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コンクールについて


静岡国際オペラコンクールとは

「静岡国際オペラコンクール」は、静岡県ゆかりのプリマドンナ三浦環をたたえ、没後50年にあたる1996年から、静岡県が3年ごとに開催しているコンクールです。このコンクールは、声楽界における有能な人材を発掘することはもとより、広く音楽文化の発展を願うとともに、国際交流を通して内外との連携を深め、世界に広がる“しずおか文化”を創造することを目的としています。

写真提供 佐藤 玉喜
 

三浦環(みうらたまき)

三浦環は、明治17年(1884)に東京の京橋で、静岡県城東郡下朝比奈村(現 御前崎市)出身の父柴田熊太郎と城東郡小沢村(現 菊川市)の永田家から嫁いだ母登波の間に生まれました。幼い頃から、箏、長唄、日本舞踊などの芸事に豊かな才能を示し、美しい声の持ち主としても評判でした。16歳で東京藝術大学の前身、東京音楽学校に入学、明治36年(1903)、19歳で日本人の演じた最初のオペラ「オルフォイス」の主役に抜擢されました。その後、帝国劇場の専属プリマドンナとしても活躍しました。

大正2年(1913)、遠縁の帝国大学医学部助手(医学博士)三浦政太郎と結婚。しばらく、三浦の故郷、掛川で生活しました。大正3年(1914)、夫とともにドイツに留学しましたが、第1次世界大戦が勃発したため、ロンドンへ逃れ、大正4年(1915)、ロンドンオペラハウスで、「蝶々夫人」の主役を務め、大好評を博しました。作者のプッチーニ自身からも「マダム・バタフライはタマキ・ミウラのために作られたようなもの」と絶賛され、アメリカやイタリアで『蝶々夫人』のプリマドンナとして大活躍しました。大正11年(1922)、1回目の帰国をしましたが、その際、浜松をはじめ66回の「三浦環独唱会」を開催し、東京市内ではレコード8万枚を売り上げる記録的なセールスとなりました。

その後、再び海外を中心に公演活動を行い、昭和3年(1928)、45歳の時には、カーネギーホールで「三浦環独唱会」を開催しました。昭和10年(1935)、イタリアのパルレモでの『蝶々夫人』2000回目の公演を終えると、環は日本に帰国し、歌舞伎座での『蝶々夫人』の日本初演など、国内で精力的にオペラなどの公演活動を行いました。しかし、次第に戦時色が強まり、山中湖畔に疎開、そこで母登波を亡くしました。戦争が終わり、再び演奏活動を始めましたが、体調を崩し、昭和21年(1946)5月26日、東京帝大付属病院で永眠しました。享年62歳でした。

参考文献 『考証 三浦環』(田辺久之著)

コンクールの特徴

世界各国の声楽家や他の一流コンクールの上位入賞者からの多数の応募、そして厳しい審査基準により、大変ハイレベルな審査が行われます。特に第2次予選では、オペラの一役を自選し、全曲の中から指定された箇所を約20分間演奏して審査を受けます。これは世界でも数少ない審査方法で、出場者の発声技術や表現力はもとより、経験も問われる難度の高い内容で、本コンクールが「声楽」ではなく「オペラ」コンクールである所以でもあります。

コンクールの歴史

1996年に第1回「国際オペラコンクール in SHIZUOKA」が開催され、その後1999年、2002年と3年毎に回を重ね、2003年にはその実績が認められ声楽分野のコンクールではアジア初となる「国際音楽コンクール世界連盟」加盟が実現、これを機にコンクールの名称は「静岡国際オペラコンクール」と改称されました。3年毎の開催は2014年で第7回を迎え、現在、本コンクールの入賞者が世界各国の名立たる劇場で活躍しています。次回コンクールも若手オペラ歌手の登竜門として多くの注目を集めることとなるでしょう。

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国際音楽コンクール世界連盟(WFIMC)とは

各コンクール活動との調和、入賞者の援助などを目的として1957年設立されました。本部はスイス・ジュネーブにあります。高いレベルの加盟基準があり、権威ある国際コンクールの多くが加盟しています。静岡国際オペラコンクールは2003年にWFIMCに加盟しました。
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