気分爽快! 中部英傑伝
1950年・昭和25年、CBC創立以来の50年間に、様々な分野で中部を築き活躍した人々を紹介し、その人間ドラマとともに激動の半世紀を振り返る、「中部英傑伝」!

今週の英傑は

月25日(月)〜9月29日(金)/プロ野球選手・イチロー



9月25日(月)
1994年9月20日。オリックスの本拠地・グリーンスタジアム神戸の対ロッテ24回戦。イチローはその夜、右翼線へ鮮やかな二塁打を放ち、200本安打を達成します。すでに6日前には、藤村富美男の日本記録・年間最多数安打191本を破っていました。日本球界前人未踏の偉業を、プロ入り3年目若干20才のイチローが成し遂げたのです。プレッシャーは無かったか、という記者の問いかけに、「自分はバッターボックスに入ると妙に落ち着く。精神が苛立って眠れない日でも、あの四角い長方形の枠に入って相手投手とむきあうと、不思議と落ち着いてすべての集中力が白球に乗り移るんだ。」と答える。イチローにとっては、人生イコール野球なんだと、その記者は感じ取ったといいます。
 イチローは、小さい頃からプロ野球に対するビジョンを明確に打ち出していました。小学校の卒業作文では、全国大会に出場したときに確認した自分の投手としてのレベルと、打者としての年間打率などを冷静に評価したうえで、「夢」を語っています。「自分は3才から練習を繰り返し、小学校3年になってからは、365日のうち360日練習している。だから、将来必ずプロ野球選手になる。入団したい球団は、中日ドラゴンズか西武ライオンズ。ドラフト入団の契約金は1億円以上を目標とする。プロ野球選手となって試合に出られたら、お世話になった人々に招待券を配り、応援してもらいたい。」未来予想図はかなり的確に出来上がっていた、と言えます。
 結局1994年のシーズン終了後には最多安打数210本となり、連続試合出塁69試合など数々の新記録をうち立てます。「記録は結果にすぎない。一打席一打席を理想のフォームで振り抜くこと、僕はそれだけを考えている。」
ストライクゾーンにきたボールを独自のバットコントロールで無心に打つ。どんなボールがこようと、ストライクゾーンにきたボールをヒットにできなければ自分のせいだと悔しがる。そのイチローの野球哲学が、1995年、オリックスをリーグ優勝へと導いたのでした。

9月26日(火)
イチローの父・鈴木宣之は、その著書「父と息子」の中でこう語っています。「毎日の努力はずっと続けていれば必ず報われる。その遙か彼方の一本のろうそくの灯りにたどり着くことができる。」
イチローのルーツは、紛れもなく父・宣之の指導で練習に励んだ少年時代にあります。実家は愛知県豊山町。家から300メートル離れた町営の伊勢山グラウンドで、学校が終わると毎日日が暮れるまでふたりっきりで練習。それは、軽いキャッチボールに始まって、「50球前後のピッチング」「70個のボールを使い、3クールで約200球打つ、ティバッティング」「内野ノック50球」「外野ノック50球」そして「フリーバッティング」といった、実に合理的なメニューでした。そして親子の練習法でもうひとつ語り草になっているのが、バッティング・センター。夜になると、やはり実家近くにある空港バッティング・センターへ通う。ふつうは120キロまでしか出ないボールを125キロまで出るように調節してもらい、バッターボックスを1メートル前に近づける。父親はイチローの後ろに立ち、「ストライク!」「ボール!」の判定をする。つまり、ボール球を見送りストライクだけを打つように訓練する。狙った球だけを確実に打てる、という一流選手のセンスを、イチローは、このバッティング・センターで培ったのです。
父・宣之の指導は、漫画「巨人の星」の一徹・飛雄馬にたとえられがちですが、決してスパルタではありませんでした。とにかく、ほめる。「よくやった。この調子なら、プロになれるぞ!」無理なこと、嫌がることはやらせず、プロ野球選手への夢を育てる。そのサポーター精神は、朝晩の足裏マッサージに象徴されます。父が息子の足を揉んでやる。実に思い立ってから7年間、その日課は続きました。 足を揉みながら、父親は何度も息子に語りかけます。
「人生には、ただ一本のろうそくしかない。その一本の道を求めていけ。」 プロ野球への道。それはまさしく親子で歩み、親子で手にした灯りでした。

