キリスト者の祈りと坐禅
——アビラのテレサの念禱を事例として——

清水 大介(○○大学)

K-GURS・2010年10月16日発表
2011年8月改訂

全体テーマは「祈りと瞑想」であり、今与えられている課題は、それを具体化・特殊化した「キリスト者の祈りと坐禅」である。「祈り」が「キリスト者の祈り」に、「瞑想」が「坐禅」に対応していると見ることができる。前者の「祈り」は、もちろんキリスト教に限られることはなく、いずれの宗教でも広い意味での祈りということは存在し不可欠なものである1

後者の、坐禅が瞑想に対応させられることには、特に禅の修行者の側からは抵抗感がないでもない。瞑想の語は、むしろ真言宗などの——想像力とイメージの力を用いた——密教系仏教の修行のほうで肯定的に受け止められるのではないか。それに対して禅の道場では、坐禅は瞑想ではないと説明されることもままあるかと思う。その場合には瞑想は、はっきり定義付けられているわけではないが、大体において、想像力とイメージの駆使ないしは推理能力の使用によって、特定の主題・対象について深く省察することくらいに思い浮かべられているのではないだろうか。確かに、坐禅は何かの対象についてあれこれと思いをめぐらし、想像・省察することではないから、その意味では瞑想ではない。しかし、瞑想も進んでくれば、想像力やイメージに頼らず、対象的に省察することもしない、より高次の段階に入る場合があり、この段階こそ瞑想の本質と醍醐味であるとすれば、坐禅も瞑想の一種ということになるだろう。それどころかむしろ、坐禅は典型的な瞑想だという位置付けをうることになるかもしれない。学問的には、坐禅は「非対象的瞑想」(ungegenständliche Meditation)の一範型であると定義されてよいかと思う2

また、これと事情が似ているかもしれないが、浄土真宗の教義においては、念仏は祈禱・祈願としての祈りではないとされる。確かにそういわれるところには、念仏の宗教的行としての深い意味がある。現代でも、真宗の学僧が念仏は祈りであると公言すると事件になるそうである。しかしこれも、純粋に学問的には、念仏は広い意味での祈りの概念に属するといってもよいのではないだろうか。こうしたことについては、このあとこの方面でご造詣の深い龍谷大学の藤能成(ふじよしなり)先生のほうからお話が伺えるかと思う。

さて、「キリスト者の祈り」については、坐禅と比較考察が可能であるものとして、今回はカトリックの観想修道会3であるカルメル会における祈りを取り上げようかと思う。

実は本課題を頂戴してから、私はプロテスタント系の祈りの本から目を通し始めた。それらは、フォーサイス、ハレスビー、加藤常昭、長崎巍(たかし)、である4。長崎の『祈り——その神学と実際』を最初に読んだので、そこから多くを学んだ。どの書も世俗性と直面しながら祈りを真摯に扱っており、とても立派なものだと感心したが、しかし、坐禅という修行の実態に直接触れてくるような祈りの記述には、残念ながらあまりお目にかからなかった。もちろん概括的には論じられてくるのだが、坐禅という行の実際の内側にまで食い入ってくるような祈りの分析と描写には巡り合わなかったのである。その点、カトリック観想修道会の祈りには、坐禅と同様の事態が問題とされているところがあり、坐禅と重なり、比肩するところが見られる。長崎は、祈りを退避的側面と派遣的側面に分けるが5、観想修道会の祈りは主として祈りの退避的側面に当たるといえる。

カトリック観想修道会の祈りに、仏教において育まれた坐禅行と比較可能な内実が示されるのは、両者ともに世俗を離れた僧院での修行が土台となっているからであろう。それに対して、奥村一郎によると、岸本英夫は、東洋の宗教、殊に仏教において修行が発達したのに対し、キリスト教、特にプロテスタントにおいては修行が皆無に近いといっているそうである。

いわゆる神の恩恵を中心に生きる信仰には、自己形成の努力は評価されないということである。この岸本教授の結論と論拠には全面的には賛成しかねるが、かっての「信仰と業(わざ)」というカトリックとプロテスタントの論争の焦点を想起させてくれるものがある。律法や業によるのではなく、信仰によって義とされるというパウロ神学と、行いの伴わない信仰は死んでいるというヤコブのことばとが対立させられて種々の論議を生んだのは、すでにアウグスティヌスにもさかのぼる6

業(わざ)よりも信仰の立場に立つプロテスタントの祈りが、坐禅のような修行形態からは遠くなり、それだけ多く派遣面に出ていくということは、容易に理解されるところである。しかし最近では、ヨーロッパのプロテスタントの牧師さんでも、坐禅を行ずる方が増えてきたと聞いている。日本のプロテスタントの方々は、祈りと坐禅についてどう見ていらっしゃられるのか、この後ご発言下さる、同志社大学の小原克博先生から何か伺えるかとお待ちしている。

1  キリスト者の祈り

さて、キリスト者の祈りには色々な分類が可能であろうが、口禱と念禱という分け方がある。口禱は言葉による祈りであり、念禱(内的な祈り)は心の中で行う祈りである7。ただし、口禱と念禱は矛盾しない。あとで紹介するアビラのテレサは、

唱えていることば自体よりも、神とお話ししているのだという事実のほうに、もっと注意が集中するならば、その場合、私は念禱と口禱とをあわせているのです8

と述べ、修道女たちに

娘たちよ、私は念禱と口禱とを合わせるようにと、思いだすたびにお勧めしましょう9

と訓戒している。心のこもった口禱は、念禱になるのである。心のこもらない口禱は真の祈りではない。以下、念禱ということでは、何か特殊な祈り方が意味されているのではなく、キリスト者の心の祈りがいわれているのだということに留意されたい。

「念禱」は、ラテン語のoratio mentisのカトリック教会における訳語である。プロテスタント教会では、oratio mentisは「瞑想」と訳されるそうである。通常一般的には「瞑想」は、meditatioの訳語と考えられているが、日本のキリスト教会では、meditatioは「黙想」と訳される。そして、「念禱」には、この「黙想」と、その次の段階の「観想」(contemplatio)が含まれるとされている10

歴史的には、例えば中世のサン・ヴィクトル派では、祈りの修練は(一)cogitatio、(二)meditatio、(三)contemplatioの三段階から考えられ、近世のイグナティウス・デ・ロヨラの「霊操」では、(一)consideratio、(二)meditatio、(三)contemplatioの三つの分類が行われてきた11。念禱が黙想と観想から成っているというのは、このようなキリスト教の祈りの修練の伝統から纏められてきたことと見ることができる。

そこでここでは、キリスト教の念禱を坐禅行との比較において究明することにするが、そのプロトタイプとして観想修道会の一つである跣足カルメル会の創立者、アビラのテレサ12(イエズスの聖テレジア、一五一五—八二)の「念禱のテレジア的方法」といわれるものを取り上げてみたい。私共は一般に、キリスト者がどのように祈っているのか具体的に知ることが少ないので、いささか詳細に紹介することになると思うが、どうか予めお許しをお願いしたい。

欧州のキリスト教会では、現代でも祈りの会や黙想会(メディテーションの会)が、教会施設、「教養の家」、霊的センターなどで盛んに開催されており、最近の日本の坐禅の方法の導入もその延長線上で行われているようである。黙想の手引書がドイツ語圏に限っても毎年何冊も刊行・再刊されている。中でもテレジア的念禱の指導書は多い13

しかしここではまず、ガブリエルの黙想集『神との親しさ』中の「祈りと対神徳」におけるテレジア的念禱を紹介することにしたい14

なお、坐禅では身体の姿勢が重視されるのに対し、キリスト教の祈りではむしろ精神性が中心となる、という目立った相違があるが、本発表では論じない15

2  テレジア的念禱の初歩

念禱の、準備、読書、黙想、対話の四つの部分の内、ガブリエルによれば、「対話」こそが念禱の核心、中心をなすものである16。アビラのテレサは、

念禱とは(…)自分が神から愛されていることを知りつつ、その神と、ただふたりきりだけでたびたび語り合う、友情の親密な交換にほかなりません17

と述べている18

ただし、神との親密な語らいといっても、「ことばなき祈り」として沈黙の語らいになってもよいのである。先のテレサの念禱の定義の箇所の新しいドイツ語訳では、「友のもとに滞在すること」と訳され、「話す」という側面が後退している。そのほうが原文に忠実らしい19。「互いに愛しあっているものの親しい心の交わり」としての「心の祈り」は、しまいには「ことばなき祈り」となる。それは、十字架のヨハネ(一五四二—九一)やアビラのテレサが、「単純な愛の眼差し」とか「静穏の祈り」と呼んだものである20

