キリスト者の祈りと坐禅 |
全体テーマは「祈りと瞑想」であり、今与えられている課題は、それを具体化・特殊化した「キリスト者の祈りと坐禅」である。「祈り」が「キリスト者の祈り」に、「瞑想」が「坐禅」に対応していると見ることができる。前者の「祈り」は、もちろんキリスト教に限られることはなく、いずれの宗教でも広い意味での祈りということは存在し不可欠なものである1。
後者の、坐禅が瞑想に対応させられることには、特に禅の修行者の側からは抵抗感がないでもない。瞑想の語は、むしろ真言宗などの——想像力とイメージの力を用いた——密教系仏教の修行のほうで肯定的に受け止められるのではないか。それに対して禅の道場では、坐禅は瞑想ではないと説明されることもままあるかと思う。その場合には瞑想は、はっきり定義付けられているわけではないが、大体において、想像力とイメージの駆使ないしは推理能力の使用によって、特定の主題・対象について深く省察することくらいに思い浮かべられているのではないだろうか。確かに、坐禅は何かの対象についてあれこれと思いをめぐらし、想像・省察することではないから、その意味では瞑想ではない。しかし、瞑想も進んでくれば、想像力やイメージに頼らず、対象的に省察することもしない、より高次の段階に入る場合があり、この段階こそ瞑想の本質と醍醐味であるとすれば、坐禅も瞑想の一種ということになるだろう。それどころかむしろ、坐禅は典型的な瞑想だという位置付けをうることになるかもしれない。学問的には、坐禅は「非対象的瞑想」(ungegenständliche Meditation)の一範型であると定義されてよいかと思う2。
また、これと事情が似ているかもしれないが、浄土真宗の教義においては、念仏は祈禱・祈願としての祈りではないとされる。確かにそういわれるところには、念仏の宗教的行としての深い意味がある。現代でも、真宗の学僧が念仏は祈りであると公言すると事件になるそうである。しかしこれも、純粋に学問的には、念仏は広い意味での祈りの概念に属するといってもよいのではないだろうか。こうしたことについては、このあとこの方面でご造詣の深い龍谷大学の藤能成(ふじよしなり)先生のほうからお話が伺えるかと思う。
さて、「キリスト者の祈り」については、坐禅と比較考察が可能であるものとして、今回はカトリックの観想修道会3であるカルメル会における祈りを取り上げようかと思う。
実は本課題を頂戴してから、私はプロテスタント系の祈りの本から目を通し始めた。それらは、フォーサイス、ハレスビー、加藤常昭、長崎巍(たかし)、である4。長崎の『祈り——その神学と実際』を最初に読んだので、そこから多くを学んだ。どの書も世俗性と直面しながら祈りを真摯に扱っており、とても立派なものだと感心したが、しかし、坐禅という修行の実態に直接触れてくるような祈りの記述には、残念ながらあまりお目にかからなかった。もちろん概括的には論じられてくるのだが、坐禅という行の実際の内側にまで食い入ってくるような祈りの分析と描写には巡り合わなかったのである。その点、カトリック観想修道会の祈りには、坐禅と同様の事態が問題とされているところがあり、坐禅と重なり、比肩するところが見られる。長崎は、祈りを退避的側面と派遣的側面に分けるが5、観想修道会の祈りは主として祈りの退避的側面に当たるといえる。
カトリック観想修道会の祈りに、仏教において育まれた坐禅行と比較可能な内実が示されるのは、両者ともに世俗を離れた僧院での修行が土台となっているからであろう。それに対して、奥村一郎によると、岸本英夫は、東洋の宗教、殊に仏教において修行が発達したのに対し、キリスト教、特にプロテスタントにおいては修行が皆無に近いといっているそうである。
