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2003/4/24
世界に通用する選手を育てるには
日本オリンピック委員会副会長 小掛照二氏

 今から約半世紀前の1956年、広島県上下町出身の陸上選手が三段跳びで世界記録をマークし、一躍脚光を浴びた。その年、メルボルン五輪での金メダルの夢は破れたものの、その無念の思いをメダリスト育成にかけた。日本オリンピック委員会(JOC)の常任委員、理事として20年。この3月末、副会長を最後に退いた小掛照二さんに、選手育成にかけた熱い思いと、今後の課題について聞いた。(時永彰治)

 ◇ 底辺広げ 逸材発掘 ◇

JOCの20年  日体協離れメダル狙う

 ―世界と戦える日本人選手育成の先頭に立ったJOCの二十年。一番印象に残っていることは。

 JOCが日本体育協会(JASA)から独立した時のこと。八八年のソウル五輪が終わった後、日本選手団の報告会で僕が意見を述べたことがきっかけになった。

 ―ソウル五輪の金メダルは韓国が十二個、日本は四個。惨敗だけに議論が白熱したでしょうね。

 そうじゃなかった。「韓国はよくやった」とか、「赤のブレザーと白のスラックス、スカートの時代じゃない」とか、そんな話ばかり。そこで僕は「厳しい成績を踏まえて四年後を目指して頑張りましょう、という言葉が聞きたかった」と注文した。それがきっかけでその後、やはり独立し、予算も持って頑張っていかないと駄目だ、という話に進んでいった、金メダルを狙うには思い切った取り組みが必要だ。後で大先輩から「若い小掛の勇気ある発言が独立に導いた」という言葉をいただいて恐縮した。

 ―昨年の釜山アジア大会など、多くの世界大会で日本選手団団長として選手の尻をたたきましたね。

 釜山大会はとても残念な結果だった。前回は五十二個だった金メダルが四十四個。前回は十二個獲得し、とりわけ期待された陸上が二個と大会史上最低だったのは悔しかった。日本陸上競技連盟(JAAF)副会長でもあり、思い出すのも腹立たしい。

 ―九四年の広島アジア大会は古里でもあり、思い入れが相当強かったのではないですか。

 広島大会を盛り上げようと、初めて全競技のコーチ会議を広島で開催するなどいろいろと提案し、実行した。全体的にはまずまずの成績だったし、副団長としてほっとした。

 ―期待されながらメルボルン五輪は8位に終わりました。どうしてですか。

 実は自分が世界記録をだした時は体調がよくなかった。朝、競技場で下痢したくらい。ようしこれなら五輪も、と思っていた。ところが、直後の合宿でカメラマンの要望もあって何度も跳んだら、足首をひねった。本番では駄目だった。いい気になっていたし、運もなかったと思う。

 ―その無念の思いがJOC活動へつながっていくのですね。

 続く六〇年のローマ五輪代表に選ばれず、陸上をやめた。そうしたら二年後に郷土の大先輩、織田幹雄さんから選手を育て、自分の果たせなかった夢をコーチでかなえてほしいと誘われた。織田さんの言葉が、その後の活動の原動力になった。

 ―オリンピックでの勝利には特別な思いがあるようですね。

 二〇〇〇年シドニー五輪女子マラソンで、高橋尚子選手がやってくれた時は本当に泣いた。オリンピックに対する執念は、誰にも負けないものがあったからね。

 ―大きな舞台は素質に加え、運も必要ですか。

 大リーグに挑戦している松井秀喜がそうだ。彼には強運がある。前の打者が敬遠されて満塁の場面でホームランを打つ。最高の場面だ。何かありますよ、これは。そういうものは自分の力だけじゃなく、運というか、星があるような気がする。

 日本にも素晴らしいものを持った選手がたくさんいるはず。早く見つけ出して、時間をかけて鍛えていけば、オリンピックのチャンピオンをつくれるんです。これからも、チャンピオン誕生の手助けをしていきたい。

厳しい競技環境  地域拠点の充実欠かせぬ

 ―ところで、スポーツを取り巻く環境は厳しいですね。企業スポーツが長引く不況で転機に差し掛かっています。
釜山アジア大会開会式で行進する日本選手団の小掛団長(先頭から3人目)=2002年9月29日

 これまで、スポーツ選手は大学や高校から企業に入って本格的に続けてきた。今は受け入れる企業が少なくなった。陸上でも長距離やマラソン、駅伝以外は企業の採用がない。個人種目は就職できない学生チャンピオンがたくさんいる。五輪につながる選手だから、預かってくださいと個々にお願いしている。世界で戦える選手が育つような環境じゃあない。

