告会社に勤務していたパトリック・ナリ−が1972年に創設したスポーツ・マーケティングの草分け的存在。78年のワールドカップで、看板広告ビジネスのフォーマットを確立するが、のちにこれらの権利をISLに奪われることとなる。
――この時点では、まだトヨタの名前はないんですね?
「それはね、金額がやはり大きいということで、代理店は電通しかないだろうということになって、日本テレビから国内放映のスポンサーとイベントの冠スポンサーを発注しました。ですからトヨタを見つけてきたのが電通で、発注したのが日本テレビです。当時の日本テレビと電通とは、そういう関係だったんですが、FIFAのマーケティングがウエスト・ナリーからISL(※4)に移って、電通がISLの経営に参画してからは、トヨタカップは電通のイベントに変わっていきました」
(※4)ISL:「インターナショナル・スポーツ・アンド・レジャー」の略。1982年、アディダス社と電通が共同出資して設立。86年ワールドカップから、あらゆるFIFAの大会のマーケティング権を掌握するが、2001年に経営破たん。
<続く>
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