いわゆる神の恩恵を中心に生きる信仰には、自己形成の努力は評価されないということである。この岸本教授の結論と論拠には全面的には賛成しかねるが、かっての「信仰と業(わざ)」というカトリックとプロテスタントの論争の焦点を想起させてくれるものがある。律法や業によるのではなく、信仰によって義とされるというパウロ神学と、行いの伴わない信仰は死んでいるというヤコブのことばとが対立させられて種々の論議を生んだのは、すでにアウグスティヌスにもさかのぼる6。
業(わざ)よりも信仰の立場に立つプロテスタントの祈りが、坐禅のような修行形態からは遠くなり、それだけ多く派遣面に出ていくということは、容易に理解されるところである。しかし最近では、ヨーロッパのプロテスタントの牧師さんでも、坐禅を行ずる方が増えてきたと聞いている。日本のプロテスタントの方々は、祈りと坐禅についてどう見ていらっしゃられるのか、この後ご発言下さる、同志社大学の小原克博先生から何か伺えるかとお待ちしている。
さて、キリスト者の祈りには色々な分類が可能であろうが、口禱と念禱という分け方がある。口禱は言葉による祈りであり、念禱(内的な祈り)は心の中で行う祈りである7。ただし、口禱と念禱は矛盾しない。あとで紹介するアビラのテレサは、
唱えていることば自体よりも、神とお話ししているのだという事実のほうに、もっと注意が集中するならば、その場合、私は念禱と口禱とをあわせているのです8。
と述べ、修道女たちに
娘たちよ、私は念禱と口禱とを合わせるようにと、思いだすたびにお勧めしましょう9。
と訓戒している。心のこもった口禱は、念禱になるのである。心のこもらない口禱は真の祈りではない。以下、念禱ということでは、何か特殊な祈り方が意味されているのではなく、キリスト者の心の祈りがいわれているのだということに留意されたい。
「念禱」は、ラテン語のoratio mentisのカトリック教会における訳語である。プロテスタント教会では、oratio mentisは「瞑想」と訳されるそうである。通常一般的には「瞑想」は、meditatioの訳語と考えられているが、日本のキリスト教会では、meditatioは「黙想」と訳される。そして、「念禱」には、この「黙想」と、その次の段階の「観想」(contemplatio)が含まれるとされている10。
歴史的には、例えば中世のサン・ヴィクトル派では、祈りの修練は(一)cogitatio、(二)meditatio、(三)contemplatioの三段階から考えられ、近世のイグナティウス・デ・ロヨラの「霊操」では、(一)consideratio、(二)meditatio、(三)contemplatioの三つの分類が行われてきた11。念禱が黙想と観想から成っているというのは、このようなキリスト教の祈りの修練の伝統から纏められてきたことと見ることができる。
そこでここでは、キリスト教の念禱を坐禅行との比較において究明することにするが、そのプロトタイプとして観想修道会の一つである跣足カルメル会の創立者、アビラのテレサ12(イエズスの聖テレジア、一五一五—八二)の「念禱のテレジア的方法」といわれるものを取り上げてみたい。私共は一般に、キリスト者がどのように祈っているのか具体的に知ることが少ないので、いささか詳細に紹介することになると思うが、どうか予めお許しをお願いしたい。
欧州のキリスト教会では、現代でも祈りの会や黙想会(メディテーションの会)が、教会施設、「教養の家」、霊的センターなどで盛んに開催されており、最近の日本の坐禅の方法の導入もその延長線上で行われているようである。黙想の手引書がドイツ語圏に限っても毎年何冊も刊行・再刊されている。中でもテレジア的念禱の指導書は多い13。
しかしここではまず、ガブリエルの黙想集『神との親しさ』中の「祈りと対神徳」におけるテレジア的念禱を紹介することにしたい14。
なお、坐禅では身体の姿勢が重視されるのに対し、キリスト教の祈りではむしろ精神性が中心となる、という目立った相違があるが、本発表では論じない15。
念禱の、準備、読書、黙想、対話の四つの部分の内、ガブリエルによれば、「対話」こそが念禱の核心、中心をなすものである16。アビラのテレサは、