9月27日(水)
「名電高、鈴木選手、オリックス」1991年11月22日。ドラフト会議で、オリックス4位指名。それがプロ野球選手・イチローの運命の瞬間でした。
「自分は将来、プロ野球選手になる。」こう信じて疑わず、努力を重ねてきたイチローにとって、自分の目標とするプロ野球のバッターは、世界的ホームランバッター・王貞治でもなければ、ミスタープロ野球・長島茂雄でもありませんでした。同じ愛知県出身の藤王康晴、そして、現在も実家の自室にただ1枚残っているサイン色紙が物語る、中日時代の田尾安志。やはり、地元中日ドラゴンズの選手達だったのです。父・宣之も祈るような気持ちで中日の指名を期待して、ドラフト会議の中継を見つめていたといいます。
イチローは、愛工大名電時代、エース投手として甲子園に出場しました。しかし、初戦で天理とぶつかり敗退。当時中日のスカウトは、ピッチャー・スカウトの池田英俊でした。イチローに対する評価は、「体も出来上がっていないし、プロ野球の投手としてはちょっと物足りない。」というもの。結局、その判断がイチロー指名をためらわせました。実際、高校時代のイチローは非常に華奢でした。ダイエーの工藤をはじめ11人のプロ野球選手を育てていた同校の中村監督は、1年生のイチローに会ったとき、「この体ではプロ野球はおろか、高校野球でも無理だ」と半ばがっくりしたと語っています。
いずれにしてもこのイチローをめぐるドラフト指名は、後に各球団のスカウティングの視点に大きな教訓をもたらすことになりました。
当のイチローは、この日父に次のような感想を打ち明けています。
「自分を必要としている球団があったということだけでとても嬉しい。4位指名というのも、みんな注目しないし気楽にやれる。そうしているうちにプロのスピードについていける体力ができてくるから、僕は気にしていない。」
そのことばどおり、入団一年目にして早くも一軍入りを果たすことになるのです。

9月28日(木)
「このままではおまえの持ち味が殺されてしまう。もう一度原点に戻ろう。」
入団1年目の秋。河村二軍打撃コーチのその一言がイチローを救いました。
すでに独自の一本足打法でウエスタンの首位打者となっていたにもかかわらず「上で通用するフォームにしなければ」という首脳陣の方針により、徹底的にフォーム矯正指導を受けていたイチロー。本来の打撃コントロールを失いつつありました。見るに見かねた河村は、矯正にストップをかけ、イチローと二人三脚で新打法を作り上げます。自然な一本足から意図的な一本足へ。いわゆる振り子打法の誕生でした。野球技術論の第一人者・村上豊は、「これまでの日本の野球は、後ろ足に体重をためたままで打つ。その一方で腰の回転で打てと教えられてきた。イチローの最大の功績は、技術的に前足軸打法の優位性を知らしめたことだ。」として、「振り子打法」というよりは、体がスライドして前足に体重がかかる、「ピッチング打法」と分析しています。
この打法はイチローを蘇らせました。しかし、再び一軍入りしたイチローに「待った」をかけたのが、当時オリックスの監督だった土井正三。「あんなんでは体の芯が流れてしまっているから打てない。足が速くて左バッターだから、太くて短いバットで地面に叩きつけるバッティングをさせろ」対してイチローはきっぱりと言い放ちます。「僕はこれで高校時代から打ってきた。これが自分のバッティングです。来たボールをしっかりと振り抜くことだけを考えていますから、姑息なバッティングはしたくない。」翌日土井監督はイチローを二軍に落としてしまいます。「このままでは自分の野球生命は終わってしまう。」
半ば絶望的な想いにかられながらも、これ以降、イチローは、何度フォーム改造を命令されても頑なに自分のフォームを守り抜きました。やがて、オリックスは3年間の土井時代に幕を引き、柔軟な野球哲学を持つ仰木・新監督と新井・新打撃コーチを迎えます。そしてそれは、「イチローが打つとオリックスが勝つ」仰木・イチロー黄金時代の幕開けでもありました。

9月29日(金)
仰木式若手起用法とは、まず、「珠は磨けば必ず光る」「光らせるためには経験する場を与える」「常に白紙の状態で見てやる」「可能性に賭けることに、監督自身が積極的になる」そして、「野球では皆同じ目標を持っている。世代間のギャップは不要」ということ。仰木監督のこの哲学により、かつて、イチローと同じように才能を開花させた選手がいました。
イチローにとっても、決して忘れることのできない選手。それは、メジャーリーグで一大旋風を巻き起こした野茂英雄投手です。
野茂とイチローは、実際にはほとんど顔を合わせることはありませんでした。 1992年9月21日、初対決で三振。以降3年間で13打数4安打1本塁打、3割8厘という記録が残っています。野茂が全盛だった翌年はイチローは土井監督に嫌われ、ほとんどが二軍暮らし。逆にイチローが全開した1994年は、野茂は右肩を痛め、二軍落ちしていました。 そんな二人だけに、対戦はわずかでした。
1993年6月12日。イチローはまだ一軍と二軍をいったりきたりしていました。そんな時期の新潟遠征、長岡市の悠久山球場。狭い球場を風に乗った打球がライトスタンドへ吸い込まれる。あの野茂から打ったホームラン。しかも、イチローにとってはプロ野球人生で初めての一発でした。この年、ホームランはこの一本だけ。そのうえ、その一打後に「大振りになった」と言われて二軍行きを命じられたのでした。色々な意味で印象的な野茂対決の一場面だったわけです。その時の興奮を振り返るイチロー。「球は真っ直ぐでした。あのフォークは、僕なんかには投げてくれませんでした。野茂さんのフォークは本当にすごい。」そのことばにはすでにメジャーリーグで活躍している野茂への尊敬と羨望の気持ちが表れていました。「僕もスタミナがあれば、勝負に出たい。」ともらしたのは本音でした。新たな夢をメジャーリーグに求めるイチロー、実現へ向けての挑戦が始まろうとしています。


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