レスラーノート

阿修羅原

本名:原進
1947年1月8日
長崎県北高来郡森山町出身
183cm 120kg

通称
ヒットマン
タイトル歴
アジアタッグ
PWF世界タッグ
WWUジュニア
世界タッグ
IWA世界タッグ
英連邦ミッドヘビー
得意技
ヒットマンラリアット

諌早農業高校では相撲で活躍。2年生の時に長崎県新人戦で優勝。3年生の時に国体予選九州大会個人戦で準優勝。全国大会でベスト16。2年生の時にラグビーを始める。 東洋大学に進学後はラグビーに専念。近鉄入社後は全日本代表として活躍した。 76年9月には日本人選手としてはただ一人、世界選抜のメンバーに選ばれた。11月に近鉄を退社。東洋大学のラグビー部コーチをして、運動具店に勤務。 77年11月29日、国際プロレスにスカウトされてプロレス入り。ミスター・フジというマスクマンとなってプレデビュー。 78年6月24日、飯山市民体育館大会でデビル紫のマスクを被りテストマッチ。6月26日、素顔になって大阪府立体育会館大会での寺西勇戦でデビュー。7月3日、海外武者修行に出発。カナダ・カルガリーに渡る。7月8日、ファイティング・ハラの名でアルバータ州エドモントンでノーマン・フレデリック・チャールズ3世を破り英連邦ミッドヘビー級王座を獲得。7月13日、チャールズ3世に敗れて王座転落。その後、ニュー・ブランズウィック地区に転戦。9月7日からススム・ハラの名で西ドイツのハノーバー・トーナメントに参加。12月8日に帰国。12月27日、ラグビーファンの作家、野坂昭如の命名により阿修羅原に改名。野坂の草ラグビーチームのコーチをしていた関係もあった。 79年5月6日、後楽園ホール大会でミレ・ツルノのWWU世界ジュニアヘビー級王座に挑戦。1本目は5分48秒、回転エビ固めでツルノの勝利。2本目は4分4秒、ダブルアームスープレックスで原が勝利。3本目は5分43秒、ブロックバスターで原が勝利。WWU世界ジュニアヘビー級王座を獲得した。5月7日、富士市民体育館大会でツルノと再戦。18分10秒、原のバックドロップで両者ノックアウトの引き分けに終わって防衛に成功。7月20日、大館市民体育館大会でダイナマイト・キッドを相手に防衛戦。評判以上のキッドの動きに大苦戦し、18分37秒に両者リングアウトの引き分けで王座を防衛。7月21日、村上市体育館大会で原のWWUジュニア王座とキッドの英連邦ジュニア王座のダブルタイトルマッチ。1R4分での7Rのポイント制という試合形式となり、判定による引き分けで王座を防衛。7月25日、三島市民体育館大会でキッドと3度目の対戦。ノンタイトルマッチの3本勝負で行われたこの試合では、2対1で勝利した。10月5日、ネルソン・ロイヤルのNWA世界ジュニア王座に挑戦。試合はロイヤルのペースで進む。試合終盤、原のバックドロップにロイヤルがロープを蹴って防御すると、両者同時にマットにダウン。14分15秒、両者ノックアウトに終わった。 80年3月31日、後楽園ホール大会で剛竜馬を相手にWWUジュニア王座の防衛戦。反則勝ちで防衛したが、試合内容では剛に圧倒された。4月3日、新日本プロレスの蔵前国技館大会で藤波の持つWWFジュニア王座に挑戦。12分56秒、逆片腕固めに敗れた。 81年1月2日に再渡米し、ルイジアナ州を中心に転戦し、ヘビー級に転向。3月24日に帰国。4月18日、凱旋帰国試合でスティーブ・オルソノスキーを雪崩式ブレーンバスターで破る。5月16日、後楽園ホール大会でマイティ井上と組んでポール・エラリング、テリー・ラザン組を金網デスマッチで破りIWA世界タッグ王座を獲得。8月9日の大会を最後に国際プロレスが崩壊。当初は新日本プロレスへの参加が決定していたが、マイティ井上と共に全日本プロレスに参加。10月2日、後楽園ホールでの全日本プロレス第1戦で天龍と対戦。13分28秒、両者リングアウトの引き分けに終わった。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦で天龍と組んで参戦。リーグ戦を1勝7敗で終えた。 82年1月15日、木更津市倉形スポーツ会館大会でスタン・ハンセンと対戦。ハンセンが新日本プロレスから全日本プロレスに移籍してからの初試合だった。2分25秒、ラリアットを豪快にくらって敗れた。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦で天龍と組んで参戦。リーグ戦を2勝3敗1引き分けで終えた。 83年2月23日、井上と組んでアジアタッグ王座を獲得。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦で井上と組んで参戦。リーグ戦を1勝6敗で終えた。 84年2月16日、石川敬士と組んでアジアタッグ王座を獲得。4月11日、大分県立荷揚町体育館大会で天龍のUNヘビー級王座に挑戦し、両者リングアウト。4月16日、後楽園ホール大会で天龍のUNヘビー級王座に挑戦し、首固めにフォール負け。10月20日の下関大会から「精神的スランプ」を理由に欠場し、失踪。 85年4月3日、山形県体育館大会で長州力を襲撃。なぜか履いていたウエスタンブーツで長州の顔面を殴打して大流血に追いこんだ。4月19日、神戸ワールド記念ホール大会で長州を再び襲撃。4月24日、横浜文化体育館大会で全日本プロレスに復帰。天龍と組んで長州、浜口組と対戦し、天龍の頭にイスを振り下ろし「おれは1人でやっていく!」と宣戦布告し、試合放棄。その後、「ヒットマン」の異名で活躍。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦でラッシャー木村と組んで参戦。リーグ戦を1勝3敗3引き分けで終えた。 86年10月30日、青森県営体育館大会でスーパー・ストロング・マシンと組んでアジアタッグ王座を獲得。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦ではスーパー・ストロング・マシンと組んで参戦したが、マシンの負傷欠場により残り5戦を不戦敗となって全敗に終わった。 87年6月、天龍と天龍同盟を結成。地方大会でも手抜き一切なしの荒々しく激しいファイトを展開。サンドイッチ・ラリアットやサンドイッチ延髄斬りなどの合体技で魅了し、天龍とのタッグは「龍原砲」と呼ばれた。9月3日、スタン・ハンセン、オースチン・アイドル組を破りPWF世界タッグ王座を獲得した。年末の世界最強タッグ決定リーグ戦で天龍と組んで参戦。6勝2引き分け3リングアウトで準優勝。87年度のプロレス大賞で天龍と最優秀タッグを受賞した。 88年8月29日、日本武道館大会でジャンボ鶴田谷津嘉章組を破り世界タッグ王座を獲得。8月30日、大阪府立体育会館大会で鶴田、谷津組に敗れて王座転落。11月19日、天龍と共に全日本プロレスの一時代を築いたが、私生活の乱れが原因で解雇された。 91年7月22日、SWSと契約し、現役復帰。8月4日、長岡市厚生会館大会で冬木と組んでの天龍、石川戦で現役復帰。10月29日、福岡国際センター大会でウォーロードと対戦。5分29秒、キング・ハクが乱入したため反則勝ち。11月10日、札幌中島体育センター大会のメインで天龍と対戦。15分19秒、パワーボムに敗れた。 92年2月12日、後楽園ホール大会でザ・グレート・カブキと対戦。8分19秒、ラリアットで勝利。3月14日、青森県営体育館大会で川畑と対戦。1分27秒、逆エビ固めで勝利。同大会でアポロ菅原と対戦。4分13秒、ラリアットで勝利。3月16日、秋田県立体育館大会で平井と対戦。4分13秒、ラリアットで勝利。同大会で畠中と対戦。3分11秒、ラリアットで勝利。3月18日、新潟市体育館大会でアポロ菅原と対戦。4分15秒、ラリアットで勝利。同大会で大矢と対戦。6分1秒、パワーボムで勝利。3月22日、後楽園ホール大会のメインで谷津と対戦。16分1秒、ジャーマンスープレックスに敗れた。6月19日の大会を最後にSWSが崩壊。7月14日、WARの旗揚げ戦に参加。 93年8月3日、両国国技館で新日本プロレスのG1クライマックスに参戦。1回戦で蝶野正洋と対戦し、12分28秒、ケンカキックからの元祖STFに敗れた。 94年3月2日、両国国技館大会で天龍と組んで大仁田ターザン後藤組と対戦。18分13秒、大仁田のサンダーファイヤーパワーボムに天龍が敗れた。この試合でプロレス大賞のベストバウトを受賞した。10月3日、引退記念試合の天龍戦で敗退。引退試合となった29日の後楽園ホールでは、第5試合に出場。天龍と組んで冬木、邪道組に敗れた。メインの時間差バトルロイヤルでは天龍と決勝まで残り、驚異的な粘りの末、29分21秒、パワーボムに敗れた。 引退後は故郷に帰り、99年に母校の諫早農高で筋力トレーニングのコーチとなる。 01年5月5日、FMWの川崎球場大会で天龍対冬木戦の特別レフリーとして登場。 02年4月から県立農業大学校で体育の非常勤講師となる。同年秋にはコーチしていた諫早農高のラグビー部が全国大会に出場した。その後、職を離れて隠遁生活。 15年4月28日、長崎県諫早市内の病院で肺炎のため死去。



