昭和33年(1958年)5月29日夕刻、広島県三原市で死者1名と軽症者20数名を出した毒ガス集団中毒事件が起こった。原因は鉄屑屋で扱った空容器に、青酸が残存していたのであった。戦後、10数年を経過した時点に於て、なおも、大久野島は一般民衆の生活の中に尾を引いているのであった。
また、広島大学医学部病理学教室山田明助教授の調査結果に依れば、昭和20年(1945年)春頃まで、大久野島で作業に当たった工員のうち、昭和33年(1958年)5月現在、呼吸器の悪性腫ヨウで死亡した15人の大半が、ノド癌で死亡していた。
われわれが、在職中上司から終始一貫して言われたことは、「同じ失敗を再度繰り返すナ。」 ということであった。だから、ガス事故に就いてもその都度処置対策が採られ、傷害範囲は年々縮小されて行った。
しかしながら、今となって反省することは、化学兵器の製造に携わったわれわれは、勤務に就いた当初から呼吸器を始め、内部疾患が徐々に進行して外観では気付かずにいた点であった。終戦後、これが後遺症として禍し、山田助教授の言われる結果となったのではなかろうかと考えた。
原爆都市広島は、あれだけ騒がれあれだけ世界の認識と理解を得たに反し、この広島から僅かに70キロメートルの距離にある大久野島の実状が、いまもって、なぜ取り残されているのだろうか、新聞報道によれば、戦後10数年を経過した今日、きのう一人、きょう一人と既に70人近い人が毒ガスの犠牲になったと報じていた。
かように、戦後に残る大久野島の印象は暗い面も多いが、明るい面として満足に思ったのは、昭和35年(1960年)5月30日、厚生省と広島県が発表した国民休暇村の大久野島建設プランであった。さいわい工事も順調に進み、近く完成すると聞いた。また、昭和36年(1961年)から総工費40億円で、電源開発会社が着工した中・四国を結ぶ22万ボルトの超高圧送電線用の鉄塔、高さ226mが建設されたニュースで、これらに就いては一度現地で見聞したい気持ちで一ぱいである。
ため息と共に思い出すままを書いたが、温故知新という言葉が現在の心境のように思えてならない。社会保障の充実が国内治安の確保と国家繁栄の基礎であるといわれる今日、わたしはこの機会を捉え、かつて大久野島に在職した数多くの犠牲者に対し、陽の当たるよう為政者の方々に次のことをお願いする次第である。
一 毒ガス中毒者に対し、社会保障を優先的に 実施せられたい。
二 毒ガス中毒による死歿者に対し、弔慰金を 支給せられたい。
三 毒ガス中毒による死歿者遺族に対し、救済 補償の国策を立てられたい。
さいわいこの記事が、われわれに待望の夜明けをもたらす為、少しでも役立つならば、不肖にとって身に余る光栄である。どうか皆様の絶大なご支援とご協力をお願いする次第である。
終わりに臨み、幾多殉職同志のご冥福と、併せて旧知諸氏のご健康、並びに更生大久野島の幾久しく発展せんことをこいねがう所存である。
更生大久野島に寄せて
面白やつつじの咲きてガス匂ふ
昭和三十八年五月
服 部 忠