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特集

日本映画監督協会 会員名鑑

エッセー

第16回 『東映!』
祝!東映Ⅴシネ25周年

この文章は洋泉社『月刊映画秘宝』誌に連載中(2014年2月現在)のものです

高瀬 将嗣


150213.jpg       画像は初監督作「極道ステーキ」で清水宏次朗さんに古武術指導中の筆者。

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私のような殺陣師風情が監督業を営めるようになったのも、ひとえにオリジナルビデオ=通称Vシネ(註1)が勃興したからであります。

聞けば東映Vシネマは発足25周年とのこと、映像ジャンルとして定着した感は否めませんが、創成期はやや差別的にとらえられていたのも事実。

昭和の末期、私が「ビー・バップ・ハイ・スクール(昭和60年 東映 監/那須博之)」の技斗を担当してへろへろになっている頃、その「ビー・バップ~」をアニメにする企画が東映で持ち上がりました。

アニメの監督さんいわく「リアルな格闘のリアクションや衣装の動きを再現したいので、実際の技斗を撮らせてもらえないか」とのこと。

これって、今でいうモーションピクチャーみたいなモノですね。

その企画のプロデューサーは東映不良性感度満載の作品群を手掛けた有名な方(註2)。「かつてのプログラムピクチャーをビデオでやろうと思ってるんですよ。言ってみればビデオ映画。わははははは!でも、予算は映画並みとはいかない。だから予告編の代わりにCMを入れて予算の足りない分を補うんですよ、わははははは!」

発想がすごいなぁって、感心するとともに圧倒されました。

それからほどなくして東映はホントにビデオ映画=東映Vシネマを立ち上げたのであります。

CMこそ入っていませんでしたが、輝く一本目の作品こそ、ガンアクションを一新させたことで歴史に残る「クライムハンター(監/大川俊道)」シリーズでした。

註1 「Vシネマ」が東映の登録商標なのは有名だが、もはや一般名詞化した感あり。他社も「Ⅴムーヴィー」とか「ビデオフィーチャー」とかいろいろ名称を考えたものの、本家を超える事はできなかった。

註2 東映大泉にその人ありと言われた吉田達氏。「映画はヒキをどう撮るかですよ。ヨリのカットバック連発は演出力のない証拠」とお話をいただいたのが勉強になりました。

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さて、当時の東映社長・岡田茂が日活撮影所所長だった黒澤満をヘッドハンティング、その人脈を生かして「ビー・バップ・ハイ・スクール」や「あぶない刑事」などの製作にあたらせ、あわせて同時期に並行された新ジャンルのVシネマに多くの日活OBが参加したのは興味深いエピソードです。

Vシネは、はじめこそ「映画やテレビで最近見なくなったスター」的なキャストの小品という感は否めませんでしたが、すんなり市民権を獲得、予算も通常の映画に迫る6~8千万円で仕切らました。

企画自体は次第にエンターテイメント化し、どの作品も必ずアクションが必須となって、私のような「口だけ」殺陣師も作品の掛け持ちを余儀なくされました。

ちなみに初のVシネマ技斗担当作品は「狙撃THE SHOOTIST (平成元 監/一倉治雄)」で、主演は仲村トオル。

東宝の「狙撃(昭和43年 監/堀川弘通)」をベースにした作品ですが、ほぼオリジナルで、トオルさんにとっても初のハードボイルド作品でした。

翌平成2年には工藤栄一監督の「裏切りの明日」であります。主演はショーケンこと萩原健一。この人のアクションはすっごくアグレッシブでヒヤヒヤしたものです。

仲村トオルが主演するなら当然ヒロシこと清水宏次朗だって「獣のように(監/岡康季)」でVシネマデビュー。

そして「ベレッタM92凶弾(監/原隆仁)」。岩城滉一主演で、当時ビデオの本数が最も出た作品と称賛されました。

秋には「河内残侠伝 軍鶏」。

ニワトリが闘う話ではなく、今や国会議員の三原じゅん子主演のアクション。監督は東映京都で「仁義なき~」をチーフ助監督として仕切った俊英・土橋亨。本作で「それまでの大阪のキャリアを捨てて東京でやっていきたい」と不安そうにしみじみ語っていたのが、のちの「アヘアヘマラソンマン」間寛平でした。

続いて中島紘一監督、神田正輝主演による「野獣かけろ」。神田さんは素晴らしい身体能力で、敵役との戦いを説得力あるものにしてくれました。この敵役こそ、のちにVシネマに欠かせない演者となった菅田俊その人であります。