 ―世界陸上の四百メートル障害で銅メダルをとった広島出身の為末大選手は大阪ガス入りしました。

 広島に受け入れる企業がなくて。地元で採用してもらって選手として頑張り、将来は指導者として地元に恩返しする。そういう仕組みが必要ですよ。

 ―チームゲーム競技は廃部や休部が相次ぎ、特に大変ですね。

 バレー、バスケット、ハンドの球技は、五輪に連続して出られない状態が続いている。元気になるようJOCは強力に支援していく必要がある。競技団体も危機感を持ち、発展的な構想を打ち出さないといけない。広島では女子ハンドボールがクラブチームに衣替えした。仕方ないじゃなく、いろんな知恵を絞ってやることが必要だ。

 ―地域で取り組みが始まっている総合スポーツクラブ化についてはどうでしょう。

 国体も二巡目に入り、全国各地に立派な施設ができた。ところが、地域スポーツの拠点としては十分に活用されていない。施設に指導者がいれば、みんなが訪れて体を動かし、汗を流す。各競技団体は指導者の認定制度を設けているが、現実はそれを生かす場が少ない。指導者を支える措置を国でやってほしい。将来的には、総合的なスポーツクラブの拠点として充実させ、日本に根付かせたい。そうすれば、トップアスリートへの理解も深まる。

「スポーツ広島」復活  男子駅伝刺激にホープ誕生期待

 ―陸上はどんな取り組みを考えていますか。

 陸上ファミリーをつくる構想を持っている。陸上にはトップ選手や競技を目指す人だけでなく、同じように汗を流す市民ランナーがたくさんいる。みなさんに登録してもらい、記録会などにどんどん参加してもらう。

 ―二十日にあった長野マラソンは、市民ランナーが世界のトップ選手と一緒に走りました。

 競技エリートと市民が一緒に走る日本で初のマラソンで、僕が提案した。この流れを東京、大阪のマラソンにつなげていきたい。東京の銀座の真ん中をランナーが走り、皇居前がゴールというのが夢です。街の活性化にもなる。市民と競技団体が一体となって盛り上げていこう、という機運も育ってくる。

 ―古里の広島は、かつての「スポーツ王国」の面影がありません。

 われわれがやっていたころ、バレーボール、サッカーなどが盛んだった。今は厳しい。企業スポーツがだめになったことが大きい。ただ陸上に限れば広島アジア大会の後、全国都道府県対抗男子駅伝が始まった。この二十九日にある織田記念陸上も続いている。八月、パリである世界陸上の男子マラソンには広島から四人の代表選手が出場する。男子駅伝がいい刺激になっている。これからは中学生、高校生が必ず育ってくる。

 ―世界陸上の四人にはメダルが期待されています。

 春の高校野球選抜大会で、広陵が優勝した。そのとき、縁起がいいなと思った。十二年前に広陵が優勝した時、カープも優勝した。東京であった世界陸上でも、男子マラソンで谷口浩美選手が優勝した。今度も中国勢の中からメダルは行けるんじゃないかなという気がしている。金メダルは難しいかもしれないが、メダルを取ればアテネ五輪にも出場できる。本当に楽しみにしている。


 大舞台知る重み感じた

 「世界で戦える日本人選手の育成」。インタビュー中、何度も口からでた言葉だ。日本人選手が世界の舞台で演じてきた悲喜こもごものドラマを、間近で見てきた人の重みがあった。

 日本オリンピック委員会を退いたとは言え、日本陸連副会長として陸上競技の発展、底辺拡大に向けてひた走る。

 「東京、大阪のマラソンを多くの市民が走れる大会に切り替えたい」「陸上ファミリーをつくりたい」。これからのプランも具体的に語ってくれた。実現に向けて動きだしているという。

 大会や会議など東奔西走の日々の合間を縫ってのインタビュー。「スポーツジム? 特に体を鍛えていないよ。大丈夫。毎日、動き回っているからね」。タフな行動力に寄せられる期待はまだまだ大きい。(時永)

「今後もトップアスリート育成の手助けをしたい」と語る小掛さん
こがけ・てるじ 1932年広島県上下町生まれ。上下高校で全国高校選手権の陸上・三段跳び優勝。早大卒業後、大昭和製紙へ。56年、日本選手権の三段跳びで16メートル48の世界記録を樹立。その年のメルボルン五輪は8位。引退後の62年に日本陸連強化コーチ。83年に日本オリンピック委員会常任委員、89年理事、99年から副会長。89年から日本陸連強化本部長を務め現在副会長。バンコク(98年)と釜山(2002年)の両アジア大会で日本選手団団長を務めた。藍綬褒章、国際オリンピック委員会(IOC)のオリンピックオーダー銀賞を受賞。東京都港区在住。70歳。

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