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ノート:沈黙のパレード

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「原作との違い」について[編集]

原作との違いのみの羅列は推奨されていないこと、および 二次資料に基づいて詳細を記述することと、二次資料のない記述は除去することを予告しています。

もうしばらく待ちますが、本文の適切な箇所に組み込まれていない二次資料のない記述は除去いたします。--Haatouki会話2024年5月8日 (水) 17:33 (UTC)[返信]

告知が出された時点で抗議するべきだったのですが、このような妥当性を欠く告知は直ちに除去してください。
プロジェクト:映画/映画作品スタイルガイド#原作との違いにおける「原作との違いを羅列しただけの節」というのは、WP:IINFOが根拠になっていることからも解るように、量的にも質的にも整理されていない無秩序な羅列のことを指すと解するべきです。本件のような、要点のみを簡潔にまとめた箇条書が該当すると解するのは誤りです。
また、二次資料云々は主として「なぜそのような改変が加えられたのか、それが映画製作にどのような影響を及ぼしたのか、関係者がそれにどのように反応したのか、など」を意識した説明と解するべきです。本件のような場合、出典としては「原作そのもの」と「映像作品そのもの」のみで充分であり、それ以上のものを要求するべきではありません。
--Dakarananyanen会話2024年5月9日 (木) 14:07 (UTC)[返信]
原作の実写化の場合、書籍とは違って時間規制がありますので原作との違いが生ずるのは当然であると言えます。その違いのどれを記述するか、どのように記述するかだと思います。
プロジェクト:映画/映画作品スタイルガイド#原作との違いには、「それが映画製作にどのような影響を及ぼしたのか、関係者がそれにどのように反応したのか、などについては、本文中の適切な箇所に二次資料に基づいて詳細を記述してください。」とあります。制作過程やインタビュー記事などの出典を添えて、本文中に記述することによって記事が充実します。
Dakarananyanenさんの差し戻し理由も、出典を探す時間の要求だと理解しましたので、告知タグを貼り、またその上にここノートで、すぐにではないが本文に組み込まれていない文を除去するとの告知をいたしました。妥当性を欠くとは的外れなことを言われて大変驚いています。
鑑賞者が原作と違うと感じて出典も無しに「原作との違い」セクションに書いた文は、「百科事典にとって必要な現実世界の観点を欠いた、映画とその原作という二つのフィクション作品の単なる違いだけを記述することは避けてください。とりわけ、原作との違いを羅列しただけの節は避けてください。」に当たる、鑑賞者の鑑賞メモともいえる独自研究ですから除去されるものです。独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです。
Dakarananyanenさんが要約欄に書かれた「記事が育つのに従い、それらはそれぞれ関連した箇所に組み込まれるか」の続きは「記事から完全に取り除かれるべき」です。--Haatouki会話2024年5月10日 (金) 17:00 (UTC)[返信]

意味が読み取れない部分が多く(特に中盤)、どう反応するべきかかなり悩んだのですが、いずれにしても現状を「鑑賞者の鑑賞メモともいえる独自研究」と規定するのはWikipediaの基本ルールを曲解した言い掛かりです。原作と映像化作品の差異点を挙げるのは「原作」「映像化作品」という2つの情報源からの「現実世界の観点に基づく情報抽出」も他なりません。「抽出」の過程で独自研究を巧妙に隠すことは可能ですが、少なくとも明示的に独自研究になることは有り得ない。「抽出」があれば独自研究だという暴論を展開する人もあるようですが、それを認めるとWikipediaの記述のほぼすべてが独自研究ということになってしまいます。

もちろん、抽出結果を無節操に列挙すればWP:IINFOに抵触する可能性がありますが、それは別問題です。

改めて当該告知の速やかな除去と、現状が独自研究であるという誤った主張の撤回を求めます。

--Dakarananyanen会話2024年5月19日 (日) 07:21 (UTC)[返信]