2.1  読書

テレジア的念禱の最初の準備として、まず神のみまえに出るということが行われる21。次に主のみまえで黙想の要点を読む。テレサは、心の絶え間ない動揺や雑念に苦しむ者でも、本の助けを借りて効果的に念禱の修行に励むことができると強調し22

本のおかげで、わたしは散り乱れた考えを引きもどし、よろこんで念禱にひたることができました。たびたび、本を開くだけでもう十分で、主がわたしに与えられたお恵みにしたがって、ときとしては少し読み、ほかのときには、多く読みました23

と述懐している24

坐禅の修行の場合でも、坐禅への動機付けとして、禅についての書物を読むということは、実際上よく行われている。白隠慧鶴(一六八五—一七六八)も発奮させられた『禅関策進』なども、動機付けとなる禅書の好例であろう。『四部録』という禅の基本書中の『十牛図』においても、最初の発心の「尋牛」のあと、二番目に「見跡」といって経典の読書が置かれている。しかし、いったん坐禅の行に入ったなら、読んだ書物の内容についてあれこれと思い返すということはしない。

2.2  黙想

さて、こうして読書からの自然な移行として、

読んだことがらについて、穏やかに、優しく考える。——自分ひとりで考えるようにではなく、むしろ、自分がそのみ前にいる主とお話しするかのように。こうして、神と語り、神とともに黙想の主題を展開させる25

という仕方で黙想が行われる。黙想においては、ある一定の主題について対象的に思惟し、推理・推察する。しかし、黙想に際して注意すべきことは、推理・推察よりも愛が支配すべきであるということである。念禱の本質が、神との親密な交わりにあるからである。それ故、すでにここには一部、自他をはっきり分けない非対象的な祈りの要素が入ってきているといえる。ガブリエルは、

わたしたちは、だれかを愛するとき、たぶん、わたしたちよりもっと詳しく、ただし愛なしにその人を知ろうと努める者よりも、ずっとよく、もっと容易に、彼を知ることができるものである26

と述べ、黙想の際に愛をこめることの重要性を説いている。アビラのテレサも、

多く考えることではなく、多く愛することが大切です27

と宣言している。愛の親密さによって人は神に触れることができるのであって、自他の区別と対象化を前提する推理・推察によっては神と親密にはなりえない。

2.3  対話

黙想は自然に対話へと移っていく。読書も黙想も中止して、神とただひとり向かい合って語るようになる。ただ心が発露していくままの自然で自由な、個人的で親密な神との対話になる。具体的にどのようなものであるかというと、

時として、人は自分に対する神の愛が十分心にしみこむやいなや、感謝の気持や、愛には愛をもってこたえたい望みを神に表明したくなり、自然に、主との親密な会話が始まる。あふれるばかりの感謝、もっと寛大に自分をささげたい望みなどを言い表わし、それまでそうしなかったことを、おわびする。それから、実際的な決心にうつり、その決心を真に守ることができるように神のおん助けを願う28

という具合に、個々別様に行われる。

キリスト者の神への祈りに不案内な人々は、この対話は実は一人語りであり、対話の相手は架空の想像物にすぎないのではないかと、いぶかしく思うかもしれない。しかし、ガブリエルはいう。

これは真の「対話」であるということができる。なぜなら、語るのは魂だけではなく、神も、もちろん、ことばによってではないが、愛と光の恵みを与えることによって、しばしばお答えになるからである29

それ故、

多弁に陥らないように注意し、たびたび自分の話を中止して、神の答えにほかならない恩恵の動きを感知するために、心の耳を傾けるのはよいことである30

神は、人が心を空にすることによって、初めて人の心に入ってくることができる。

ここでは明らかに、対話の相手である神の自己存在を示すことが、人の想像力とイメージ力の力場でなされている。従って、それは秘めやかなものである。対話の相手は現実に存在しているのだが、超越者であるために、通常の客観的認識能力では把捉されることができない。そこでこの祈りの段階では、想像力とイメージの力に頼ることによって、神との非対象的な接触が試みられているのである。

第二の黙想と第三の対話では、想像力が駆使されるのであると思われる31。そして、そうした想像力の駆使では行き詰まるのが、次の第四の観想への移りゆきになるのであろう。黙想と対話の終わりを告げる無味乾燥とは、想像力の枯渇と考えられる。それに対して、坐禅においては初めから想像力の使用が抑制される。キリスト教神秘主義の祈りの修練では、逆にかなりの段階まで想像力の使用が推奨される(その意味では、仏教中の密教の修行と近いところがあるのかもしれない)。この点が、修練の観点からみた、禅修行とキリスト教神秘主義の念禱の修練との間の大きな違いであると思われる。現代ヨーロッパの観想修道会において坐禅の方法が導入されたというのも、想像力を駆使する段階を切り詰めたほうが観想の段階に移行するのに有効であることに、キリスト教の修道者たちが気づいたことによるのではないか。

2.4  観想への移り行き

このようにして黙想と対話は、いつしか観想へと移り行く。

いつもことばを用いる必要があると思ってはならない。多くの場合、人は、静かに主を見つめ、内心の師である主のみ声に聞きいり、沈黙のうちに主を愛するために、黙しているほうを好む32

今や霊魂は、推理やことばを用いることをやめ、沈黙のうちに愛をこめて神のほうをながめている。こうしてこの対話は、沈黙の語らい、観想的な語らいとなる。この愛にみちたまなざしは、霊魂を神との親密な触れ合い、神との真の友情の交わりのうちに保つ33

もちろん、人はいつも沈黙の語らいのうちにとどまっていることはできない。観想に慣れていない間は、省察や言葉での表現に戻ることが、ぼんやりや気散じを防ぐためにも必要となるだろう。しかし、主のもとに沈黙のうちに憩うほうがずっとためになるのだ、とガブリエルは力説する34

2.5  無味乾燥

もっとも実際には、黙想と対話から観想へそうスムーズに移行するわけではない。黙想・対話と観想の間には、念禱時間中の退屈と無味乾燥が立ちはだかっており、人はこのために多大の苦しみと試練を受け、意志的努力をしなければならない。

念禱中無味乾燥になる原因と理由は、大別して三つに分かれる。

第一は当人の不忠実であって、要するにサボッてしまうのである。これに対する唯一の薬は最初の熱心に戻ることである35

第二の原因は、肉体的、精神的なものである。身体の不調、不快、疲労、心配事の苦しみ、あるいは過労による抑鬱などがこれに当たる36。もはや念禱に対して、なんの慰めも、なんの魅力も感じない。このような場合には意志の力によって、義務として祈りに励まなければならない37

霊的生活における進歩は、感じる慰めによって計ることはできない。なぜなら、真の信心とは、神への奉仕にあたる意志のすみやかさにあるのであって、慰めはぜんぜん必要でないからである38

坐禅行の場合も事情は全く同じであって、このような場合には、さっと意志の力によって坐禅に取り組むのである。

第三に、神からくる無味乾燥がある。原因は神である。別次元が呼んでいるのである。これは最も徹底した無味乾燥の状態である39。ガブリエルはこれを次のように描写している。

人は、想像力の助けを借りて念禱をすることも、以前のように、こころよい愛を感じながらその修行に励むこともできなくなる。以前には、黙想や、神との愛情にみちた語らいがやさしくでき、そこに魅力を感じていたのに、今ではもう、何もできない。二つの考えを結び合わせることも不可能である。前には、あれほど心にひびいた考えや、本で読んだ事がらも、今ではなんの感じも与えない。心は意志のようにかたく冷たいままである。忠実に抑制に努め、惜しみない生きかたをしようとして自己を警戒してみても、あるいはまた、念禱の準備をいっそう真剣にし、神の助けを熱心に嘆願してみても、心から一滴の信心の気持さえ引き出すことはできない40

こうした神から見捨てられた状態、徹底した無味乾燥は修練の道にとって本質的なものである。それまで使用していた想像力が枯渇し、想像力とイメージ力ではどうにもならないことが悟られる。アビラのテレサは『霊魂の城』において、「第七の住居」と呼んでいる最も高い神との一致の一歩手前における、深刻な試練について次のように語っている41

そのとき自分に感ぜられることは、今まで一度も神について考えたことがなく、また神について思い出すこともできず、人が神について話す時にも、何か遠い人について耳にするように何ひとつピンとこなくなってしまうようです。……主はこのように悪魔の誘惑にまかせ、ついには神ご自身からも棄てられたと思い込ませるまでにされます。本当に、その時の苦しみは地獄としかいいようがありません42