念禱とは(…)自分が神から愛されていることを知りつつ、その神と、ただふたりきりだけでたびたび語り合う、友情の親密な交換にほかなりません17。
と述べている18。
ただし、神との親密な語らいといっても、「ことばなき祈り」として沈黙の語らいになってもよいのである。先のテレサの念禱の定義の箇所の新しいドイツ語訳では、「友のもとに滞在すること」と訳され、「話す」という側面が後退している。そのほうが原文に忠実らしい19。「互いに愛しあっているものの親しい心の交わり」としての「心の祈り」は、しまいには「ことばなき祈り」となる。それは、十字架のヨハネ(一五四二—九一)やアビラのテレサが、「単純な愛の眼差し」とか「静穏の祈り」と呼んだものである20。
テレジア的念禱の最初の準備として、まず神のみまえに出るということが行われる21。次に主のみまえで黙想の要点を読む。テレサは、心の絶え間ない動揺や雑念に苦しむ者でも、本の助けを借りて効果的に念禱の修行に励むことができると強調し22、
本のおかげで、わたしは散り乱れた考えを引きもどし、よろこんで念禱にひたることができました。たびたび、本を開くだけでもう十分で、主がわたしに与えられたお恵みにしたがって、ときとしては少し読み、ほかのときには、多く読みました23。
と述懐している24。
坐禅の修行の場合でも、坐禅への動機付けとして、禅についての書物を読むということは、実際上よく行われている。白隠慧鶴(一六八五—一七六八)も発奮させられた『禅関策進』なども、動機付けとなる禅書の好例であろう。『四部録』という禅の基本書中の『十牛図』においても、最初の発心の「尋牛」のあと、二番目に「見跡」といって経典の読書が置かれている。しかし、いったん坐禅の行に入ったなら、読んだ書物の内容についてあれこれと思い返すということはしない。
さて、こうして読書からの自然な移行として、
読んだことがらについて、穏やかに、優しく考える。——自分ひとりで考えるようにではなく、むしろ、自分がそのみ前にいる主とお話しするかのように。こうして、神と語り、神とともに黙想の主題を展開させる25。
という仕方で黙想が行われる。黙想においては、ある一定の主題について対象的に思惟し、推理・推察する。しかし、黙想に際して注意すべきことは、推理・推察よりも愛が支配すべきであるということである。念禱の本質が、神との親密な交わりにあるからである。それ故、すでにここには一部、自他をはっきり分けない非対象的な祈りの要素が入ってきているといえる。ガブリエルは、
わたしたちは、だれかを愛するとき、たぶん、わたしたちよりもっと詳しく、ただし愛なしにその人を知ろうと努める者よりも、ずっとよく、もっと容易に、彼を知ることができるものである26。
と述べ、黙想の際に愛をこめることの重要性を説いている。アビラのテレサも、
多く考えることではなく、多く愛することが大切です27。
と宣言している。愛の親密さによって人は神に触れることができるのであって、自他の区別と対象化を前提する推理・推察によっては神と親密にはなりえない。
黙想は自然に対話へと移っていく。読書も黙想も中止して、神とただひとり向かい合って語るようになる。ただ心が発露していくままの自然で自由な、個人的で親密な神との対話になる。具体的にどのようなものであるかというと、
時として、人は自分に対する神の愛が十分心にしみこむやいなや、感謝の気持や、愛には愛をもってこたえたい望みを神に表明したくなり、自然に、主との親密な会話が始まる。あふれるばかりの感謝、もっと寛大に自分をささげたい望みなどを言い表わし、それまでそうしなかったことを、おわびする。それから、実際的な決心にうつり、その決心を真に守ることができるように神のおん助けを願う28。
という具合に、個々別様に行われる。
キリスト者の神への祈りに不案内な人々は、この対話は実は一人語りであり、対話の相手は架空の想像物にすぎないのではないかと、いぶかしく思うかもしれない。しかし、ガブリエルはいう。
