今年2月のベルリン国際映画祭で初公開された映画「Minamata(ミナマタ)」。作中で描かれる米国人写真家ユージン・スミス(1918~78)は水俣で患者家族に密着し、水俣病の惨禍を世界に伝えた。二人三脚で撮影の月日を過ごした元妻のアイリーン・美緒子・スミスさん(69)=京都市=は、今も水俣を訪れる。彼女が「終わっていない」という公害病は5月1日、公式確認から64年になった。

 患者家族が集う水俣の施設で、アイリーンさんは患者家族と語らう。久々であっても距離はない。ほぼ半世紀の付き合いになる。

 ユージンとともに熊本県水俣市の駅に降り立ったのは71年の秋。前年、ニューヨークの仕事場で日本人から水俣病の話を聞いた。アイリーンさんは米国人の父と日本人の母の間に生まれ、東京育ち。11歳の時に米国に渡っていた。「ふるさとが壊される」との思いに駆られ、向かった水俣だった。

 水俣で患者家族から瓦ぶきの平屋を借りた。一帯は患者が多数確認された地域。ここを拠点に、辛苦に耐えつましく暮らす患者らの家に通った。患者の田中実子(じつこ)さん(66)、母親のおなかにいる時にメチル水銀にさらされ、生まれながら患者だった上村智子(かみむらともこ)さん(77年に21歳で死去)と坂本しのぶさん(63)――。時に食卓を囲み、飲み、歌った。日本語がわからないユージンのそばで通訳もした。そうして暮らしににじむ被害に迫った。

 患者家族が原因企業チッソを相手に初めて起こし全面勝訴した第1次訴訟(69~73年)や、東京のチッソ本社での交渉。山場を迎えた水俣病事件史の渦中で、病身を奮い立たせる患者たちを、その日常を、ユージンと共にフィルムに刻んだ。72年には患者らと訪れた千葉県のチッソ石油化学五井工場で、ユージンは暴行を受け重傷を負う。アイリーンさんは加害企業のむき出しの力も目の当たりにした。水俣での3年は、2人の写真集「MINAMATA」(75年)に結実した。

 「水俣病は何度も『終わった』…

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