修禅者(しゅぜんしゃ)も、決定的な時節において、一切の岸辺から離れた、寄る辺なき空漠の暗黒境に陥り、そこで堪え忍ばなければならない。「黒漫漫地43」という。そこで何か薄明かりに逢着したというときには、指導する師は一層つらく彼に当たり、決して容赦しないであろう44

さてしかし、この種の無味乾燥は実は神の大きな恵みなのであって、浄化と念禱の道におけるさらなる前進を内包している45

祈りのうちに非常な慰めを覚えていたときには、ひとは自分でもそれと気づかずに、こうした感覚的な慰めに、いくらか執着していた。それで、念禱を愛し求めていたのも、純粋に神のためだけでなく、いくらか自分のためでもあった。(…)今は、いっさいの慰めを奪われてしまったので、以後は、ただ主を喜ばせるためにだけ念禱することを覚えるであろう46

神は人の心を無味乾燥の状態に入れることによって対象的な黙想を不可能にし、別の道から神に行くように強いる。十字架のヨハネによれば、この別の道は観想の初歩の道である47

禅の修行においては、中国臨済宗の看話禅の代表者である大慧宗杲(一〇八九—一一六三)が修行者に、

滋味没き處に向って、試みに意を着けて看るべし。(…)理路・義路に心意識の都(すべ)て行かざること土木瓦石(がせき)の如くに相似たることを覚得する時、空に落つることを怕(おそ)るることなかれ。此れは是れ當人身命を放つるの處なり48

と指導している。「没滋味處」、すなわち何も味わいのないところとは、キリスト者の祈りにおける無味乾燥状態に他ならない。慰めや快さを覚えていては、まだこちらの事物世界に捉われている。心意識の絶えた無味乾燥のところから、本当の心の転換は始まるのである。

坐禅は、キリスト者の念禱でいえば無味乾燥の段階から始めているのだと思われる。坐禅には黙想と対話の段階がないのである。それだけに坐禅では、想像力を駆使した黙想と対話の反動として無味乾燥に苦しむということが少ないといえる。無味乾燥が初めから当たり前になっているからである。念禱を行ずる者は、黙想と神との対話が甘美なものであるだけに、その後の無味乾燥で苦しむことが多い。とはいえ、坐禅も三昧境に至るまでには、長い苦しい努力と忍耐の時期を経なければならない。

このような無味乾燥という茫漠とした虚無の絶対境を突き抜けていく原動力は、修練者の断固とした決心から生ずる。テレサは、いったんこの念禱の道に入ったからには、

目的地に着くまでは決して立ちどまらない、という大きな、きわめて断固とした堅い決心がとてもたいせつです。それがすべてです49

と断言している50。禅のほうでも、同じ決意が「大信根」とか「大憤志」として語られている51

3  テレジア的念禱の進んだ段階

テレジア的念禱の黙想・対話の終り頃からと観想の段階においては、潜心の念禱、静穏の念禱、一致の念禱、の三つが行われる。これらの念禱はテレサが独自に考案したのではなく、この時代にフランシスコ会やカルトジオ会の修道士や学僧が実践し、祈りの手引書で論じていたものである52。特に、フランシスコ会の修道者であったフランシスコ・デ・オスナ(一四九七?—一五四二)の『霊的生活入門・第三部』(または『第三念禱初歩』、一五二七年)は、若きテレサに決定的な影響を与え、彼女はこれによって念禱の道に入り、静穏の念禱やときに一致の念禱にまで高められていったのである53

3.1  潜心の念禱

潜心の念禱(oración de recogimiento, Gebet der Sammlung)は、テレジア的階梯においては、黙想から観想に移行する段階に位置づけられる。『自叙伝』(一五六五年)においては、潜心の念禱と静穏の念禱とは同時に挙げられているが、『霊魂の城』(一五七七年)においては、はっきり潜心の念禱は静穏の念禱の予備的段階とされる54

欧語を見ればわかる通り、「潜心」の元々の意味は「集中」ということである。禅と仏教一般の修行における「三昧」も、元のサンスクリットのsamādhiは「集中」の義であるから、潜心の念禱と三昧へ至らんとする坐禅行とは類似していることが推察される。意識の集中ということだけなら、坐禅においても数息観や無字あるいは隻手音声の拈提が行われる55。しかし、特にキリスト教で「潜心」と日本語訳されるにはキリスト教的な理由がある。それは、キリスト者がこの念禱において、心の奥深くに神が現存していると考え56、そこへと諸能力を集中していくからである。

神はわたしのうちにおられる、わたしの霊魂は神の聖所である、わたしは神を礼拝し、愛し、神と一致するために、この聖所の奥深くで潜心する57

心の奥底に降りていくために、この念禱においては通常目を閉じる58。これは臨済禅とは異なる点で、臨済宗の坐禅では原則として目を半眼に開けておくことが要請される59

しかし坐禅でも、潜心の念禱と似た方法がある。「白隠禅師内観法」においては、「気海・丹田及び腰脚・足心」という根底が「趙州の無字」「自己本来の面目」「唯心の浄土」「己身の弥陀」「本分の家郷」と夫々念ぜられ、それに関して知的な疑いを起こしていくことが勧められる60。坐禅行には「止」の面と「観」の面があるといわれるが、「白隠禅師内観法」は「観」の面の強い修行方法であると見てよい。キリスト教の潜心の念禱も、内面の神を観ずる「観」行であるといえるであろう。

潜心の念禱は、観想に至る入口の念禱として、まだ修練者の自力による能動的・意図的な念禱であり、自分の努力でなしうる。ガブリエルは、特に初めのうちは努力と根気を必要とし、すぐにできるとは限らないと注意している61。反面、潜心の念禱の段階では、静穏の念禱に入ろうとして、黙想や知性の働きを無理に止めようとしてはならない62

3.2  静穏の念禱

潜心の念禱は、いつしか静穏の念禱(oración de quietud, Gebet der Ruhe)へ移行していく。静穏の念禱の状態は能動的であるよりは受動的であり63、この状態への移行自体も自力によって成し遂げられるのではない。

この〔静穏の〕念禱はすでに超自然的なものであって、私ども自身では、たとえどんなに努力してもかち得ることはできません。それは霊魂が平和のうちにはいる状態、と言うよりむしろ、(…)主がその現存によって霊魂を平和のうちにお入れになる状態です。すべての能力は静まり安らぎます64

静穏の念禱は諸能力の静められた自然な集中状態であり、行に成り切ったところである。最早特定の主題・対象について黙想するということはない。自他の区別、主観・客観の対立が解消しつつある。最初に述べた「非対象的瞑想」65の状態に入っており、坐禅の王三昧の状態といってよい。そこでは、意識は静まって広々としており、鏡のように一切の想念を映している。想念は浮雲のように現われては消えていく。時には走り回ることもあるが、走り回る想念は放っておけばよいので、雑念に捉われてはいけない。

念禱のこの高い段階(…)に高められたならば、知性が(もっとわかりやすく言えば“考え”が)この上なくばかげたことに走っても、ただそれを笑って、愚か者扱いにしておくべきです。そして考えがあちこちに行ったり来たりしても、自分は静けさのうちにとどまりますように66

欧州では今日、キリスト教の観想と禅の接心の指導をともに行う人々が幾人も出ているが、中でも著名なのがドイツのヴィリギス・イェーガー神父(一九二五生)である。イェーガーは、意識の集中の修練と同時かあとにくる意識の空化として、禅では永平道元(一二〇〇—一二五三)の「只管打坐」を、キリスト教では静穏の念禱、十字架のヨハネの「愛をこめて注意を向けること67」、『不可知の雲』の「裸の自己存在の覚知68」を挙げている。静穏の念禱のような意識の空化では、主客の対立が全的に解消していき、王三昧の状態に深まり、根源からの生命を亨受する状態になる。

意識の空化がさらに徹底していくと、白隠のいう「万里の層氷裏69」の状態、ないし長沙景岑(?—八六八?)が偈頌で述べている「百尺竿頭」上の無の境地になってくると思われる。長沙の偈頌では、百尺竿頭の人はさらに竿頭から歩を進め、空中に身を躍らせなければならないのであった70

3.3  一致の念禱

この静穏の念禱が何かの拍子に転換を遂げて、次の一致の念禱(oración de unión, Gebet der Gotteinung)が起こる。この転換においては念禱はすでに、禅でいう「個別三昧」から「王三昧」へと全一化していると思われる71。全的に対象化作用と主客の対立は解消され、主客未分の完全な一致状況に到達する。「非対象的瞑想」の極致(きょくち)であり、そこにおいて宇宙生命の根源が覚知される。すなわち、神の現存が経験され、霊魂のすべての能力はその神と一致する。