これは真の「対話」であるということができる。なぜなら、語るのは魂だけではなく、神も、もちろん、ことばによってではないが、愛と光の恵みを与えることによって、しばしばお答えになるからである29。
それ故、
多弁に陥らないように注意し、たびたび自分の話を中止して、神の答えにほかならない恩恵の動きを感知するために、心の耳を傾けるのはよいことである30。
神は、人が心を空にすることによって、初めて人の心に入ってくることができる。
ここでは明らかに、対話の相手である神の自己存在を示すことが、人の想像力とイメージ力の力場でなされている。従って、それは秘めやかなものである。対話の相手は現実に存在しているのだが、超越者であるために、通常の客観的認識能力では把捉されることができない。そこでこの祈りの段階では、想像力とイメージの力に頼ることによって、神との非対象的な接触が試みられているのである。
第二の黙想と第三の対話では、想像力が駆使されるのであると思われる31。そして、そうした想像力の駆使では行き詰まるのが、次の第四の観想への移りゆきになるのであろう。黙想と対話の終わりを告げる無味乾燥とは、想像力の枯渇と考えられる。それに対して、坐禅においては初めから想像力の使用が抑制される。キリスト教神秘主義の祈りの修練では、逆にかなりの段階まで想像力の使用が推奨される(その意味では、仏教中の密教の修行と近いところがあるのかもしれない)。この点が、修練の観点からみた、禅修行とキリスト教神秘主義の念禱の修練との間の大きな違いであると思われる。現代ヨーロッパの観想修道会において坐禅の方法が導入されたというのも、想像力を駆使する段階を切り詰めたほうが観想の段階に移行するのに有効であることに、キリスト教の修道者たちが気づいたことによるのではないか。
このようにして黙想と対話は、いつしか観想へと移り行く。
いつもことばを用いる必要があると思ってはならない。多くの場合、人は、静かに主を見つめ、内心の師である主のみ声に聞きいり、沈黙のうちに主を愛するために、黙しているほうを好む32。
今や霊魂は、推理やことばを用いることをやめ、沈黙のうちに愛をこめて神のほうをながめている。こうしてこの対話は、沈黙の語らい、観想的な語らいとなる。この愛にみちたまなざしは、霊魂を神との親密な触れ合い、神との真の友情の交わりのうちに保つ33。
もちろん、人はいつも沈黙の語らいのうちにとどまっていることはできない。観想に慣れていない間は、省察や言葉での表現に戻ることが、ぼんやりや気散じを防ぐためにも必要となるだろう。しかし、主のもとに沈黙のうちに憩うほうがずっとためになるのだ、とガブリエルは力説する34。
もっとも実際には、黙想と対話から観想へそうスムーズに移行するわけではない。黙想・対話と観想の間には、念禱時間中の退屈と無味乾燥が立ちはだかっており、人はこのために多大の苦しみと試練を受け、意志的努力をしなければならない。
念禱中無味乾燥になる原因と理由は、大別して三つに分かれる。
第一は当人の不忠実であって、要するにサボッてしまうのである。これに対する唯一の薬は最初の熱心に戻ることである35。
第二の原因は、肉体的、精神的なものである。身体の不調、不快、疲労、心配事の苦しみ、あるいは過労による抑鬱などがこれに当たる36。もはや念禱に対して、なんの慰めも、なんの魅力も感じない。このような場合には意志の力によって、義務として祈りに励まなければならない37。
霊的生活における進歩は、感じる慰めによって計ることはできない。なぜなら、真の信心とは、神への奉仕にあたる意志のすみやかさにあるのであって、慰めはぜんぜん必要でないからである38。
坐禅行の場合も事情は全く同じであって、このような場合には、さっと意志の力によって坐禅に取り組むのである。
第三に、神からくる無味乾燥がある。原因は神である。別次元が呼んでいるのである。これは最も徹底した無味乾燥の状態である39。ガブリエルはこれを次のように描写している。
