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最終更新日:2006年10月2日


●夏目漱石の東京を歩く -2-
  初版2006年9月5日
  二版2006年10月2日 
<V01L01> 錦華小学校の場所を修正

 「夏目漱石散歩」”東京を歩く”の掲載二回目です。前回は牛込馬場下の生誕から内藤新宿までを歩きましたが、今回は漱石の小学校時代を中心に歩いてみます。



<漱石2時間ウォーキング>
 東京で夏目漱石関連を訪ねようとしたら、この本が一番良いとおもわれます。東京の夏目漱石を全て網羅しているわけではありませんが結構歩けますし、解説が丁寧です。「漱石は歩くことが好きだった。だから漱石は好んで、我が作中人物をやたらと歩かせた。勿論、今と比べたら圧倒的に交通手段が少なかった当時(誰ひとりマイカーなどというものは持っていなかった)、歩くことは移動のための当たり前な手段であった。とはいえ、それをやむを得ざる義務 ととるか、そこに自から進んでなにがしかの快楽を見出すか、その差は大きい。漱石という人は明らかに後者の方だったのではないか。……」。この本の書き出しです。漱石の本を読むとよく地名が出てきます。身近に感じますね。「三四郎」等は私は大好きです。

左上の写真が中央公論社「漱石2時間ウォーキング」です。東京だけではなくて松山、熊本も書かれています。非常に良い本なのですが、ただ正確性が少し?です。地図も大雑把でその場所を特定することは殆ど不可能です。大体の場所は分かるのですが地図が大雑把すぎます。よく分かっている人がこの本を読むとよく分かるのですが、初めての方は殆ど場所が分かりません。初心者の散歩の地図にはなり得ません。私の”東京紅団”を一緒に見ていただくと手前味噌ですがよく分かるとおもいます。物書きの地図はどうしてこんなに分かりにくいのでしょうか!

【夏目漱石(なつめそうせき)】
1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生れる。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学した。留学中は極度の神経症に悩まされたという。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、「吾輩は猫である」を発表し大評判となる。翌年には「坊っちゃん」「草枕」など次々と話題作を発表。'07年、東大を辞し、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。(新潮文庫参照)


夏目漱石の東京年表(漱石全集より)

和 暦

西暦

年  表

年齢

夏目漱石の足跡

慶応3年
1867

大政奉還
坂本竜馬死去

0
2月 父夏目小兵衛直克、母千枝の五男として牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町1)で出生
慶応4年
1868
鳥羽伏見の戦い
江戸城無血開城
1
11月頃 内藤新宿の名主、塩原昌之助の養子となり内藤新宿北町裏16番地に住む
明治2年
1869
版籍奉還
2
3月 塩原昌之助と共に浅草三間町に転居
明治5年
1872
廃藩置県
5
4月 内藤新宿の妓楼伊豆橋に転居
明治6年
1873
ウィーン万国博覧会開催
5
3月 浅草諏訪町四番地に転居
明治7年
1874
大阪-神戸間に鉄道が開通
7
12月 浅草寿町十番地に転居
12月 浅草寿町戸田小学校下等小学校に入学
明治9年
1876
上野精養軒開業
9
塩原夫婦が離婚したため夏目家に引き取られる
市ケ谷柳町の市ケ谷小学校に転校
明治11年
1878

11
神田猿楽町の錦華学校に転校
明治12年
1879

12
3月 東京府第一中学校に入学
明治14年
1881

14
春 二松学舎に転校
夏目漱石の東京地図 -1-

浅草諏訪町四番地(台東区駒形一丁目)>
 養子先の塩原昌之助が第5大区5小区(浅草諏訪町四番地)の戸長になったため再び浅草に転居します。「…その時夫婦は変な宅にいた。門口から右へ折れると、他の塀際伝いに石段を三つほど上らなければならなかった。そこからは幅三尺ばかりの露地で、抜けると広くて賑《にぎ》やかな通りへ出た。左は廊下を曲って、今度は反対に二、三段下りる順になっていた。すると其所に長方形の広間があった。広間に沿うた土間《どま》も長方形であった。土間から表へ出ると、大きな河が見えた。その上を白帆を懸けた船が何艘となく往ったり来たりした。河岸には柵を結った中へ薪が一杯積んであった。柵と柵の間にある空地は、だらだら下りに水際まで続いた。石垣の隙間からは弁慶蟹がよく鋏を出した…」。裏が隅田川なので船が見えています。