この〔静穏の〕念禱と、霊魂が神とまったく一致した念禱とでは、後者の場合には、霊魂はもう食物を飲み込むことさえしないという点が違っています。霊魂の中には——かれにはどうしてかわからないのですが——主は食物を入れてくださいます。でも今の場合〔静穏の念禱〕は、主は霊魂がまだほんの少し働くことをお望みのように見えます。じつに安らかな、ほとんど意識されないほどの働きですけれど。かれを悩ますのは知性〔理解能力、分別知性〕です。でも〔一致の念禱において〕三つの能力〔理解能力、意志、記憶〕がみな〔神と〕一致しているときには、それもありません72

静穏の念禱ではまだ自力が残っているが、一致の念禱では完全に他力になっていることが窺われる。

さて、アビラのテレサの著作を読んで著しく認められることは、一つにはイエスの人性を決して離れないことであり、二つには著作に見られるおびただしい示現73(visión, Vision)の体験の報告である74。彼女自身は、肉眼で見たことはないと確言し、想像力による示現と知性的示現にかぎられるのであるが、彼女は想像力による示現にも、大きな積極的な効果を承認しているようである。禅であれば、魔境であるとして相手にせずに通り過ぎる体験からも、彼女は有意義な前進させる契機を汲み取ろうとする75。しかし、一致の念禱における神の経験の場合は、そうした示現によるものではないといわれていることに着目されるべきである。

全く予期することなく、神の現存の感じが私を襲うということが起こり、その結果、私は、神が私の内面におられ、または私が全く神のうちに沈められているということを全然疑うことができませんでした。それは示現(Vision)の仕方で起こったのではないのです。人が神秘神学と呼んでいるものだと思います76
そのことを霊魂はかの瞬間に認識したのではなく、後から明瞭に見たのです。(…)神の示すこの種の恵みにより、その人は固く、神が神の現存と力と本質によって一切の事物におられるということを信ずるようになりました77

テレサが、神の現存の経験が示現によるのではなく、神秘神学なのだと思うと述べるとき、当時の神学者たちが神秘神学の語で注賦的観想のことを考えていたことが顧慮されなければならない。「注賦的」とは超自然的に「神から注ぎ込まれた」という意味である。神の現存の経験は恐らく、想像力や分別知性を超えた、神の注賦を受け止めうる叡知的直観によってなされたと思われる。

しかもこの経験は、「自分が神の内にあり、神が自分の内にいらした」という自己と神との一致の認識であり、また「神が神の現存と力と本質によって一切の事物におられる」という、神即事物・事物即神の万有内在神論的な認識であった78。それは事後的ではあるが明瞭な認識であった。纏めると、一切事物に神は現じているのだが、その神は自己が一致する神なのである。または、神と自己との一致の開けの内に、一切事物は現じているのである79

テレサはカトリック教会の公式教義に背反することを書くつもりは全くなかったし、この時代に激しかった異端審問の危険にいつも直面していた。従って、彼女の体験の記述はすこぶるキリスト教的である。だが、この一切事物に超越的な神が一切事物に内在的に直接現じており、そうした神に自己は一致するというテレサの認識は、突き詰めていくと、西田幾多郎(一八七〇—一九四五)ら禅的な思想家たちのいう、真の自己を基礎とする個と超個の矛盾的自己同一という概念にあまりにも近い。

禅のほうでは、個と超個の矛盾的自己同一は事物と無相の自己との矛盾的自己同一であり、白隠の「万里の層氷裏」が転換し、長沙の述べるように「百尺竿頭」から歩を進めて「十方世界」が自己の「全身」となったときに80、世界の事々物々が即自己であると認識されるところに示される。こうした十方に通貫する自己が、禅における無相の真の自己(「本来の面目81」)である。以上のような原経験における無相の真の自己こそ、少なくとも禅のほうの見方では、大乗仏教運動における仏性概念の当体に他ならなかった。キリスト教観想の一致の念禱における神は、こうした禅の無相の自己ないし仏性からどれほど遠いであろうか。

一九四三年より日本で禅の接心に参加し始め、欧州のキリスト教会に禅を広めたパイオニアであるイエズス会のフーゴー・真備(まきび)・愛宮(えのみや)ラサール神父(一八九八—一九九〇)は、キリスト教の神の経験と仏教の悟りの経験について、次のように定式化している。

仏教的に見るなら、悟りとは、自己が絶対的で不可分な存在と同一であると把捉されるような、「宇宙と一つであること」(All-eins-Sein)の体験である。(…)キリスト教的に見るなら、悟りは、経験的自我と対置された最深の自己の直接的覚知である。しかしながら、その際、神的な原底といったものがともに経験されている82

ここでは、キリスト教も禅も、悟り(Erleuchtung)において最も深い真の自己、無相の自己を経験するが、そこからキリスト者はパーソナルな(個と人の特性をもつ)神のほうに出ていき、仏教徒は非パーソナルな「宇宙と一つであること」、すなわち「天地と我と同根、万物と我と一体83」や「不二」の思想のほうに出ていくのだ、と纏められているようである。

本発表は以上により、キリスト教の祈りの修練と坐禅の修行には、あらゆる表面の相違にもかかわらず、高度の段階においては無味乾燥、集中、空化、一致といった階梯的な類似性が見られ、また最終的な開悟の原経験においても、真の自己を基礎として個と超個の矛盾的自己同一が経験されるという点において類似していることが推定される、と結論しておきたい。ご静聴に感謝する。