人は、想像力の助けを借りて念禱をすることも、以前のように、こころよい愛を感じながらその修行に励むこともできなくなる。以前には、黙想や、神との愛情にみちた語らいがやさしくでき、そこに魅力を感じていたのに、今ではもう、何もできない。二つの考えを結び合わせることも不可能である。前には、あれほど心にひびいた考えや、本で読んだ事がらも、今ではなんの感じも与えない。心は意志のようにかたく冷たいままである。忠実に抑制に努め、惜しみない生きかたをしようとして自己を警戒してみても、あるいはまた、念禱の準備をいっそう真剣にし、神の助けを熱心に嘆願してみても、心から一滴の信心の気持さえ引き出すことはできない40。
こうした神から見捨てられた状態、徹底した無味乾燥は修練の道にとって本質的なものである。それまで使用していた想像力が枯渇し、想像力とイメージ力ではどうにもならないことが悟られる。アビラのテレサは『霊魂の城』において、「第七の住居」と呼んでいる最も高い神との一致の一歩手前における、深刻な試練について次のように語っている41。
そのとき自分に感ぜられることは、今まで一度も神について考えたことがなく、また神について思い出すこともできず、人が神について話す時にも、何か遠い人について耳にするように何ひとつピンとこなくなってしまうようです。……主はこのように悪魔の誘惑にまかせ、ついには神ご自身からも棄てられたと思い込ませるまでにされます。本当に、その時の苦しみは地獄としかいいようがありません42。
修禅者(しゅぜんしゃ)も、決定的な時節において、一切の岸辺から離れた、寄る辺なき空漠の暗黒境に陥り、そこで堪え忍ばなければならない。「黒漫漫地43」という。そこで何か薄明かりに逢着したというときには、指導する師は一層つらく彼に当たり、決して容赦しないであろう44。
さてしかし、この種の無味乾燥は実は神の大きな恵みなのであって、浄化と念禱の道におけるさらなる前進を内包している45。
祈りのうちに非常な慰めを覚えていたときには、ひとは自分でもそれと気づかずに、こうした感覚的な慰めに、いくらか執着していた。それで、念禱を愛し求めていたのも、純粋に神のためだけでなく、いくらか自分のためでもあった。(…)今は、いっさいの慰めを奪われてしまったので、以後は、ただ主を喜ばせるためにだけ念禱することを覚えるであろう46。
神は人の心を無味乾燥の状態に入れることによって対象的な黙想を不可能にし、別の道から神に行くように強いる。十字架のヨハネによれば、この別の道は観想の初歩の道である47。
禅の修行においては、中国臨済宗の看話禅の代表者である大慧宗杲(一〇八九—一一六三)が修行者に、
滋味没き處に向って、試みに意を着けて看るべし。(…)理路・義路に心意識の都(すべ)て行かざること土木瓦石(がせき)の如くに相似たることを覚得する時、空に落つることを怕(おそ)るることなかれ。此れは是れ當人身命を放つるの處なり48。
と指導している。「没滋味處」、すなわち何も味わいのないところとは、キリスト者の祈りにおける無味乾燥状態に他ならない。慰めや快さを覚えていては、まだこちらの事物世界に捉われている。心意識の絶えた無味乾燥のところから、本当の心の転換は始まるのである。
坐禅は、キリスト者の念禱でいえば無味乾燥の段階から始めているのだと思われる。坐禅には黙想と対話の段階がないのである。それだけに坐禅では、想像力を駆使した黙想と対話の反動として無味乾燥に苦しむということが少ないといえる。無味乾燥が初めから当たり前になっているからである。念禱を行ずる者は、黙想と神との対話が甘美なものであるだけに、その後の無味乾燥で苦しむことが多い。とはいえ、坐禅も三昧境に至るまでには、長い苦しい努力と忍耐の時期を経なければならない。
このような無味乾燥という茫漠とした虚無の絶対境を突き抜けていく原動力は、修練者の断固とした決心から生ずる。テレサは、いったんこの念禱の道に入ったからには、
