世界的に最も権威のある音楽文献として知られている「グローヴ・オペラ辞典」。その中で日本人としてただ一人、
三浦環の名前が掲載されています。それほどまでに、
三浦環は世界の音楽史上において著名なオペラ歌手であるといえます。
三浦環のオペラ人生は約40年ですが、その半数は欧米で活躍し、世界各都市で公演を行っていました。作曲家
プッチーニから「世界最高のマダム・バタフライのプリマドンナ」と絶賛され、記録に残っているだけでも「マダム・バタフライ」のプリマドンナとして2,000回も舞台に立ち、歌い続けました。
1884年、東京府京橋区(現在の丸の内)生まれ。幼いころから日本舞踊や長唄を習い非凡な才能を発揮。東京女学館時代の音楽教師高木チカのすすめで上野の東京音楽大学(現在の東京芸術大学)に入学し、ピアノを滝廉太郎に、声楽をユンケルに習いました。在学中には日本で最初のオペラ公演として知られているグルックの「オルフェオ」で主役のエウリディーチェを演じています。また、研究科時代には、授業補助として声楽を担当しますが、当時の教え子にはのちに童謡「赤とんぼ」などの作曲で知られる山田耕作がいました。卒業後は、新設された帝国劇場歌劇部で声楽を指導しながら舞台にも立ち、オペラ「カバレリア・ルスティカーナ」を原語で上演したり、日本人で最初の洋楽レコードを出すなど新しい試みにも次々と挑戦したエピソードが残っています。
「ロイヤル・オペラ・ハウスで『マダム・バタフライ』を上演するのですが、
蝶々さんで出演してもらえませんか。」三浦環が夫の留学先であるロンドンで下宿をしていたとき、一人の男が訪ねてきました。ロシア人のテノール歌手兼マネージャーのウラジミール・ロージンです。当時、第一次世界大戦の影響でパリでのオペラ・シリーズが開催中止となり、ロンドンのオペラ・シリーズに参加して「マダム・バタフライ」を公演することになり、前年に
三浦環の日本人歌手として初めてのデビューが各国の新聞特派員によって世界的に報道されたこともありロージンが出演依頼に来たのでした。
日本人のオペラ歌手がロンドンの名門歌劇場「ロイヤル・オペラ・ハウス」で日本を題材にした公演を行うとあって話題をあつめ、1915年5月、イギリス国王ジョージ5世も臨席するなか、三浦環の清澄な声と変化する蝶々さん性格を見事に表現して、最大級の拍手で大成功を収めます。まもなくアメリカに渡り、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場に招かれ、世界的テノール歌手エンリコ・カルーソと「マダム・バタフライ」に共演しました。