返信 (Dakarananyanenさん宛) 現状の「原作との違い」は「原作との違いを羅列しただけの節」で「鑑賞者が違うと感じたことを無節操に列挙しただけ」にしか見えませんよ。
百科事典に収録するのに相応しい内容かどうかは出典があるかないかということになると思います。
百科事典にとって必要な現実世界の観点を欠いた、映画とその原作という二つのフィクション作品の単なる違いだけを記述することは避けてください。とりわけ、原作との違いを羅列しただけの節は避けてください。
私が上で書いた文は、ほぼ「プロジェクト:映画/映画作品スタイルガイド」や「Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)#現実世界の観点」からなのですが、どの部分の意味が読み取れないのかが理解できません。
ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できる情報源(ソース)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。このことをウィキペディアでは検証可能性 (Verifiability, V) と呼んでいます。検証可能性は、ウィキペディアの内容に関する三大方針の一つです。
「Wikipediaの基本ルールを曲解した言い掛かり」というのは「どのWikipediaの基本ルールをどう曲解している」とおっしゃっているのか、また、Dakarananyanenさんはこの要約欄でも「ガイドラインを曲解している」というフレーズを使われていますが、具体的に「どのガイドラインをどう曲解している」とおっしゃっているのか理解できませんので具体的にお願いします。--Haatouki会話) 2024年5月19日 (日) 17:42 (UTC)質問文の修正--Haatouki会話2024年5月21日 (火) 16:04 (UTC)[返信]

まさに「検証可能性」の問題ですよね。問題になっている現状の一体どこが「検証可能性」を満たしていないというのでしょうか。現状は「原作テキスト」と「映像化作品」という間接的に明示されている情報源から誰にでも容易に検証できる内容です。

もちろん「映像化作品」という情報源にはアクセシビリティの問題があります。しかし、これは単に映像化作品のあらすじを記述する場合でも同様です。これも併せて同等に問題だと主張するなら、それはそれで筋が通っているのですが、そういうわけではなさそうですね。

実のところ、プロジェクト:映画/映画作品スタイルガイド#原作との違いには、Wikipediaの基本原則からは論理的に導けない規範を規定しているようにも読めてしまうという欠陥があります。ですから、根本的にはスタイルガイドの改訂を議論せねばならないのかもしれませんが、今はその必要は無いでしょう。単に「論理的に導けない規範」を導くような読み方をしなければ良いのですから。

しかるに、Haatoukiさんのやっていることは、まさにそういう読み方です。現状スタイルガイドから「原作と映像作品との差異を列挙することは一切許されない」という「論理的に導けない」拡大解釈を導き、そういう結論が導出されるように「検証可能性」や「独自研究」の概念を歪曲しているということです。

--Dakarananyanen会話2024年5月25日 (土) 10:27 (UTC)[返信]

コメント 「原作と映像作品との差異」を記述するには二次資料が必要だと書かれています。
いまいちどプロジェクト:映画/映画作品スタイルガイド#原作との違いをよくお読みいただきご理解くださるようにお願いします。
また、私の二つ目の質問のこの要約欄の「ガイドラインを曲解している」といういうのは、「どのガイドラインをどう曲解している」とおっしゃっているのでしょうか?--Haatouki会話2024年5月25日 (土) 17:53 (UTC)[返信]

「二次資料が必要だと書かれています」というのは「Wikipediaの基本原則からは論理的に導けない読み方」の典型ですよ。正確に表現すると、二次資料が「どんな場合にでも必要」と読解する読み方は論理的に導けません。

この記述の直前には、専ら「おそらく多くの場合には二次資料が必須だろう」と思われる内容が列挙されています。しかし、これは「例示」に過ぎません。これを根拠に、ここに例示されていない事例にまで二次資料が必要だと主張するのは、曲解の典型です。

ガイドラインは一字一句を文言通りに正確に解することで真意が読み取れるという意味での「完璧な文章」ではありません。というか、そういう文章は現実的には存在し得ない。例えば、法律のように運用上「完璧な文章」でなければ困る文章は、その道のプロが完璧を目指してテクニックを尽くしますが、それでも穴だらけになります。ましてや、Wikipediaのガイドラインは言うまでもない。一字一句に囚われるのではなく、全体を通底している考え方を理解してください。

--Dakarananyanen会話2024年5月29日 (水) 11:18 (UTC)[返信]