目的地に着くまでは決して立ちどまらない、という大きな、きわめて断固とした堅い決心がとてもたいせつです。それがすべてです49。
と断言している50。禅のほうでも、同じ決意が「大信根」とか「大憤志」として語られている51。
テレジア的念禱の黙想・対話の終り頃からと観想の段階においては、潜心の念禱、静穏の念禱、一致の念禱、の三つが行われる。これらの念禱はテレサが独自に考案したのではなく、この時代にフランシスコ会やカルトジオ会の修道士や学僧が実践し、祈りの手引書で論じていたものである52。特に、フランシスコ会の修道者であったフランシスコ・デ・オスナ(一四九七?—一五四二)の『霊的生活入門・第三部』(または『第三念禱初歩』、一五二七年)は、若きテレサに決定的な影響を与え、彼女はこれによって念禱の道に入り、静穏の念禱やときに一致の念禱にまで高められていったのである53。
潜心の念禱(oración de recogimiento, Gebet der Sammlung)は、テレジア的階梯においては、黙想から観想に移行する段階に位置づけられる。『自叙伝』(一五六五年)においては、潜心の念禱と静穏の念禱とは同時に挙げられているが、『霊魂の城』(一五七七年)においては、はっきり潜心の念禱は静穏の念禱の予備的段階とされる54。
欧語を見ればわかる通り、「潜心」の元々の意味は「集中」ということである。禅と仏教一般の修行における「三昧」も、元のサンスクリットのsamādhiは「集中」の義であるから、潜心の念禱と三昧へ至らんとする坐禅行とは類似していることが推察される。意識の集中ということだけなら、坐禅においても数息観や無字あるいは隻手音声の拈提が行われる55。しかし、特にキリスト教で「潜心」と日本語訳されるにはキリスト教的な理由がある。それは、キリスト者がこの念禱において、心の奥深くに神が現存していると考え56、そこへと諸能力を集中していくからである。
神はわたしのうちにおられる、わたしの霊魂は神の聖所である、わたしは神を礼拝し、愛し、神と一致するために、この聖所の奥深くで潜心する57。
心の奥底に降りていくために、この念禱においては通常目を閉じる58。これは臨済禅とは異なる点で、臨済宗の坐禅では原則として目を半眼に開けておくことが要請される59。
しかし坐禅でも、潜心の念禱と似た方法がある。「白隠禅師内観法」においては、「気海・丹田及び腰脚・足心」という根底が「趙州の無字」「自己本来の面目」「唯心の浄土」「己身の弥陀」「本分の家郷」と夫々念ぜられ、それに関して知的な疑いを起こしていくことが勧められる60。坐禅行には「止」の面と「観」の面があるといわれるが、「白隠禅師内観法」は「観」の面の強い修行方法であると見てよい。キリスト教の潜心の念禱も、内面の神を観ずる「観」行であるといえるであろう。
潜心の念禱は、観想に至る入口の念禱として、まだ修練者の自力による能動的・意図的な念禱であり、自分の努力でなしうる。ガブリエルは、特に初めのうちは努力と根気を必要とし、すぐにできるとは限らないと注意している61。反面、潜心の念禱の段階では、静穏の念禱に入ろうとして、黙想や知性の働きを無理に止めようとしてはならない62。
潜心の念禱は、いつしか静穏の念禱(oración de quietud, Gebet der Ruhe)へ移行していく。静穏の念禱の状態は能動的であるよりは受動的であり63、この状態への移行自体も自力によって成し遂げられるのではない。
この〔静穏の〕念禱はすでに超自然的なものであって、私ども自身では、たとえどんなに努力してもかち得ることはできません。それは霊魂が平和のうちにはいる状態、と言うよりむしろ、(…)主がその現存によって霊魂を平和のうちにお入れになる状態です。すべての能力は静まり安らぎます64。
