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更新日:2014年5月26日

忍城に関する歴史

忍城の築城

戦国時代,行田周辺の武蔵武士の中から、現在の熊谷市上之を本拠地とする成田氏が台頭し、忍城(おしじょう)を築城しました。
文明11年(1479)の古河公方足利成氏(あしかがしげうじ)の書状に「忍城」、「成田」とでてくることから、このころには築城されていたと考えられます。
当時の城主は成田顕泰(なりたあきやす)といい、以後親泰、長泰、氏長と四代にわたり、天正18年(1590)まで、約百年のあいだ成田氏が忍城主でした。

永正6年(1509)、忍城を訪れた連歌師の宗長は、城の四方は沼にかこまれていて、霜で枯れた葦が幾重にもかさなり、水鳥が多く見え、まことに水郷である、と日記に書いています。
忍城の築かれた場所は、北は利根川、南は荒川にはさまれた扇状地で、小さな川が乱流するとともに、伏流水が寄り集まって広大な沼地となっていました。そこに残る島や自然堤防をたくみに利用して、忍城が築かれました。

石田三成の水攻め

天正18年(1590)年3月、豊臣秀吉は関東平定のため、そのころ関東を支配していた北条氏の拠点である小田原へ出陣しました。忍城主の成田氏は北条氏に属していたため、秀吉方の武将、石田三成によって攻められることになりました。
6月5日、三成は地形や季節を考えて水攻めを計画し、約1週間で延長28キロにもおよぶ堤を築き、利根川と荒川の水を引き入れるという大作戦をおこないました。
しかし、城が沈まなかったため、これを見た人々は城が沈まないのは浮くからだと考え、忍城は「浮き城」として、その名を轟かせました。現実には、忍城の地形がまわりよりも少し高かったため、沈まなかったと考えられます。
その後堤は切れてしまい、水攻めは失敗に終わりました。忍城の戦いは小田原城が7月6日に開城した後も続きましたが、最終的には開城して7月14日に豊臣軍に引き渡されました。
三成の築いた堤は、市内堤根地区に「石田堤」として、今も一部がのこっています

石田堤の見学

行田市堤根地区

行田市教育委員会文化財保護課行田市本丸 2-20電話048-553-3581

江戸時代の忍城

天正18年(1590)徳川家康が関東に入ると、家康の四男松平忠吉が十万石で忍城に入城します。
以後江戸時代をつうじて、忍城には徳川の譜代や親藩の大名が城主として入りました。
寛永16年(1639)に幕府の老中であった阿部忠秋が五万石で城主となると、忍城と城下町の整備がはじめられました。
元禄7年(1694)、孫の阿部正武のときに十万石となり、元禄15年(1702)には御三階櫓(ごさんかいやぐら)が完成し、名実ともに忍藩十万石の城としてのかたちが整いました。
文政6年(1823)に阿部氏が福島県の白河へ移ると、忍城には三重県の桑名から松平忠堯(まつだいらただたか・奥平松平氏)が入り、以後明治維新まで松平氏が城主でした。
現在の御三階櫓は昭和63年(1988)に再建されたものですが、江戸時代の忍城ゆかりの遺品として、時鐘(じしょう)があります。この鐘は、享保2年(1717)伊勢桑名藩主松平忠雅によって鋳造され、文政6年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのにともなって、忍城へ移されたものです。もともとはお城の二ノ丸にあって、時の鐘として時刻を知らせていました。
現在忍城址の鐘楼につるされた鐘は、平成4年(1992)に再造されたもので、本物は郷土博物館に展示されています。毎年大晦日の夜には、この鐘の音が除夜の鐘として、市内に響きわたります。

城下町行田

行田(ぎょうだ)は忍城の城下町として発展してきました。
東西に走る本町通り(絵図中央の大通り・現在の国道125号線)と、本町通りから南にのびる新町通り(あらまちどおり・絵図右側の縦にのびる通り)に面して、さまざまな町屋がありました。この通りは、日光参詣の脇往還で、鴻巣から館林にぬける街道でもありました。
二つの通りの交わる交差点には、高札場があり、その付近には本陣・脇本陣がありました。
また、本町通りの東で南にわかれる通りは、大工町ともいわれ、阿部氏の忍城修築のとき集めた大工さんたちが住んだことから、その名がついています。

<絵図:城下町行田>

 

 

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