返信 (Dakarananyanenさん宛) プロジェクト:映画/映画作品スタイルガイド#原作との違いを読めば普通に理解できる、そんなに難しいことは書いていないのにどうして理解できないんだろう?と不思議です。
ご自分でも二次資料のない箇条書きだと認めているのに、「原作との違いを羅列しただけの節は避けてください。」「記事から完全に取り除かれるべき」だと書かれているのに、どうして除去には反対するのでしょうか?
Wikipediaは百科事典で、ファンサイトやあなたのブログではないことを知っていますか?
Wikipedia:方針とガイドラインを読んだことはありますか?理解していますか?
フィクションに関する記事は「現実世界の観点に立って記述する」を読んだことはありますか?理解できますか?
Wikipediaのガイドラインに従う必要はないとお考えですか?
Dakarananyanenさんがなんども書かれている「Wikipediaの基本ルール」とか「Wikipediaの基本原則」というのはWikipediaのどういうことを言っているのでしょうか?--Haatouki会話) 2024年5月31日 (金) 17:12 (UTC)質問の修正。--Haatouki会話2024年6月1日 (土) 07:02 (UTC)[返信]

しつこいようですが、「原作と映像作品との差異を列挙することは一切許されない」というおかしな結論から逆に遡ってスタイルガイドを曲解するのはやめてください。もちろん、現行スタイルガイドにはそのように誤読されやすい欠陥があるわけですが、それは免責理由にはならない。

プロジェクト:映画/映画作品スタイルガイド#原作との違いの一番の問題点は「二つのフィクション作品の単なる違い」を書けば、例外なく「百科事典にとって必要な現実世界の観点を欠いている」と読めてしまうことです。それは論理的に有り得ない。そういう「違い」は「現実世界の観点」でも記述できるし「物語世界内の観点」でも記述できる。そこをきちんと峻別せよ……という意味に解さない限り、この文章は論理的に破綻した内容になってしまいます。避けるべきは「現実世界の観点を欠いた違い」です。限定のない全ての「違い」であると読むのは誤りです。

一方の、「原作との違いを羅列しただけの節は避けてください」という文言はWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありませんから導かれるものです。

判断基準は、現状が「物語世界内の観点」での記述なのか、「情報を無差別に収集」したものなのか、の2点です。どちらも該当しません。

--Dakarananyanen会話2024年6月2日 (日) 05:56 (UTC)[返信]

返信 (Dakarananyanenさん宛) このノートの冒頭からも書いているように、「原作と映像作品との差異を記述するには二次資料が必要だ」です。
また、「二次資料に基づいて本文中の適切な箇所に記述するように」ですから、「二次資料のない原作との違いを羅列しただけの節は除去するべき」となります。
結論から遡ったわけではなく、ガイドラインをきちんと読めば理解できそうなのに、自分は絶対に間違っていないと思って読むと、都合の悪いところはガイドラインの方に欠陥があると主張するしかないのかなと思いました。
Wikipediaは百科事典であり、たとえ検証可能であったとしても百科事典に収録するのに相応しい内容でなければ記載されるべきではありません。(Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか
「原作との違いを羅列しただけの節は避けてください」という文言は「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません」に書かれている「百科事典に収録するのに相応しい内容であるべきだ」に導かれるものです。百科事典に収録するのに相応しい内容とは、現実世界の観点に置かれた内容であるべきで、「二次資料のない原作との違い」は書くべきではないということです。
Wikipediaは百科事典で、ファンサイトやあなたのブログではないことを知っていますか? フィクションに関する記事は「現実世界の観点に立って記述する」を読みましたか? 理解できましたか?
WP:WAF#現実世界の観点に立って記述する」や「プロジェクト:映画/映画作品スタイルガイド#原作との違い」をきちんと読めば、「原作との違い」を記述する時にどうして二次資料が必要なのかの理由も書かれています。
Wikipediaのすべての項目は、独自の研究を認めない方針に従う必要があり、正確となるよう努力しなければなりません。(Wikipedia:五本の柱
お返事は急がなくてもいいですから、WP:5WP:!WP:NORWP:VWP:RSWP:WAFも、じっくりお読みいただき、理解されますようにお願いいたします。--Haatouki会話2024年6月2日 (日) 16:29 (UTC)[返信]