静穏の念禱は諸能力の静められた自然な集中状態であり、行に成り切ったところである。最早特定の主題・対象について黙想するということはない。自他の区別、主観・客観の対立が解消しつつある。最初に述べた「非対象的瞑想」65の状態に入っており、坐禅の王三昧の状態といってよい。そこでは、意識は静まって広々としており、鏡のように一切の想念を映している。想念は浮雲のように現われては消えていく。時には走り回ることもあるが、走り回る想念は放っておけばよいので、雑念に捉われてはいけない。
念禱のこの高い段階(…)に高められたならば、知性が(もっとわかりやすく言えば“考え”が)この上なくばかげたことに走っても、ただそれを笑って、愚か者扱いにしておくべきです。そして考えがあちこちに行ったり来たりしても、自分は静けさのうちにとどまりますように66。
欧州では今日、キリスト教の観想と禅の接心の指導をともに行う人々が幾人も出ているが、中でも著名なのがドイツのヴィリギス・イェーガー神父(一九二五生)である。イェーガーは、意識の集中の修練と同時かあとにくる意識の空化として、禅では永平道元(一二〇〇—一二五三)の「只管打坐」を、キリスト教では静穏の念禱、十字架のヨハネの「愛をこめて注意を向けること67」、『不可知の雲』の「裸の自己存在の覚知68」を挙げている。静穏の念禱のような意識の空化では、主客の対立が全的に解消していき、王三昧の状態に深まり、根源からの生命を亨受する状態になる。
意識の空化がさらに徹底していくと、白隠のいう「万里の層氷裏69」の状態、ないし長沙景岑(?—八六八?)が偈頌で述べている「百尺竿頭」上の無の境地になってくると思われる。長沙の偈頌では、百尺竿頭の人はさらに竿頭から歩を進め、空中に身を躍らせなければならないのであった70。
この静穏の念禱が何かの拍子に転換を遂げて、次の一致の念禱(oración de unión, Gebet der Gotteinung)が起こる。この転換においては念禱はすでに、禅でいう「個別三昧」から「王三昧」へと全一化していると思われる71。全的に対象化作用と主客の対立は解消され、主客未分の完全な一致状況に到達する。「非対象的瞑想」の極致(きょくち)であり、そこにおいて宇宙生命の根源が覚知される。すなわち、神の現存が経験され、霊魂のすべての能力はその神と一致する。
この〔静穏の〕念禱と、霊魂が神とまったく一致した念禱とでは、後者の場合には、霊魂はもう食物を飲み込むことさえしないという点が違っています。霊魂の中には——かれにはどうしてかわからないのですが——主は食物を入れてくださいます。でも今の場合〔静穏の念禱〕は、主は霊魂がまだほんの少し働くことをお望みのように見えます。じつに安らかな、ほとんど意識されないほどの働きですけれど。かれを悩ますのは知性〔理解能力、分別知性〕です。でも〔一致の念禱において〕三つの能力〔理解能力、意志、記憶〕がみな〔神と〕一致しているときには、それもありません72。
静穏の念禱ではまだ自力が残っているが、一致の念禱では完全に他力になっていることが窺われる。
さて、アビラのテレサの著作を読んで著しく認められることは、一つにはイエスの人性を決して離れないことであり、二つには著作に見られるおびただしい示現73(visión, Vision)の体験の報告である74。彼女自身は、肉眼で見たことはないと確言し、想像力による示現と知性的示現にかぎられるのであるが、彼女は想像力による示現にも、大きな積極的な効果を承認しているようである。禅であれば、魔境であるとして相手にせずに通り過ぎる体験からも、彼女は有意義な前進させる契機を汲み取ろうとする75。しかし、一致の念禱における神の経験の場合は、そうした示現によるものではないといわれていることに着目されるべきである。
全く予期することなく、神の現存の感じが私を襲うということが起こり、その結果、私は、神が私の内面におられ、または私が全く神のうちに沈められているということを全然疑うことができませんでした。それは示現(Vision)の仕方で起こったのではないのです。人が神秘神学と呼んでいるものだと思います76。