〔完〕

1
広義の祈りは諸宗教のみにではなく、日常生活にも見られる。例えば、手紙の末尾に「ご自愛のほどお祈り申し上げます」というのも祈りであろうし、朝日や夕日に向かって佇むときや、野に咲く一茎の草花ですらも祈りの姿であるといえるかもしれない。「祈り」一般については、棚次正和、祈りの人間学、世界思想社、二〇〇九年、などを参照。
2
Stachel, Günter [Hrsg.]: Munen musō, ungegenständliche Meditation: Festschrift für Pater Hugo M. Enomiya-Lassalle zum 80. Geburtstag, Mainz 1978.
3
観想修道会とは、祈りを主とした観想生活を行う修道会であって、カルメル会やベネディクト会、カルトジオ会がこれに当たる。これに対して活動修道会というものがあって、フランシスコ会、ドミニコ会、イエズス会、神の愛の宣教者会などが数えられるが、これらの活動修道会が祈りや観想を軽んじるわけではない。フランシスコ会は伝統的に祈りと観想生活を重んじるし、イエズス会には「霊操」という修練課程がある。
4
フォーサイス、P・T、祈りの精神、ヨルダン社、改訂第八刷、二〇〇一年。ハレスビー、O、祈りの世界、日本基督教団出版局、一九九八年。加藤常昭、祈りへの道、教文館、第四版、一九八八年。長崎巍、祈り——その神学と実際、新教出版社、第二刷、一九九〇年。
5
「退避的側面とは、祈りにおいて神との交わりのために、この世から分離され、聖別されて神に近づき、神の前に出るという側面である。派遣的側面とは、神の前から出て行き、つかわされて、世にあって神と人とに仕える、という側面である」(長崎巍、祈り、一四一頁)。さらに長崎は、神と人との間の「両面通行としての祈り」(二三四頁以下)として、修練としての祈りを論じている。
6
奥村一郎、奥村一郎選集第八巻、神に向かう〈祈り〉、オリエンス宗教研究所、二〇〇八年、一五四頁以下。業よりも信仰によって義とされるパウロ神学と、親鸞の自力によらない他力本願念仏思想との間には類似性が見られるが、確かに最終的に救いは修行だけによって得られるものではないにしても、修行なしに救いはあるのであろうか。信仰にすべてをかければ、修行は要らなくなるのであろうか。こうした問題も、祈り、念仏、瞑想、坐禅といった宗教的な修行に共通の問題であるかと思われる。
7
大貫隆他編、岩波キリスト教辞典、岩波書店、二〇〇二年、八六三頁。長崎巍も、キリスト教的な祈りには、「言葉に表された祈り」と、「言葉に表されない祈り」すなわち「心の祈り」とがあるといっている(長崎、上掲書、一五一頁)。口禱と念禱の区別に当たるといってよいだろう。後出のガブリエルは、「祈りの形は、(…)口禱と念禱、推理による念禱と愛による念禱、個人的な祈りと典礼的な祈りとがある」(ガブリエル、SMP、神との親しさ、第二巻、祈りと対神徳、聖母の騎士社、一九九〇年、五六頁)といっている。なお、(…)は引用文中の省略箇所を示す。
8
イエズスの聖テレジア、完徳の道、二二章一節、東京女子カルメル会訳、ドン・ボスコ社、一九六八年、九刷、二〇〇六年、二一三頁。
9
同上書、二二章三節、二一五頁。「口禱はただ、祈り文を口で唱えることだけではない(…)。祈り文を口で唱えるだけなら、朗読であって、祈りではない。なぜなら、祈りはいつも神に向かう心の動き、心を神にあげることを要求するからである。(中略)口禱が真の祈りであるには、まず第一に、神の前に潜心し、神に近づき、神と接触しなければならない。(中略)ただ口先だけで唱えた祈りは、わたしたちを神のうちに潜心させるどころか、かえって、疲れと放心のもととなる」(ガブリエル、祈りと対神徳、六二頁)。
10
大貫隆他編、岩波キリスト教辞典、一一〇一、一一一一頁参照。ただし、プロテスタントの長崎巍は、「瞑想」の語で「観想」の段階を考えているようだ。長崎では、祈りはまず聖書の読書、それから黙想へ、さらに瞑想へという段階を辿る。長崎、上掲書、一五二—一五四頁参照。
11
Enomiya-Lassalle, Hugo M., Zen-Meditation für Christen, München 1995, S. 31. ちなみに、六世紀のベネディクト会のlectio divinaは、(一)読誦(lectio)、(二)黙想(meditatio)、(三)祈り(oratio)、(四)観想(contemplatio)と進められた(大貫隆他編、岩波キリスト教辞典、一一一一頁)。
12
アビラのテレサは、一六世紀の勃興期のスペインにおいて、数々の困難を克服しながら改革派カルメル会を創立した。カトリック教会の聖女であり、教会博士でもある。娘時代から修道女として念禱を熱心に実行し、若年にして後述の「一致の念禱」にまで達した。反宗教改革の運動と異端審問の盛んな時代であったので、周囲の聴罪司祭などの援助者たちは、異端審問にかからないように、彼女の執筆活動に気を配っていた。祈りの生活に主眼を置く観想修道会は、祈りによる体験を重んじ、その体験は神秘をめぐるものであるので、どうしても神秘主義的にならざるをえない。カルメル会自体がその発祥において東洋神秘主義的な性格の色濃いものであったが、彼女自身、改宗ユダヤ人の家系に属し、また当時のスペインがまだイスラム文化の影響力から完全に脱していなかったこともあって、彼女の思想と実践にはユダヤ教神秘主義とイスラム神秘主義の隠れた影響が予想されており、今日その方向での研究が進められている。
13
最近管見に入ったドイツ語のテレジア的念禱の指南書だけでも、ペーター・デュックホフという黙想会指導者がテレサの著作からの引用集という仕方で作成した『泉から汲む——アビラのテレサによる念禱』とか、コルネリア・クノルマイヤーとエヴァルディーネ・ケッテラー共著の、四〇日間の修練のプログラムを提案した『神を友にもつ——アビラのテレサと一緒のエクササイズ』がある。Dyckhoff, Peter, Aus der Quelle schöpfen: Das innerliche Gebet nach Teresa von Avila, München 22002. Knollmeyer, Cornelia M. u. Ketterer, Evaldine M.: Gott zum Freund haben: Exerzitien mit Teresa von Avila, 32008. なお、現代日本で公刊されたカトリックの観想の指導書には、ショムスキ、コンラド、観想、あかし書房、一九八〇年、第四刷二〇〇八年、がある。コンラド・ショムスキはフランシスコ会司祭で、日本で長く黙想と観想の指導を行った。
14
ガブリエルは正式には、聖マリア・マグダレーナのガブリエル(一八九三—一九五三)といい、ベルギーで生まれ、カルメル会に入会して司祭叙階後は、ローマのカルメル会神学校で教授職を務めた人である。ガブリエルによると、念禱のテレジア的方法は七つの部分からなる。念禱の入口をなす部分が二つであり、それらは「準備」(神のみまえにでること)と「読書」である。主要な部分は二つ、それらは「黙想」と「対話」である。さらに、随意の部分が三つあり、それらは「感謝」「奉献」「祈願」であり、重要ではあろうが、ここでは本発表の中心課題から外れるので取り扱わない。先に挙げた黙想会指導者のデュックホフは、テレジア的念禱の諸段階の内、深い内面化された口禱から静穏の念禱までの段階を取り扱っている。それに対してガブリエルの「祈りと対神徳」においては、最初の準備から初歩の観想までを紹介している。デュックホフもガブリエルの「祈りと対神徳」も、より進んだ段階の念禱については論じない。進んだ段階の念禱は、手引き書の範囲を超え、個人的な指導に委ねられる面が強いからであろう。
15
「坐禅には調息・調身・調心とあるが、肝心の『頭』がない。私たちカルメル会という東方神秘主義に起源をもつ極めて瞑想的な修道生活をしているところであっても、知性的要素が支配的であることに気づく。すなわち、息や体を調えることではなくて、『頭を調える』ということに説明が集中されている。東洋の祈り方には『体と心』があるが『頭がない』。西洋の方法は『体なし』の『頭と心』〔である〕」(奥村一郎選集第八巻、神に向かう〈祈り〉、一三五頁以下)。
16
ガブリエル、SMP、神との親しさ、第二巻、祈りと対神徳、一六頁。
17
東京女子カルメル会訳、イエズスの聖テレジア自叙伝、八章五節、サンパウロ、初版、一九六〇年、一二刷、二〇〇五年、八九頁。以下、自叙伝と略記する。
18
ガブリエルも、「黙想や、黙想を伴った読書は、この念禱の中心に至るための手段である。そこに達する方法が、黙想であろうと、読書であろうと、あるいはまた、何か一つの口禱をゆっくり敬けんに唱えることであろうとかまわない。どの道もみなよく、目的、すなわち神との親密な語らいに最も早く通じるものが、その人にとって最良の道なのである」と解説している(ガブリエル、祈りと対神徳、七九頁)。
19