「結論から遡ったわけではなく」と臆面も無く言い切りますか。本気で無自覚なんですね。困ったものです。典型的なのは

現実世界の観点に置かれた内容であるべきで、「二次資料のない原作との違い」は書くべきではないということです

という文言です。「二次資料のない原作との違い」が無条件で「現実世界の観点に置かれた内容」に反するという理解が一体どこから出てくるんですか? ここから推測されるHaatoukiさんの思考過程は

「原作との違いを羅列」というのは「違いの羅列でさえあれば、量や質に関わらず全て」が該当するという、「そこまでは書かれていない」意味にまで拡張解釈する
→この結論が導出されるように基本原則を読まなければならない
→従って「原作との違い」は無条件で「現実世界の観点」に反さなければならない or 反しているに違いない

というものです。こういう思考を「結論から遡っている」と指摘しているのです。他人の思考過程を知ることなんてできませんが、そう考えねば合理的に状況を説明できない。

さらに言えば、「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません」が「原作との違い」云々に関わる側面と「現実世界の観点」云々が「原作との違い」云々に関わる側面とは全く質的に違うものです。それをゴチャゴチャに混ぜ込んでしまって、どういう論理の流れなのか全く不明な文章になってしまっていることを自覚されていますか? これも「原作との違いの羅列は量や質に関わらず全てが禁止されている」という結論を先に決め込んで、それを導こうと無理をしているからでしょう。使えそうだと思った「根拠」を論理のつながりも何も考えずに脈絡なく並列した結果なのではありませんか?

Wikipedia:五本の柱を始めとするWikipediaのルールを「じっくり読み直せ」という言葉はHaatoukiさん自身に向けてください。必要なことは文言を表面的に読むのではなく、各種の文章がどういう関係にあるのか、どの文言からどういう論理の流れで別の文言が出てくるのか、その文言が具体的な状況にどのような論理でどう適用されるのかということを、きちんと考えて読むことです。それを怠ることなく読めば、もし文章同志に内部矛盾があれば気になって仕方がないハズ。「原作との違いを羅列しただけの節は避けてください」という文言を「質や量に関わらず全てが無条件に禁止されている」と読むのは他のルールと矛盾するということに気付くハズです。

--Dakarananyanen会話2024年6月9日 (日) 04:52 (UTC)[返信]