そのことを霊魂はかの瞬間に認識したのではなく、後から明瞭に見たのです。(…)神の示すこの種の恵みにより、その人は固く、神が神の現存と力と本質によって一切の事物におられるということを信ずるようになりました77。
テレサが、神の現存の経験が示現によるのではなく、神秘神学なのだと思うと述べるとき、当時の神学者たちが神秘神学の語で注賦的観想のことを考えていたことが顧慮されなければならない。「注賦的」とは超自然的に「神から注ぎ込まれた」という意味である。神の現存の経験は恐らく、想像力や分別知性を超えた、神の注賦を受け止めうる叡知的直観によってなされたと思われる。
しかもこの経験は、「自分が神の内にあり、神が自分の内にいらした」という自己と神との一致の認識であり、また「神が神の現存と力と本質によって一切の事物におられる」という、神即事物・事物即神の万有内在神論的な認識であった78。それは事後的ではあるが明瞭な認識であった。纏めると、一切事物に神は現じているのだが、その神は自己が一致する神なのである。または、神と自己との一致の開けの内に、一切事物は現じているのである79。
テレサはカトリック教会の公式教義に背反することを書くつもりは全くなかったし、この時代に激しかった異端審問の危険にいつも直面していた。従って、彼女の体験の記述はすこぶるキリスト教的である。だが、この一切事物に超越的な神が一切事物に内在的に直接現じており、そうした神に自己は一致するというテレサの認識は、突き詰めていくと、西田幾多郎(一八七〇—一九四五)ら禅的な思想家たちのいう、真の自己を基礎とする個と超個の矛盾的自己同一という概念にあまりにも近い。
禅のほうでは、個と超個の矛盾的自己同一は事物と無相の自己との矛盾的自己同一であり、白隠の「万里の層氷裏」が転換し、長沙の述べるように「百尺竿頭」から歩を進めて「十方世界」が自己の「全身」となったときに80、世界の事々物々が即自己であると認識されるところに示される。こうした十方に通貫する自己が、禅における無相の真の自己(「本来の面目81」)である。以上のような原経験における無相の真の自己こそ、少なくとも禅のほうの見方では、大乗仏教運動における仏性概念の当体に他ならなかった。キリスト教観想の一致の念禱における神は、こうした禅の無相の自己ないし仏性からどれほど遠いであろうか。
一九四三年より日本で禅の接心に参加し始め、欧州のキリスト教会に禅を広めたパイオニアであるイエズス会のフーゴー・真備(まきび)・愛宮(えのみや)ラサール神父(一八九八—一九九〇)は、キリスト教の神の経験と仏教の悟りの経験について、次のように定式化している。
仏教的に見るなら、悟りとは、自己が絶対的で不可分な存在と同一であると把捉されるような、「宇宙と一つであること」(All-eins-Sein)の体験である。(…)キリスト教的に見るなら、悟りは、経験的自我と対置された最深の自己の直接的覚知である。しかしながら、その際、神的な原底といったものがともに経験されている82。
ここでは、キリスト教も禅も、悟り(Erleuchtung)において最も深い真の自己、無相の自己を経験するが、そこからキリスト者はパーソナルな(個と人の特性をもつ)神のほうに出ていき、仏教徒は非パーソナルな「宇宙と一つであること」、すなわち「天地と我と同根、万物と我と一体83」や「不二」の思想のほうに出ていくのだ、と纏められているようである。
本発表は以上により、キリスト教の祈りの修練と坐禅の修行には、あらゆる表面の相違にもかかわらず、高度の段階においては無味乾燥、集中、空化、一致といった階梯的な類似性が見られ、また最終的な開悟の原経験においても、真の自己を基礎として個と超個の矛盾的自己同一が経験されるという点において類似していることが推定される、と結論しておきたい。ご静聴に感謝する。
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