“Verweilen bei einem Freund, mit dem wir oft allein zusammenkommen, einfach um bei ihm zu sein, weil wir sicher wissen, dass er uns liebt” (Teresa von Ávila, Das Buch meines Lebens, Gesammelte Werke Bd. 1, übersetzt von Dobhan, Ulrich u. Peeters, Elisabeth, Freiburg i. Br. 32004, S. 156 f.).
20
奥村一郎、奥村一郎選集第七巻、カルメルの霊性、オリエンス宗教研究所、二〇〇七年、五九頁参照。
21
ガブリエル、祈りと対神徳、七四頁以下。
22
ガブリエル、祈りと対神徳、六七頁。
23
ガブリエル、祈りと対神徳、六八頁から引用。自叙伝、四章九節、四一頁に相当。またテレサは「わたしのことを言えば、十四年以上も、書物の助けを借りなければ、黙想することもできませんでした」と告白している(ガブリエル、祈りと対神徳、六八頁から引用。イエズスの聖テレジア、完徳の道、東京女子カルメル会訳、一七章三節、一六四頁に当たる)。リジュのテレーズ(幼きイエズスの聖テレジア、一八七三—九七)も、念禱中の無味乾燥に苦しむことが多かったが、この読書による方法をよく用いた。「この無能の状態の中で、聖書と『キリストにならう』がわたしを助けてくれます。けれども、特に念禱ちゅう、わたしのささえとなるものは、なんといっても福音書で、そこからわたしは自分の貧しい小さい霊魂のために必要なものをみなくみ取ります。その中に、いつも新しい光、隠れた神秘的な意味を見つけます」(ガブリエル、祈りと対神徳、六七頁以下より引用。マルタン、テレーズ、幼いイエスの聖テレーズ自叙伝、ドン・ボスコ社、改訂第二版、一九九九年、二六四頁に相当)。
24
ガブリエルは書物の選択について「あまり理論的な本は避けて、むしろ実際的で、愛情をよびさますような本を選ぶべきである」(ガブリエル、祈りと対神徳、六九頁)と述べている。さらに読書の仕方について、「それで、神との対話に入るのに必要な程度だけ、間をおいて、読むべきである。したがって、読んだ事によって——ときには一つの句で十分かもしれない——わたしたちの精神を敬けんに働かせることのできるよい考えや、清い愛情が生じたならば、読書を中止しなければならない。そして直接主のほうに向いて、そのみまえで、読んだ事を黙想するか、自分の心に生じた敬けんの情を沈黙のうちに味わうか、または読書によって思いついた愛のことばを主に申し上げるかするのである。それはいくらか、鳥が水を飲むのに似ている。鳥は頭を水のほうにかしげて、数滴口にふくんでから、くちばしを空に向けて、少しずつ水を飲みくだす。そのあとでまた同じことをくり返すのである」と教えている。
25
ガブリエル、祈りと対神徳、七五頁。
26
ガブリエル、祈りと対神徳、七三頁。
27
イエズスの聖テレジア、霊魂の城、東京女子カルメル会訳、第四の住居、一章七節、ドン・ボスコ社、一九六六年、第十版、二〇〇七年、八四頁。アビラの聖女テレサ、霊魂の城、高橋テレサ訳、聖母の騎士社、一九九二年、第四刷、二〇〇一年、一二〇頁以下。Teresa von Ávila, Wohnungen der Inneren Burg, Gesammelte Werke Bd. 4, übersetzt von Dobhan, Ulrich u. Peeters, Elisabeth, Freiburg i. Br. 22007, S. 144.
28
ガブリエル、祈りと対神徳、八〇頁。
29
ガブリエル、祈りと対神徳、八〇頁。
30
ガブリエル、祈りと対神徳、八一頁。
31
想像力ないし幻想を駆使する祈りについては、アントニー・デ・メロの『東洋の瞑想とキリスト者の祈り』(女子パウロ会、一九八〇年、一一刷、二〇〇二年)が色々な方法を紹介していて、宗教的行における想像力使用の意義について気がつかせてくれる。
32
ガブリエル、祈りと対神徳、八一頁。
33
ガブリエル、祈りと対神徳、八二頁。観想自体については、次節の「テレジア的念禱の進んだ段階」で説明する。
34
ガブリエル、祈りと対神徳、八二頁以下。
35
ガブリエル、祈りと対神徳、九四頁。
36
ガブリエル、祈りと対神徳、九五頁。
37
「念禱ができない人は(…)口禱が読書か、神との会話をなさい。皆が念禱をする時間をぼんやり過ごしてはいけません」(イエズスの聖テレジア、完徳の道、一八章四節、一七三頁)。「私たちが何も考えることができず、くだらない、真の祈りとは考えられないようないろいろな思い出が出てきたり、疲れたり、眠ったりというような状況が続くとき、精神的〔すなわちmensの〕世界から見たら、その念禱は落第だろう。しかし、それでも一時間ぐっとがんばり通したということは、静かでいい気持ちで祈れたことよりも神の前に価値がなかったと、だれが言えるであろうか。だから、そこにある霊について裁くことはできない」(奥村一郎選集第八巻、神に向かう〈祈り〉、一三二頁)。フォーサイスも「もし、祈るのが嫌に思えるときは、あなたはいっそう祈るとよい」といっているそうである(長崎巍、祈り、一七六頁)。長崎自身も少し文脈は異なるが、「聞かれないときにこそ、われわれは*ねばり強く*祈らなければならない」と述べている(同上書、二七三頁)。なお、〔 〕内は、引用文における筆者の補完である。
38
ガブリエル、祈りと対神徳、九六頁。
39
ガブリエル、祈りと対神徳、一〇〇頁。
40
ガブリエル、祈りと対神徳、一〇〇頁以下。十字架のヨハネは、神からくる無味乾燥をその他の無味乾燥から区別する三つの徴について、『カルメル山登攀』二部一三章と『暗夜』一編九章で論じている。
41
奥村一郎選集第八巻、神に向かう〈祈り〉、一七八頁。
42
霊魂の城、第六の住居、一章八・九節。奥村一郎選集第八巻、神に向かう〈祈り〉、一七八頁以下から奥村訳を引用。東京女子カルメル会訳では一七九頁以下。高橋テレサ訳では二二一頁以下。
43
「山僧往日、未有見處時、黒漫漫地。光陰不可空過」(柳田聖山、禅語録、世界の名著続三巻、中央公論社、一九七四年、臨済録、五一節、二七五頁)。
44
一例として、今北洪川の場合は、鈴木大拙、鈴木大拙禅選集新装版第一〇巻、激動期明治の高僧今北洪川、春秋社、一九七五年、二二頁以下を参照。
45
ガブリエル、祈りと対神徳、一〇一頁。
46
ガブリエル、祈りと対神徳、一〇一頁以下。ガブリエルは次のように説明を続けている。「無味乾燥を通って、人はけんそんにも進歩する。(…)ますます自分が無であるとの確信を深め、それを指で触れるように感じる。(…)念禱生活において、すべてがやさしくここちよかったとき、多少知らぬまに心に忍びこんだ自己尊重、自分の力に対する信頼の気持を脱ぎ捨てる。と同時に、自分が主のみまえに、それほど貧しくみじめなのを見て、神の無限の偉大さに対して、より深い敬い、より大きな畏敬の念に打たれる。念禱において、心を開いて親しく神と語りあうことができたときには、その人は、創造主と被造物を常にへだてる無限の距離をいくらか忘れていたかもしれない。(…)自己の無の体験から生じる、このより大きな畏敬の念は非常に貴重である」(ガブリエル、祈りと対神徳、一〇二頁以下)。奥村は、「まったく神から遠ざかり、祈れなくなってしまったと思うとき、むしろ神は最も近くいましたもうのであり、祈りがはじめて本物になりはじめるのである」(奥村一郎選集第八巻、神に向かう〈祈り〉、一四九頁以下)と説明している。
47
ガブリエル、祈りと対神徳、一一六頁。
48
荒木見悟、大慧書、禅の語録第一七巻、筑摩書房、一九六九年、答王教授、一六三頁。
49
完徳の道、二一章二節、東京カルメル訳、二〇四頁以下。そして、「決して立ちどまらない——たとえ何がこようと、何がおころうと、どれほどほねがおれようと、だれがつぶやこうと、また、目的地に着こうと、途中で死んでしまおうと、道で出会う試練に立ち向かう勇気がなかろうと、この世界が崩壊しようと——」と続けている。
50
ガブリエル、祈りと対神徳、一〇七頁。それに対して、私たちは念禱を怠る口実を簡単に見つける。「なんの効果もあげないように見える修行に励むのは、時間を空費することであり、その時間を何かの仕事にあてたほうがましである」とか、「自分のみじめさを痛感するので、自分は神との親密な交わりにふさわしくないから、念禱を続けてもむだだ」(ガブリエル、祈りと対神徳、一〇八頁)と考えたりすることが、それである。
51
「参禅はすべからく三要を具すべし。一には大信根有り、二つには大疑情有り、三つには大憤志有り」(白隠慧鶴、白隠禅師法語全集第七冊、八重葎巻之三、芳澤勝弘訳注、禅文化研究所、一九九九年、一一〇頁)。
52
Teresa von Ávila, Wohnungen der Inneren Burg, S. 379以下の用語解説。カミン、ノバート、愛するための自由——十字架の聖ヨハネ入門、ドン・ボスコ社、二〇〇〇年、七三頁以下。カミンの書ではオスナ以外に、ラレードのベルナルディーノ(一四八二—一五四〇)の『シオン山登攀』や、ドイツのカルトジオ会員で静穏の念禱の大家のハインリヒ・カールラーブが挙げられている。
53
奥村一郎選集第七巻、カルメルの霊性、三八頁。
54
Teresa von Ávila, Das Buch meines Lebens, S. 634以下の用語解説。
55