私の都合一年間の技斗担当だけでもこの作品数なので、総製作本数たるや推して知るべし。

ところで監督という作業はロケハン等の準備に始まり、撮影、そして編集等の仕上げをもって完遂します。

ですからどんなに短く見積もっても一本につき一ヶ月半から二ヶ月は拘束されるわけで、一人で撮れる本数は年五~六本が限界でした(註3)。

ちなみにアクションというジャンルは文芸物にくらべて一段低く見られがちですが、実は撮るのはタイヘンな代物です。

セリフのやり取りなら、俳優が覚えてさえいればいくらでも尺(長さ)が稼げますが、アクションだとそうはいかず、1分のチャンバラや格闘を構成するのはなかなか骨が折れ、何度もRHを返しようやく本番、NGでも出ようものなら俳優の息が整うまで待機です。

それを上手にコントロールして適宜中抜き(カットの順番を飛ばして同方向で撮ること)を駆使し、安全管理のできる(註4)監督こそアクションが仕切れるのです。

でも、そういう手練監督の絶対量は限られているわけで、作品数に追いつかない状況となってきたのは必然でした。

「それなら殺陣師に監督させてみるか。アクション指導料も浮くし」。

それで抜擢されたのがワタクシだったのですね。

「カシラ(註5)の監督なら出てもいいです」とOKしてくれたのが主演の清水宏次朗。

作品の原作は「極道ステーキ(原作・工藤かずや 土山しげる作・画)」(註6)という、若いヤクザが主人公のコミックスで、主人公を支える大幹部にはⅤシネはおろか本格的ドラマ初出演の間寛平、その親分に「死神博士」天本英世、ヒロインにはジェリー藤尾の愛娘・藤尾美紀とクラッシュ・ギャルズのライオネス飛鳥、意地悪な兄貴分に元・ずうとるびの新井康弘とキラー・カン、そして大ガタキに菅田俊と渡辺哲、その親分に我王銀次ら、当時でもユニークな面々を配することができ満足した思い出があります(註7)。

実のところ寛平さんはマラソンで注目され始めていました。そのストイックな人となりはシリアスなヤクザの幹部にぴったりと推薦したところ、製作会社から「......それは勘弁してほしい」と難色を示されたのです。「『アヘアヘ』とか、『くっさ~』のヒトにヤクザの幹部ができますかね?」(註8)。

私は喜劇人のシリアス演技が想定以上に化けた例をたくさん見てきましたので、粘りに粘り寛平さんの出演を成立させたのです。

実のところこの製作会社は、大資本である不動産業の親会社の節税対策として急遽設立されたものでした。

予算を全額自社で賄えるのは見事でしたが、いかんせん社員のほとんどが映画とテレビの区別もつかないドの付く素人サンで、キャスティングした俳優部はもとよりスタッフの拘束もまったくコントロールできず、したがってクランクイン前にチーフ助監督が失踪、オールスタッフ会議は当日に中止となったのです。

こうして私のVシネ監督渡世は、暗雲の中幕が切って落とされたのでありました。

註3 東映の一時代を築いた小沢茂弘は昭和30年代後半、年平均六本監督している。さらに「東映の天皇」と称された松田定次は昭和11年に九本を監督。その弟のマキノ雅弘は、きちんと調べてないが年間二ケタ撮った時期があると推測される。クオリティを保ちつつですから超人的ですね。そもそもこれはチョー売れっ子の場合で、5年に1本の人やデビュー作以来ご無沙汰の人だって少なくないのが監督業界。

註4 別に俳優の身体を配慮しているわけではなく、もしものことがあったら撮影が中断するから。だから代わりがいくらでもいるカラミ役は心配してもらえないのが常だった。

註5 ワタクシの現場での呼称。戦前から殺陣師はこう呼ばれる。歌舞伎町の有名な喫茶店「パリ○ェンヌ」で打ち合わせ中、スタッフが「かくかくしかじかで、カシラ、」と呼びかけた刹那、その筋系の客が一斉にこちらを見やり、生きた心地がしませんでした。

註6 ヤクザがステーキハウス経営に乗り出し抗争を展開、という話ではない。原作者に伺ったら「編集者と打ち合わせをした場所がステーキ屋でしてね。とりあえず仮題を極道ステーキにしといたらいつの間にか本題になっちゃって」とのこと。

註7 ゲストの面々では、舎弟となる役どころにフックンこと布川敏和、関西の大親分に往年の大スター・高田浩吉、ヒロインに元祖美少女・佐倉しおり(惜しまれつつ引退)、特筆ものでは今メガブレイク中の坂上忍に主人公の宿敵で出てもらいました。

註8 結果として寛平さんはスタンダードな演技者として評価を獲得、当初難色を示したプロデューサーは「私が薦めた通りでしたね!」と絶賛、「ファンキー・モンキー・ティーチャー」という主演シリーズを製作しました。寛平ちゃんと岡八郎の区別もついてなかったのにね(「アヘアヘ」は寛平さん、「くっさ~」は岡さん)。

文中敬称略
つづく