左上の写真の正面辺りが浅草諏訪町四番地です。左端の交差点から少し右側です。当時の番地が入った地図があり、道も広くなった以外は大きくは変わっていないので正確な場所が分かります。

浅草寿町戸田小学校
 台東区の図書館で夏目漱石が通った戸田小学校について調べましたら「精華 創立120周年記念誌」の本の中に夏目漱石の名がありました。「…精華小学校は、明治七年十二月七日に浅草寿町七番地に創設されました。校舎は、木造の平屋というたてものと、町の人たちがきふしたお金でたてた二階だてのたてものをあわせて使いました。このときの校名は「精華」といわず「第五中学区八番小学戸田校」といいました。…… 開校の時のせいと数は、男四十八人、女八人の五十六人でした。その中に夏目漱石もいたそうです。…」。小学校生徒向けなので仮名が多いですね。精華小学校の記念誌です。記念誌に地図も掲載されていましたので戸田小学校の場所も直ぐに分かりました(上記には浅草寿町七番地と書かれているが本の地図には十二番地の所を示しており、実際は十一番地or十二番地らいし)。夏目漱石の「道草」にも戸田小学校について書かれていました。「…その小学校の名は時によって変っていた。一番古いものには第一大学区第五中学区第八番小学などという朱印が押してあった。…」。上記と同じですから戸田小学校のことですね。

右の写真の左側、浅草消防署交差点角に戸田小学校がありました。浅草消防署の真ん前です。その後、精華小学校は、蔵前四丁目に移りましたが平成15年4月に、精華・小島・済美小の三校が統合し精華小学校跡地に「蔵前小学校」が誕生しています。蔵前小学校前に精華公園があります。名前が残っていますね。

<浅草寿町、諏訪町地図(明治30年)>
 明治30年の東京市浅草区の地図の一部です。戸田小学校の場所を赤く囲っています。囲まれている部分は浅草区寿町11番地+12番地です。12番地が角地になります。塩原家が明治7年に住んでいたのが寿町十番地ですので、戸田小学校の左隣となるわけです。浅草諏訪町四番地も赤で囲っておきます。

左の写真が明治30年2月の東京郵便電信局地図(東京市浅草区)です。15区あり番地まで全て入っていますので便利な地図です。ただ当時の15区しかありませんので、例えば現在の新宿区は当時はありませんでした。左の写真をクリックすると拡大して見やすくなります(浅草三間町の場所も分かります)

市谷小学校>
 明治9年、塩原家の両親が離婚したため牛込馬場下の夏目家に引き取られます。当然浅草の戸田小学校から市谷柳町の第一大学区第三中学区第四番小学(市谷小学校)に転校します。牛込柳町交差点付近の地名は”市ヶ谷”ではなくて”市谷”なのですね。勉強しました。

右の写真は現在の新宿区市谷小学校です。当時と場所は変わっていないようです。夏目家からは夏目坂を登り牛込柳町交差点から東に少し歩けば市谷小学校です。約1.1Kmの道のりです。


神田猿楽町錦華学校> 2006年10月2日場所を修正
 夏目漱石最後の小学校は第一大学区第四中学第二番小学(神田猿楽町にある錦華学校)です。神田猿楽町の錦華学校に入学した理由は一ッ橋にあった府立一中に進学するためだったようです。現在の越境入学ですね。10月には卒業しています。僅か6ヶ月でした。

左の写真はお茶の水小学校の夏目漱石記念碑です。「吾輩は猫である。名前はまだ無い。 明治十一年 夏目漱石 錦華に学ぶ」、と書かれています。現在、錦華小学校は近隣の小学校と合併してお茶の水小学校となっています。ただ、夏目漱石が通った錦華学校は現在のお茶の水小学校の場所ではありませんでした。約100m程離れた神田神保町一丁目30のホテルヴィラホンテーヌの所にありました。

夏目漱石の東京地図 -2-

【参考文献】
・夏目漱石全集:夏目漱石、岩波書店
・硝子戸の中:夏目漱石 新潮文庫
・漱石の思い出:夏目鏡子、文春文庫
・夏目漱石 青春の旅:半藤一利、文春文庫ビジュアル版
・漱石2時間ウォーキング:井上明久、中央公論社

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