【高橋惠子 芸能生活42年回顧録「女優物語」(8)】
「私、女優を辞めます」——。昭和46(1971)年の初夏、私は大映撮影所の所長にこう伝えました。多忙を極めるスケジュールに加え、「奔放な女優・関根恵子」のイメージと素の自分とのギャップに悩んだ末の結論です。私は本気でした。
ところが、所長は「関根君の意思は尊重したいが、すでに次の主演作品が決まっている。辞めるのは撮影終了後にしてくれないか」。辞める決意は固かったものの、“立つ鳥跡を濁す”は本意ではなかったので「分かりました。次の作品の撮影が終わったら、辞めさせていただきます」と答えました。次回作を撮り終えたら、正式に女優を廃業できる…。おかしな表現かもしれませんが、私は辞意を認めていただいた結果、晴れ晴れとした気持ちで次回作に取り組むことができました。
その次回作が、この年の9月に公開された「遊び」です。メガホンを取ったのは、東宝の黒澤明監督や松竹の野村芳太郎監督と並んで、“巨匠”と称されていた大映の増村保造監督でした。ただし、ストーリーは16歳の少女が過酷な運命に翻弄されていく、というもので、それまでの私の主演作とあまり変わりません。
ところが…。撮影が始まると、私は初めて「女優になってよかった」と本気で感じたのです。ストーリーも過去5作品とそれほど変わらないし、ヌードになることも同じでした。どこが違っていたのか? それまでの出演作と決定的に異なっていたのは、増村監督の存在でした。
「映画とはこうあるべきだ」という情熱が、そのまま形になった増村監督の取り組み方に私は感動しました。デビューして1年以上たっていましたが、私は「一から女優業に取り組もう」と改めて決心したのです。
ですから、「遊び」の撮影中に所長には辞意の撤回をお伝えしました。文字通り、心機一転、女優としてやっていこう——。迷いも吹っ切れて、撮影に臨んだのが、主演7作目の「成熟」でした。
おかげさまで「遊び」と「成熟」はともに興行面でも成功を収め、スタッフと喜んだ矢先の11月のことです。大映が倒産…。この一報が私のもとに届きました。もともと私が入社した昭和45(70)年4月の時点で、経営危機はささやかれていました。
ですが、「危ないらしい」という噂と、本当に倒産してしまうのとではまるで次元が違う話です。タイミングも最悪でした。個人的なこととはいえ、一度は引退を決意し、増村監督と出会ったことによって翻意した、その直後の倒産です。
「私の運命は、これからどうなるんだろう…」。将来に対する大きな不安を抱えた私は、このときまだ16歳でした。
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