野口旭の「ケイザイを斬る!」
第2回 「構造」なる思考の罠

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イラスト:藤本康生
「構造」好きの国民性?

 筆者がかつて深く尊敬していた経済学者が口癖にしていたとされる、有名な言葉がある。それは、「日本人は問題がわからなくなるとすぐに、これは構造問題だ、と言う癖が昔からあるんだよ」というものであった。その言葉が発せられたのは、「日本経済の二重構造」などという概念がまだリアリティを持っていた、およそ30年くらい前のことである。それは、21世紀の現代日本にもそのまま通用する、まさに不滅の名言であった。小泉純一郎首相による「(この十年間に)財政出動、減税、ゼロ金利をしてきたのになぜ効かなかったのか。構造に問題があるからだ」なる国会答弁がなされたのは、2003年1月23日のことである(『日本経済新聞』2003年1月23日夕刊)。

 とはいえ、最近の小泉首相の口調は、構造改革フィーバーの頂点にあった首相就任当時とは明らか異なっている。この2003年1月23日の国会答弁においても、「政策転換は全然していない」と述べつつも、「いかに早期に(物価上昇率を)ゼロ以上に変えていくかについて政府が日銀と一体となって考える必要がある」とし、デフレ克服のため金融政策を重視する考えを改めて強調している。遅きに失した観が強いとはいえ、きわめて望ましい政策転換である。小泉首相は、「公約違反」なる野党からの批判に対して、経済情勢の変化などを理由に、「もっと大きなことを考えなければならない。この程度の約束を守れないのは大したことではない」と反論しているが、まったく正しい。自分の小さなメンツにこだわって人々を路頭に迷わせるような政治家は、政治家としては失格である。

 不幸なことに、現在の日本には、事態の本質を理解しようとせず、人の足を引っぱることでしか能力を発揮できない小人たちが、あらゆるところに跋扈している。「公約違反」をあげつらって悦に入っている野党党首などは、その最たるものであろう。「インフレ目標」という言葉を聞いただけで訳もなく拒否反応を示す一部政治家、財界人、マスコミも同様である。

 そのような人々がきまって口にする言葉がある。それは、「小手先の政策ではなく『構造』を変えなくてはダメだ」である。では、彼らのいう「構造」とは何なのか。少なくとも筆者の経験では、それを問いつめてみても、無駄である。というのは、「構造」なる言葉は、ほとんどの場合において、実体のない単なる記号でしかないからである。

 筆者はこれまで、巷で言われている構造問題や構造改革なるものの無内容さ、空虚さを、自分でも嫌になるほど論じてきた1)。とはいえ、その成果といえば、筆者の微力をもってしてはいかんともしがたいというしかない。デフレ不況がますます深刻化しつつあるごく最近でさえ、「構造」を連呼する論者たちの影響力は、一向に衰えをみせない。それどころか、新しい意匠の「構造」論が、これでもかというように生み出されてくる状況である。その最新版は、金融政策の有効性を否定する論拠として最近とみにその露出度が高まっている、「構造的デフレ」なる議論である。

1) 「構造問題説の犯罪性」(森永卓郎『日銀不況』東洋経済新報社、2001年)、『構造改革論の誤解』(田中秀臣氏との共著、東洋経済新報社、2001年)、「構造問題説の批判的解明」(原田泰・岩田規久男編『デフレ不況の実証分析―日本経済の停滞と再生』東洋経済新報社、2002年)など。
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