スクラップブック
――78年6月26日、大阪府立体育会館で原さんは寺西さんを相手に海外武者修行壮行試合(デビュー戦)を行いました。ただ、その前に地方でテストマッチをしたという噂がありますけど。
鶴見 それはないでしょ。
高杉 いや、ありましたよ。長野県で、マスクを被って。
鶴見 えっ、そんなのやったっけ?
高杉 (試合記録を見ながら)ここですよ。6月24日の飯山市民体育館。
鶴見 大阪の2日前だ!
高杉 第1試合はデビル紫vsスネーク奄美になってますけど、実際は原さんが紫さんのマスクを被って、奄美さんと試合したんですよ。で、紫さんは休み(笑)
鶴見 よく憶えてるね(笑)。
高杉 俺、その日は試合が入ってなかったから、セコンドでしっかり観ていましたもん(笑)。原さんは、ミスター・フジというリングネームでしたよ。
鶴見 飯山なら、マスコミは誰も来てないよね?デビルvsスネークで発表されて、こうして記録として残っているわけか。
高杉 そうです。社長もわざわざ飯山まで観に来ていましたよ。これが実質的なデビュー戦ですからね。ミスター・フジという名前も社長が考えたはずですよ。大阪はテレビ中継だから、恥をかかせたくなかったんでしょうね。
鶴見 社長も必死だったんだろうな。試合はどうだったの?
高杉 良かったですよ。絞っていたから筋肉質のいい身体をしていたし、動きもスムーズでした。その頃、資材部だった長沢秀幸さんも試合を観ていて、「これはいい選手になりますよ」って太鼓判を押していましたね。
――残っている記録によると、結果は12分31秒、片エビ固めで紫(原)の勝利です。
(Gスピリッツ Vol.36 鶴見と高杉のインタビューより)