横から失礼 横から失礼 該当部分の除去を行ったことがあるので全く無関係の人間ではありませんが、横から失礼してコメントを。
まず、当該作品については一切の知識を持ち合わせていないことを申し上げます。正直なところ、ここの議論を見る限り、Dakarananyanenさんがいつまでも納得しない利用者かつ方針・ガイドラインの曲解をしているようにしか見えません。
そもそも、今回問題となっている件について大前提とすべきガイドラインは、この節冒頭にてHaatoukiさんが提示された「プロジェクト:映画/映画作品スタイルガイド#原作との違い」でしょう。
プロジェクト:映画/映画作品スタイルガイド#原作との違いにおける「原作との違いを羅列しただけの節」というのは、WP:IINFOが根拠になっていることからも解るように、量的にも質的にも整理されていない無秩序な羅列のことを指すと解するべきです。
Dakarananyanen(会話) 2024年5月9日 (木) 14:07 (UTC)、ノート:沈黙のパレード#「原作との違い」について
と反論されていらっしゃいますが、再度一文ずつ読んでみませんか。
(以下「プロジェクト:映画/映画作品スタイルガイド#原作との違い」より引用。番号の割り振りはW4171n64Uによるもの。)
①文学、演劇、ミュージカル、場合によっては別の映画など、他のフィクション作品を原作とする映画は数多くあります。
②映画製作者たちは映画作品にそのような素材を取り込む際、さまざまな理由から改変を加えます。
③なぜそのような改変が加えられたのか、それが映画製作にどのような影響を及ぼしたのか、関係者がそれにどのように反応したのか、などについては、本文中の適切な箇所に二次資料に基づいて詳細を記述してください。
百科事典にとって必要な現実世界の観点を欠いた、映画とその原作という二つのフィクション作品の単なる違いだけを記述することは避けてください。
とりわけ、原作との違いを羅列しただけの節は避けてください。
ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません。
⑦書きかけの記事や封切られたばかりの映画についての記事では、原作との違いは一箇所にまとめて記述するしかないかもしれませんが、記事が育つのに従い、それらはそれぞれ関連した箇所に組み込まれるか、記事から完全に取り除かれるべきです。
(引用終了)
議論すべき点と感じた部分に下線マークアップを行いました。このガイドラインを読み解くと、
  • ③→①②といった内容を書きたいのであれば、「本文中の適切な箇所に二次資料に基づいて詳細を記述」する。
  • ④→文面そのままのためスルー
  • ⑤→「とりわけ、原作との違いを羅列しただけの節は避けてください」なぜならそれは⑥ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではないから。
  • ⑦→記事の初期段階では⑤のような「原作との違いを羅列しただけの節」になるかもしれないが、記事の成長に従い「それらはそれぞれ関連した箇所に組み込まれるか、記事から完全に取り除かれるべき」である。
上記のようになります。
ガイドラインに従うのであれば、③にもあるとおり「本文中の適切な箇所に二次資料に基づいて詳細を記述」すべきであり、「プロジェクト:映画/映画作品スタイルガイド#原作との違いにおける「原作との違いを羅列しただけの節」というのは、WP:IINFOが根拠になっていることからも解るように、量的にも質的にも整理されていない無秩序な羅列のことを指すと解するべきです。」といった反論はお門違いでしょう。そして③に従わずに記述された内容であれば、⑦のとおり「それらはそれぞれ関連した箇所に組み込まれるか、記事から完全に取り除かれるべき」、それだけです。
最初にも述べた通り、私にはこの作品に対する知識はないため情報の正誤は判断しませんが、たいていの内容は沈黙のパレード#登場人物に加筆すれば事足りる内容ではないでしょうか。ですが、繰り返しにはなりますが③「二次資料に基づ」く必要があります。
これに関して
まさに「検証可能性」の問題ですよね。問題になっている現状の一体どこが「検証可能性」を満たしていないというのでしょうか。現状は「原作テキスト」と「映像化作品」という間接的に明示されている情報源から誰にでも容易に検証できる内容です。
Dakarananyanen(会話) 2024年5月25日 (土) 10:27 (UTC)、ノート:沈黙のパレード#「原作との違い」について
と反論されていますね。確かに両作品を見ることで違いは分かるかもしれませんが、それらは「Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料」かつ「二次資料に基づいていない」に反します。現在の「原作との違い」節は、一切の出典がなく「私自身が読み、見て、検証したので原作との違いを書きました」の状態です。自身の読み見という体験をもとに加筆することは、人によって差異が発生することからも検証可能性を満たすとは言えません。下記に参照した方針を引用します。
たとえば、ある小説についてあらすじを記述する場合、その小説の文章を出典とすることは可能ですが、それについての解釈には二次資料が必要です。一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。記事全体を一次資料に依拠してはいけません。一次資料のみに依拠した大きな段落を作る場合にも慎重になってください。あなたの個人的な経験に基づいた記述を記事に加えてはいけません。そうすることにより、ウィキペディアが一次資料となってしまうからです。
なお、これ(Wikipedia:独自研究は載せない)は、ガイドラインではなく方針です。方針は「多くの利用者に支持されており、すべての利用者が従うべきものと考えられている基準です(WP:POLICIES)」。
そしてそもそも自身の読み見が根拠となれば、③「二次資料に基づいていない」こととなり、加筆すべきでないでしょう。
長々となりましたが、まとめとして上記の方針・ガイドラインに従って改稿するのであれば、
  • 二次資料に基づき、本文中の他節に内容を絡めるように文面を修正する。
  • 独自研究として節ごと除去する。
この2つしかないと考えます。
※返信がとても長くなってしまったため、必要であれば別節に分けてください。節名はお任せします。--W4171n64U会話2024年6月10日 (月) 03:00 (UTC)[返信]