称名念仏も意識の集中のための修練の一種であるとみなすことができよう。キリスト教では、十四世紀英国の作者不詳(カルトジオ会の修道士ではなかったかといわれている)の『不可知の雲』が第七章末尾で、「単語を念ずる」ことについて論じている。「自分のあらゆる望みを、心の記憶できる簡単な一つの単語にまとめようとするときには、長いものよりむしろ短かい単語を選びなさい。Godとかloveのような一音節の単語が最もすぐれています。しかし、ご自分に有意義なものをお選びなさい。何が起きようがその単語が心に留まっているようにしっかりと心に植えつけなさい。この単語は、苦闘にあるときも平安にあるときも防壁となってくれるでしょう。あなたの頭上の暗闇の雲に突入していくために、この単語を用いなさい。注意を乱すものすべてを克服し、そうしたものをあなたの下方の忘却の雲に引き渡してしまうために、この単語を用いなさい」(Johnston, William (ed.), The Cloud of Unknowing and The Book of Privy Counseling, New York 1973, p. 56)。また、同じ頁では、念ずる単語の意味を考えてはならないことも述べられている。「もし、あなたの心が、この短い単語の意味と含意を知性の力で考えはじめたなら、単語の価値はその単純さの内にあることに再び心をとめるようにして下さい。このようにして下されれば、きっとこうしたもろもろの思いは消失します」。意味を考えないで単語を念じることによって雑念を払い、意識の集中をはかるというのは、坐禅の無字や隻手音声の拈提とよく似ている。称名念仏にもそういう面があるといえる。『不可知の雲』の日本語訳には、奥田平八郎訳、現代思潮社、一九六九年、と、斎田靖子訳、エンデルレ書店、一九九五年、がある。
56
「この念禱の基礎はわたしたちの霊魂における神の現存であって、神はまず、「遍在」によって、わたしたちのうちに創造主、わたしたちの存在の維持者として現存される。(…)わたしたちは「神のうちに生き、動き、存在する」(使徒一七・二八)。(…)次に友情の現存。神は、(…)霊魂のうちに、父として、友として、やさしい賓客として現存〔する〕。(…)「わたしを愛する人は、……わたしの父に愛され、わたしたちはその人のところに行って、そこに住む」(ヨハネ一四・二三)」(ガブリエル、祈りと対神徳、八六頁以下)。
57
ガブリエル、祈りと対神徳、八七頁。テレサも、「主を捜しに行くために、翼の必要はありません。孤独となって、自分の心のうちに主をながめさえすればよいのです」(ガブリエルによる訳、ガブリエル、祈りと対神徳、八八頁。完徳の道、二八章二節、東京女子カルメル会訳、二六〇頁)と語っている。ところで実は、念禱においては、神が霊魂に内在するというだけでは足りず、同時に霊魂のほうが神の内に存在するという面がなければならない。それ故、三位一体のエリザベットもその手紙において、「わたしの神よ、あなたはわたしのうちにおられ、わたしはあなたのうちにおります」(ガブリエル、祈りと対神徳、九二頁)と両面を述べている。その場合、神は世界に広がった神なのであり、わたしの心の奥底の神が、同時に世界に遍在する神なのである。
58
「五官は外部のものから引き退き、それらをまったく見捨ててしまうので、知らないうちに目は閉じ、もう外のものは見ません」(完徳の道、二八章六節、二六三頁)。
59
四部録中坐禅儀。梶谷宗忍、信心銘・証道歌・十牛図・坐禅儀、禅の語録第一六巻、筑摩書房、一九七四年、三刷、一九八一年、一五三頁。大森曹玄、参禅入門〈増補版〉、一九七二年、七刷、一九八〇年、五九頁以下。辻雙明、呼吸の工夫——日常生活の中の禅、春秋社、一九九二年、八刷、一九九六年、一一九頁。半眼にする理由としては、前の註の三位一体のエリザベットからの引用と関係することだが、潜心の念禱が「わたしのうちにおられる神」に沈潜するのに対し、坐禅はさらにその先の、世界に遍在する「仏性」(キリスト教では神)を見ることに向けられているからであろう。
60
苧坂光龍、在家禅入門、大蔵出版、一九六九年、三版、一九七五年、七五頁。伊豆山格堂、夜船閑話、春秋社、一九八三年、一二刷、一九九五年、一七頁。伊豆山格堂、遠羅天釜、春秋社、一九八五年、新装一刷、一九九九年、四六頁。
61
ガブリエル、祈りと対神徳、八九頁。努力と根気を要する点は、坐禅の数息観や無字の拈提でも同様である。
62
「潜心の念禱のときには、黙想や知性の働きをやめてはなりません」(霊魂の城、第四の住居、三章八節、東京女子カルメル会訳、一〇九頁)。「けれども、王様が、聞いていてくださるか、見ていてくださるかもわからないときは、まるでまぬけのように立っているべきではありません。これは知性を沈黙させようと努めた人に、たびたび起こることで、前よりもずっとひどい乾燥に陥り、そのうえ、想像力は何も考えまいとした努力のため、たいていはいっそう落ち着きがなくなってしまいます」(霊魂の城、第四の住居、三章五節、一〇六頁、DobhanとPeeters独訳により修正。また、カミン、愛するための自由、七五頁)。「深い潜心においてさえ、想像はさまよい歩くことをやめない」(十字架のヨハネ、カルメル山登攀、二部一三章三節。ガブリエル、祈りと対神徳、一三一頁による訳。奥村一郎訳、ドン・ボスコ社、一九六九年、七版、一九九八年、一四七頁)。
63
この受動性を守るために修練者の心がけとして、テレサは謙遜を説いている。「もう、一にも二にも、謙そんです」(霊魂の城、第四の住居、二章九節、東京女子カルメル会訳、九八頁)。禅修行においても、無私になるように努めることは大切な心がけである。
64
完徳の道、三一章二節、東京女子カルメル会訳、二八六頁以下。テレサは様々に静穏の念禱を説明している。「からだにはこよなく大きな快さ、霊魂には深い喜びを感じます。(…)諸能力は静まりかえって、少しも動こうとしません。(…)ここではただ意志だけが捕虜(とりこ)にされている。(…)知性も記憶も、ただこれだけが“必要唯一なこと”であって、他のすべては自分を乱すばかりであると知っています。(中略)意志は、私の考えでは、神と一致しているのですが、他の能力は主へのご奉仕にあたるように自由にさせておくのです。それで、知性も記憶も、神へのご奉仕に関しては、いつもよりずっと巧みに働きます」(完徳の道、三一章三—四節、二八八頁—二九〇頁)。「霊魂はまるで、まだ母のふところにいる乳児のようです。子どものほうからお乳を捜さなくでも、母はその口にお乳を流し込んでやり、かわいがってやりますが、今の場合もそうなのです。意志は知性の働きを借りずに愛します」(完徳の道、三一章九節、二九三頁)。「私どもの側からすることと言えば、いちばん多くて、ときどきもらす甘美なひとこと。それは消えかかったろうそくの火をまたかきたてるために静かにそっと吹くようなものです。でももしよく燃えているとき、息を吹けば、かえって消してしまうだけのことだと私は思います。そっと静かに吹かなければ、というのは、知性を働かせてあまりたくさんのことばを並べたために、意志の平安を乱すようなことがあってはいけないからです」(完徳の道、三一章七節、二九二頁)。『霊魂の城』では、静穏の念禱は「第四の住居」で論じられている。「もう一つの泉は、水はみなもと自身から、つまり、神からきます。(中略)私の考えでは、この喜びは心から生じるのではなく、もっとずっと奥の部分、なにか、きわめて深いところからでるような気がします。それは霊魂の核心にちがいないと思います。(中略)この天の水が、(…)私どものいちばん奥深くの泉からわきあがりはじめると、心のなか全体が、はればれとひらき、ひろまってゆくように思われ、なんとも言い表せない恵みを生じます」(霊魂の城、第四の住居、二章四節—六節、東京女子カルメル会訳、九四頁以下)。
65
??頁参照。
66
完徳の道、三一章十節、二九五頁。「私はときとして、考えの騒ぎまわるのに、ひどく悩まされました。そして、今からようやく四年あまり前に、考え——もっとわかりやすくいえば想像——と知性とが、同じものではないということが経験でわかったのです。(…)考え(想像)は普通、すぐ飛びたってしまうもの。(…)私は、一方では霊魂のすべての能力がまったく神に没入し、神のうちに集中しているように思われるのに、他方では、考えがとりとめもなくはせまわるのに、ただ茫然としていたものでした。(中略)自分の考え(注=想像)をとめることもやはり、私どもの力には及びません。そして、私どもはたちまち、霊魂のすべての能力も想像のあとを追わせ、もうだめだ、自分は神のみまえに過ごす時間をむだにしているのだと思ってしまうのです。ところが想像が、こうしてお城の外まわりで無数の野獣や毒獣に苦しめられ、この苦しみで功徳をたてている間に、だぶん霊魂は、中心にいちばん近い住居で、まったく神と一致しているのかもしれません。(中略)ですから雑念が浮かんでも心を乱したりするのはよろしくありません。少しも気にしてはなりません」(霊魂の城、第四の住居、一章八—一一節、東京女子カルメル会訳、八五頁—八八頁)。
67
「そのようにして人間はただ、個々の行為をなすことなく、『愛をこめて注意を向けること』において神のそばにとどまる。そしてその際、自分のほうから努力することなく、端的で単純な『愛をこめて注意を向けること』の内で受動的な態度をとる。それは丁度誰かが愛に満ちた注意でもって目を見開いているようである」(Johannes vom Kreuz, Die lebendige Liebesflamme, III 33, Freiburg i. Br. 2000, S. 138. 十字架の聖ヨハネ著、アルペ、井上共訳、山口女子カルメル会改訳、愛の生ける炎、ドン・ボスコ社、改訂版再版、一九九二年、一三三頁参照)。
68
『不可知の雲』の作者の後年の書簡集である『個人カウンセリングの書』第三章では次のように述べられている。「今や、全的にあなたの本体で、つまり、あなたの裸の存在を捧げることで、神を敬うだけで十分なのです。(…)自己の存在の覚知(awareness of your being)から、自己の存在の諸属性についての思念をすべて脱ぎ捨ててしまいなさい。そして、自己の存在とその他の被造物の存在に関する一切の個別的な些細事から、完全にあなたの心を空虚に(empty)してしまいなさい」(Johnston, William (ed.), op. cit., p. 156)。心を空虚にし、裸の自己の存在の覚知だけになることで、あとは神からの働きを待つのである。以上の「意識の空化」については、拙著、波即海——イェーガー虚雲の神秘思想と禅、ノンブル社、二〇〇七年、四七頁以下参照。
69
「第八頼耶含蔵識、或は無分別識と道ふ。暗鈍昏愚、茫々蕩々、死水の湛寂なるが如し。(…)工夫、次第に成熟して、行て行くことを知らず、坐て坐ることを知らず。空蕩々、虚豁々、万里の層氷裏に侵殺するが如く、瑠璃瓶裏(るりへいり)に坐するに似たり。恐怖(くふ)を生ぜず、前進して退かざれば、即ち忽然として氷盤を擲摧するが如く、玉楼を推倒するに似たり。十方世界、天堂地獄、自らの心身に和して、一時に打破し了る。此を八識田中、一刀を下す底の時節と言ふ」(後藤光村編、白隠和尚全集、第二巻、荊草毒蘂、巻第四、八識弁、一四頁(一一四頁)以下。鎌田茂雄、白隠、日本の禅語録第一九巻、三七七頁—三七九頁)。
70
「百尺竿頭の不動の人、得入すと雖然(いえど)も未だ真為(た)らず。百尺竿頭須らく歩を進むべし、十方世界是れ全身」(入矢義高監修、景徳伝灯録研究会編、景徳伝灯録、第四巻、一一頁。ただし景徳伝灯録では「百尺」が「百丈」になっている)。拙論、西谷啓治における真の自己——長沙景岑の偈頌の解釈、花園大学国際禅学研究所論叢第五号、二〇一〇年。
71
久松真一、覚の哲学、京都哲学撰書第二一巻、美濃部仁編集、燈影舎、二〇〇二年、禅とキリスト教(対談)、三七八頁以下。
72
完徳の道、三一章一〇節、二九四頁以下。
73
visioは「幻視」または「出現」(Erscheinung, apparition)と訳される。後者の「出現」は「示現」とも訳される。幻視と出現の違いは、実在しないかするかだ、という人もいるが、問題の解決にはならない。なぜなら、その次には、実在の定義が問題となるからである。
74
特に『霊的報告』を参照。イエズスの聖テレジア、小品集、東京・福岡女子カルメル会訳、ドン・ボスコ社、一九七一年、三版、一九九三年、一七九頁以下。
75
この点では、同僚だった十字架のヨハネのほうが徹底しており、禅に近い。ヨハネは一切の示現から離れることを勧めた。「そこで、そうした知覚にしても、想像に映ずるヴィジョンにしてもすべて、またどんな形や種類のものにしても、何かの形やイメージ、あるいは個々の知的形態をとって示されるものであるならば、それが悪魔に由来する偽りであるにせよ、あるいは神からくる真実のものであることが分かるにせよ、理性がそれにこだわって、そこの糧を求めたりそこに心をとめていてはならないと私は言うのである。というのも、神との一致のためには、霊魂は、そうしたものから離れて、赤裸になり、そうした形のものは何もないまでに、清く洗われたものにならなくてはならないからである」(十字架の聖ヨハネ、カルメル山登攀、奥村一郎訳、ドン・ボスコ社、一九六九年、七版、一九九八年、二部一六章六項、一六六頁以下)。ヨハネは一切を否定した上で一切を回復しようとする。その「無と全」(nada y todo)の思想は、『カルメル山登攀』一部一三章一一項に典型的に描かれている。ヨハネの著作には、テレサとちがってあまり人性としてのイエスが登場しないことも、禅の精神との近さを思わせる。
76
自叙伝、一〇章一節、東京女子カルメル会訳を参考に、Teresa von Ávila, Das Buch meines Lebens, S. 171から筆者訳。
77
霊魂の城、第五の住居、一章九—一〇節、東京女子カルメル会訳を参考に、Teresa von Ávila, Wohnungen der Inneren Burg, S. 180以下から筆者訳。この第五の住居で論じられている一致の念禱は、まだ束の間のものである。『霊魂の城』では、これから先第七の住居に至るまで、一致の念禱は深められ、完全なものになっていく。テレサは第七の住居で、一致の極致である霊的婚姻について次のような比喩をもって説明している。「でもここでは、まるで、川か泉に天から水が落ちたようで、すべては同じ水になってしまい、流れの水と天から落ちた水とを分けることも離すこともできません。あるいはまた海に注がれた小さな川のようで、もう海から分かれることができません」(霊魂の城、第七の住居、二章四節、東京女子カルメル会訳、三三〇頁以下)。他方、禅のほうでは『六祖壇経』(敦煌本)で見性を比喩で説明して、「猶お大海の衆流を納(い)れて、小水大水合して一体と為るが如し。即ち是れ見性なり」(ちょうど海洋がもろもろの流れを受けいれて、小さい川も大きい川もすべて一体とするようなものである。つまりそれが見性である)(柳田聖山、禅語録、世界の名著、続三巻、中央公論社、一九七四年、一三〇頁、一三二頁)と述べられている。二つの比喩の符合はきわめて印象的なものであって、テレサの「一致」の経験と『六祖壇経』の見性経験とが類似していることが示唆されていると見ることもできる。
78
万有内在神論(Panentheismus)とは、ドイツの哲学者クラウゼ(Karl Christian Friedrich Krause, 1781–1832)によって唱えられた考え方。汎神論(Pantheismus)のように神と万有が同一なのではなく、神の内に万有が内在し(All-in-Gott-Lehre)、神は万有に超越するとともに万有に内在するという見方。汎神論と唯一神論の和解が試みられている。
79
十字架のヨハネにとっても、神は一切の事物に現じているものであった。彼は、「神はその本質において無限の優越性でもってこれら一切の被造物である」(十字架の聖ヨハネ、愛の生ける炎、四章五節、一九三頁)と述べている。また「霊の賛歌」という一連の詩群において、その境涯が述べられている。「私の愛する方は 山々 / 森におおわれた 人影なき谷 / 見たこともない島々 / ひびきわたる流れ / 愛のそよ風の ささやき」(ルシアン・マリー編、西宮カルメル会訳注、十字架の聖ヨハネ詩集、新世社、二〇〇三年、五一頁)。また、一切の事物が自己であることについても、「愛に燃える魂の祈り」において「天は、わがもの、地は、わがもの。人々は、わがもの、正しい人も、罪人も。天使も、神のみ母も。すべては、わがもの。神ご自身も、わがもの、わがためのもの。キリストも、わがもの。すべては、わがためのものならば、わが魂は何を求めて探すのか?これらすべては、お前のもの、すべては、お前のためであるのに」(奥村一郎選集第七巻、カルメルの霊性、一四八頁以下より引用)と歌われているところに示唆されているといえる。
80
??頁註3.2参照。
81
『無門関』第二三則「不思善悪」。「不思善、不思悪、正与麼の時、那箇か是れ明上座が、本来の面目」(明蔵本『六祖壇経』行由第一)。
82
Enomiya-Lassalle, Hugo M., Zen und christliche Mystik, Freiburg i. Br. 1986, IV 2, Religiöse Bewertung des Satori, S. 485. Enomiya-Lassalle, Hugo M., Erleuchtung ist erst der Anfang: Texte zum Nachdenken, hrsgegeben von Gerhard Wehr, Freiburg i. Br. 1991, S. 124. C. f. Enomiya-Lassalle, Hugo M., Zen-Meditation für Christen, S. 88 und Enomiya-Lassalle, Hugo M., Kraft aus dem Schweigen: Einübung in die Zen-Meditation, hrsgegeben von Günter Stachel, Düsseldorf 1994, 41998, Paperback-Ausgabe 2005, S. 77.
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平井俊榮訳、大乗仏典〈中国・日本篇〉、第二巻、肇論・三論玄義、肇論、涅槃無名論第四、九つの問難と十の答釈、第七、玄妙なる存在、九一頁。入矢義高他訳注、碧巌録(中)、ワイド版岩波文庫、岩波書店、一九九七年、第四〇則「南泉如夢相似」、九九頁以下。

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